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ケラサスの使者  作者: 岡倉桜紅
第二章
82/172

29 ライ

ぴかぴかのギターをかき鳴らす路上のバンドマン。それを一心に見つめる少年がいた。地下のさびれた通りの歩道で命を削るかのように、でも心底楽しそうに叫んでいる。指が絡まってほどけなくなるんじゃないかと心配になるほどの速弾きを軽々と弾き、最後の一音で少年に汗だくの顔でにっと笑いかける。

もう、虜だった。


ギターケースを背負い、大きめなサイズのパーカーを着た真っ赤な髪の少年。それがその少年の3年後の姿だった。その辺によくいる、軽率で調子のよい若者、といったいでたちになったが、ギターの腕は多少あり、あの頃憧れていたあの速弾きのフレーズも、今では弾けるようになっていた。

「よう、ライ。今日も演るのか?」

通りかかった少年が軽く手を上げて近づいてくる。腕に刺青が目立つ。

「今日はあっちの通りで演るよ。なんとなく客が多そうだから。クルスもドラム叩きに来てよ。きっといいライブになる」

「あー、アマクサ通りか?俺、今日は用事がある。気が向いたらな」

クルスと呼ばれた刺青の少年はそう言って通り過ぎていった。

ライはアマクサ通りの歩道で広そうなところを選んで機材をセットした。しばらく演奏をしていると、何人か通行人が立ち止まって足元に置いてある空き缶の中に小銭を入れていった。

そろそろ時間的に最後の一曲になりそうだ。ライは少し音量を上げた。息を素早く吸って、速弾きを始める。すぐに体が音楽に乗ってきて、観客なんか気にならなくなる。もしかしたら誰も聞いていないかもしれない。でも、そんなの今はどうだっていい。弾くことが楽しかった。最後の一音をかき鳴らし、辺りに静寂が戻るのを感じる。

ガシャン、という金属の音がして足元を見ると、空き缶に小判が入っていた。顔を上げると、男が立っていて、ライの前で拍手をした。

「大変結構。これで気が済んだか」

「父さん……?」


ライの父親は、ライの前でギターを破壊した。大きな屋敷の一室で、破壊されたギターの破片が飛び散って暴力的な音を響かせた。ライはただ拳を握りしめて父親がギターを破壊するのを黙ってみている他なかった。一通り破壊しつくして満足したのか、父親はライの前に立った。

「なぜ学園にも行かず、地下の薄汚い場所でこのような道楽に興じていたのか、俺を納得させる理由があるなら言ってみろ」

「……」

「エラーズの友達もいるみたいだな。なぜ地上に生まれ、必要なものはなんでも手に入るという恵まれた環境で生きてきて、そんな連中と付き合おうという発想に至るのか説明してみろ」

「僕はなんでも手に入るとは思わない」

「この生活に不満があるとでも?何が欲しいんだ、言ってみなさい」

「勉強じゃなくて音楽がしたい」

父親はライを殴った。ライは部屋の壁まで吹き飛ぶ。父はランク上位の元チャレンジャーで、体は鍛えられて引き締まっている。

「お前の今いる位置からこの部屋の扉まで普通に歩くと約4秒ほどかかる」

「はあ?」

「2秒やるからとっとと失せろ!――勘当だ。出ていけ」

ライはふらふらする足で立ち上がり、血の混じった唾を吐き捨ててその部屋を出た。自分の部屋で荷物をまとめる間、学園入学の祝いとして買い与えられたペンがついに一度も変形されることなくケースに入っていた。職人に作らせた決して壊れない逸品らしいが、もう知ったことではなかった。どうせ勘当するつもりならギターを壊すパフォーマンスはいらなかったんじゃないか、と思ったが、ギターを壊したことで、勘当した憎き元息子の苦しみが増すのは、あの父親の思うところかもしれない、と思い直した。

ライは南ブロックの富豪の家に生まれた。両親はどちらも真っ当な、いわゆる良い職に就いていて、幼いころから今まで、金で買えるものならば欲しいものは何でも手に入った。もちろん、地上にあり、勉強の役に立つものに限っていたが。

ライは振り返ることもなく屋敷をあとにした。適当に列車に乗る。中央の地下に行こう。地下を極端に忌み嫌うこの家にはいたくなかった。もう手遅れなほど広がった価値観のずれ。三年前、地下に初めて足を踏み入れた時に僕の人生は変わってしまった。父親の思う通りに生きてやるものか。


それから数か月経った。新しい曲を書いては路上で歌った。新しいギターを買ったら金はすぐになくなった。ついに財布は裏地が見えるようになった。

ギターをケースにしまって通りを歩く。暗い路地や、露天商の視線の不気味さにはまだ慣れない。自然と速足になる。

一枚の紙が、前を歩くヒトの鞄から滑り出た。危うく踏みそうになる。前を歩く人物は落としたのに気づいていないようで、そのまま歩いていく。

「落としたよ」

ライは紙を拾い上げて前の人物に言った。その人物は足を止めずに遠ざかっていく。人通りが多いのですぐに見失う。黒髪の背の低い少年だ。歳はライと同じが少し小さいようだ。

「ちょっと!すみません!落としましたって!」

ライは叫んで、視界を阻む道行く人を避けるようにぴょんぴょん飛び跳ねるようにして少年を追った。少年は暗い路地に入っていった。ライも路地に入ると、奥にドアがあった。ドアベルを鳴らそうとしてドアを見るが、ドアベルもインターホンもついていないようだ。

ライはそこで初めて手に持っている紙を見た。普通のコピー用紙や、本に使われている紙よりも少ししっかりした厚紙、いや、画用紙だった。光のあふれる、美しい地上の都市の水彩画だった。街中に水辺や川があり、水面が光を反射してきらきら光っているさまが描かれている。おそらく東ブロックの都市だろう。

本当に感動した時、ヒトは放心してしまうんだな、と思った。ただぼうとして、感想なんか言葉にできない。言葉にするのもおこがましい。大昔の芸術家が言った。『私の絵を見て、多くの人は理解する必要があるかのように、わかったふりをする。私の作品はただ愛すだけでいいのに』。本当にそのとおりだ。僕には理解できないけれど、きっと理解の必要はないんだとわかる。

あんまりきれいで見とれていたので、ドアが開いて自分のことを少年が見ていることに気が付かなかった。画用紙が軽く引っ張られてライははっとして顔を上げる。

「あの、これ、君が描いたの?」

少年は鳶色の目でライをじっと見つめたまま黙っている。

「この絵、あなたが描いたんですか?」

ライはもう一度はっきり言い直した。少年はライをしばらく見つめていたが、画用紙から手を放し、顔の横に手の甲を上にした手を持ってくると、仰ぐように上下に振るしぐさをした。

「耳が……聞こえないの?」

ライはどうしたらいいかわからなかったが、自分の耳を指さして見せる。少年はうなずいて、部屋の奥に引っ込んだ。部屋の中がちらりと見える。狭い部屋だった。薄暗くてよく見えないが、壁にはぎっしりと絵が貼り付けられ、キャンバスや画材が床にはあふれていた。ベッドやキッチンなど、生活感を感じるものは何も見当たらなかった。少年はすぐに新しい画用紙と鉛筆をもって出てくる。

『届けてくれてありがとう』

少年はライに見せた。ライは画用紙をもらうと、字を書いて見せる。

『その絵が気に入ったので、売ってくれませんか』

財布にいくらも入っていないことはわかっていたが、気付くとそう書いていた。少年はそれをじっと見ていたが、やがてゆっくりと首を横に振った。

「どうして?」

大通りのほうでバイクの集団が集まる音がして、騒ぎ始める。少年は大通りのほうをちらりと見ると、ライに入れ、と言うかのように手招きした。


少年の部屋は絵の具のにおいがしていた。ライが今までに嗅いだことのない、不思議なにおいだった。

少年は部屋の中央にある机の上から筆洗(ひっせん)や絵筆の立ててある筒を退かして床に置き、ライに椅子をすすめた。机は絵の具で汚れて、元の色がどんな色だったかまるでわからなかった。

少年は二つの不揃いなお椀に雑穀米のおかゆを作ってそのうちの一つをライの前に置いた。

「いや、食事なんて、大丈夫だよ」

ライは身振り手振りで遠慮の意を示そうとしたが、少年はぷいと顔をそむけた。

『絵についての話は、食事のあとにしよう』

少年はキャンバスの前に置いてあった椅子を引きずってきてライの前に腰かけると、おかゆを食べ始めた。

すこしためらうが、腹は正直で、おいしそうに湯気を立てるおかゆを前にしてぐうぐう音を鳴らしている。

「……っいただきます!」


『絵ならあげるよ』

食事が終わった後、少年は書いた。

『いや、お金は払うよ。今は無理かも知れないけど、絶対に払うから』

『お金はいらない』

少年がかたくなに代金の受け取りを拒否するので、ライは困惑した。

『どうして?美しいものにはその対価を払わなきゃ。僕がこの絵にどれくらい感動したのか、受け取ってよ』

『気持ちはうれしい。でも僕が対価をもらっていいのなら、欲しいものはお金ではない』

『なにが欲しいの?』

『僕と住んでくれないか』

少年は落ち着いた顔をしていた。ライは思わぬところからの要求にあっけにとられたが、やがて頷いた。

『僕で良ければ』

少年の名前はダイといった。


ダイは基本的に部屋から出ずに絵を描いていた。時々、通りに出て外の空気を吸いながら絵を描いた。

外で作業するときなどに手伝いをするうちに、ライはダイの絵にのめりこんでいった。ダイは見てもいないのに光あふれる地上の風景画を描く。本当に同じ風景が存在するのかしないのかわからないが、その美しさは語彙を忘れてため息が出るほどだった。

『まずはさ、美しい、きれいだ、好きだ、そう思ったら、それを言葉にしてみることだ。どこが気に入ったのか、どうしてそれが美しいのか。言葉にするっていうのは、適当な言葉を与えて感情を片付けるってことじゃない。君の語彙を尽くしてそのまんま美しさを表現するんだ。そのうち、知っている言葉ではどうしても表現できないものがあることに気付くかもしれない。辞書を隅から隅まで見たって言い表せないものに出会うだろう。語彙にはないけれど、美しいということがわかった。その能力を感受性というんだよ』

ダイは夕食を食べ終えてからよくそんな話をライにした。ライはすっかり手話を覚え、ダイと会話ができるようになっていた。ダイに出会ってから、語彙が足りなくてしょうがないな、とライは思った。

『焦らなくてもいい。美しさはどこにだって存在しうる。本や絵、音楽、詩、劇、写真、彫刻……。そんなもの以外にもあふれている。音、色、言葉、風……。石一つ取ったって、そこに美しさを感じるヒトがいればそれは芸術になる。君は常に追い求めなくてはいけないよ』

ダイは静かにゆっくりと手を動かした。


『どうして僕にいっしょに住んでほしいと思ったの?』

ライはある日そうダイに聞いた。ダイは微笑を浮かべて答える。

『君の感受性に心を打たれたからだよ』

『どういうこと?』

『そういうことさ。君はいい音楽家になる』

『聞こえないのにどうしてわかるのさ』

ダイは微笑むばかりだった。

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