21 伊尾の過去③
夏休みが終わり、次の日が模試だった。二学期も、奏は当然クラスに来ることはなかった。
「今回の模試は特別難しかったようだ。あまり数字だけを見て落ち込まないように」
模試の次の日、ホームルームで担任が試験結果を返却していた。
「手ごたえは?」
伊尾のすぐ前の席に座る天原が振り返って聞いた。席は名簿順なのでいつも天原が一番で、その後ろに伊尾がいる。
「まあ、普通かな」
「だよな」
天原は軽く肩をすくめた。
「一番から取りに来いよ。天原」
「はあい」
天原は手を伸ばして結果表を受け取った。続いて伊尾も受け取る。
「せえので見よう。いつもみたいに」
天原と伊尾は結果表を見せ合った。天原は全教科において満点で、全国一位だった。そして伊尾は難しい、と言われていた教科で10点落とし、二位だった。
「ナイスー!ワンツー決まったな」
天原は笑顔で拳を差し出す。
「そうだね」
伊尾はグータッチをする。自分の拳が震えていないか、それだけを意識していた。手のひらからは冷たい汗がにじみ出ていた。
勉強に集中できる気分ではなかったので、放課後、すぐに塾には行かずに校舎が閉まるまでは教室にいることにした。
朝の気持ち悪い冷や汗がまだ手のひらに残っているような気がして、伊尾はしきりに制服のズボンに手をこすりつけた。
チャイムが鳴った。窓からは夕焼けが見えていた。
伊尾は苦笑した。この汗はただの嫉妬だ。天原は僕の見えないところで僕以上の努力をしたまでだ。僕の努力が及ばなかっただけだ。もう帰るか。
階段を降りようとして、踊り場に人影があった。
「こんにちは、伊尾君」
そこに壁に体を預けるようにして座り込んでいたのは奏だった。
「久しぶり」
実際、最後にあった日から一週間も経っていないのだが、伊尾は自然とそう言っていた。
「久しぶりなような気がしますね。まだ覚えてますよ」
「君を救う方法を考えたよ」
伊尾が言うと、奏は目を見開くようにして、少し首をかしげる。
「夏休みの自由研究ってやつですか?」
「それに近い」
「それは、ありがとうございます」
「信じてないでしょう」
伊尾はしゃがんでカバンを開け、中からノートを取り出す。
「時間移動を使った手術を試したことはある?これは数日前書いたほんの設計図の下書きの下書きだけれど、こういう理論を使えば、君の病気はなんとかなるんじゃないか。この理論っていうのは、まずこういう公式があるらしくて、それを応用して、こういうふうな装置を作ってエネルギーを送り込むとするだろ……」
伊尾が説明するのを奏は小さくうなずきながら聞いていた。すべて伊尾が話し終えて顔を上げたとき、奏はうっすらとほほ笑んでいるようだった。
「ありがとうございます」
「まだ、信じてないよね」
伊尾はノートをしまった。奏に肩を貸して階段を下りる。降りていくうちに少しずつ奏の足も動くようになってきて、昇降口に着くころには支えがいらないほどになっていた。
「それじゃ」
伊尾が別れようと背を向けたとき、奏の声が追いかけてきた。
「私、うれしかったです」
伊尾は振り返る。
「私を覚えていてくれて」
「忘れるわけないよ。記憶力は日々鍛えてるから」
奏は泣き笑いのような表情をしたが、逆光で伊尾には見えなかった。
家に着いてカバンを下した時だった。スマホがポケットから転がり落ちる。LINEのメッセージが届いた。天原からだ。家が隣なので、注意していればお互いの生活くらいわかる。伊尾が帰ってきたことを察知したのかもしれない。
『俺の部屋に来てよ』
伊尾は制服を部屋着に着替え、天原の部屋に向かった。
伊尾がドアをノックするかしないかというときにドアが開き、天原が顔を出す。そして、伊尾に一枚のプリントを渡した。
「模試の詳細結果?これがどうかしたの?」
「ヒストグラムをよく見てくれよ」
ある科目の試験の点数が横軸で、その点数を取った人数が縦に積み重ねられて、どの点数を取ったものが多いのか全体の分布を知ることができる表だ。通常ならば、平均が50点で、そこが一番高い山のような図が現れることが多いが、今回の模試は様子が違うようだった。山の一番高いところが20点ほどにあり、裾野が極端に狭い。つまり、この模試を受けた人のほとんどが20点付近の点数を取っているのだ。作問者の難易度設定ミスと言わざるを得ない。
しかし、その裾野と被ることなく、山のはるか遠くの100点に近い場所に外れ値が二つあった。満点を取った天原と、その後ろの伊尾だ。二人だけがこの模試において、驚異的な成績を残していた。
「僕たち、意外とすごいのかもね」
そう言う伊尾の手からプリントを半ば奪い取るようにして天原は言った。
「伊尾、やっぱりお前も、ギフテッドだったんだな」
「はぁ?ギフテッド?」
「そうだよ。これだけ他の人たちと圧倒的な差があれば、間違いないよ。実はさ、少し前にこんなメールが来たんだ」
天原は伊尾にノートパソコンの画面を見せた。
「ここを読んで。『あなたはギフテッドです。その才能を存分に生かすお手伝いをさせていただきたいです』。急に知らない人からメールが来たと思ったら、巨額の奨学金を保証されたかと思えば、妙な会員にさせられて怖いと思っていたんだ。メールを送ってきた人が属している組織では、今ギフテッドの才能を求めていて、協力してほしいらしいんだ。協力する、と返事すれば、一生好きなことを探求できる最高の施設と資金がもらえる。でも、もし協力者が必要だと言うなら、俺だけじゃなくて伊尾だってその資格があってしかるべきだろ。伊尾も俺と同じとわかってよかった!伊尾、一緒に行こう」
「ま、待って。天原。天原と僕がギフテッド?そんなわけないだろ。詐欺メールじゃないの?」
伊尾は興奮している天原に言う。
「この休み中、メールの発信源も調べたし、組織のことも調べた。政府の金でできている日本一最高な技術力の組織だよ」
「日本一……?まさかその組織ってもしかして、『カプセル』?」
「え、知ってるのか?やっぱり伊尾のところにも来てたんだな、招待状!早く言ってくれればよかったのに。やっぱり、俺と伊尾はギフテッドだったんだ」
天原は伊尾に抱き着いた。伊尾は思わずその体を振り払った。
「違う」
「え?」
「違う!!」
彼が本当に理解の及ばないようなところへ行ってしまったかのようだ。目の前の昔からの友人が、まったくわけのわからない異物に見えた。ああ、こいつはギフテッドだったのか。つまり、天才だったわけだ。数年前まではよかった。天原が頑張って勉強しているのを見ていたから。でも、最近数年はどうだ?この休みの間、天原は努力していたのか?僕の努力を、時間を、天原は軽々と超える。
「お前と一緒にするな。僕の努力を、天才だったからの一言で片づけるな!」
「俺はそんなこと、」
天原は天才だったのか?目の前の異物は確かに天才のように見える。僕が努力で入りたがっている、入りたくてしょうがないと熱望する組織への切符をもいとも簡単に手に入れて見せた。
認めたくない。伊尾の胸の中で、猛烈な感情が巻き起こった。認めるものか。天才なんかいない。天原の努力のやり方の効率が良かったんだ。それか、もっと幼いころからの何等かの積み重ねが僕よりもあった。それがたまたまあの組織の人にはギフテッドだったかのように映った。それまでだ。じゃあ、僕にもできる。
「天才なんか、いないんだ!」
伊尾は怒鳴った。そうでもしないと、目の前のこいつの持つ、圧倒的な生まれ持ったものに押しつぶされてしまう。
「伊尾、落ち着いてよ」
「二度と口にするな。お前なんか、天才じゃない」
「認めろよ!お前もギフテッドだ」
「僕には招待状は来ていない」
天原は一瞬、ショックを受けたような顔をした。
「お前が行きたいなら勝手に行けよ。勝手にしろ」
伊尾はドアを乱暴に開けて出ていった。
『あなたの着眼点はとてもすばらしいし、装置の設計も細部までこだわりぬいているのは認めます。しかし……』
面接官は言葉を濁した。近未来的な外装の高層ビルの一室、伊尾とおよそ10人のモニター越しの面接官は対面していた。
「しかし、しかしなんなんですか?」
伊尾は椅子から立ち上がって電子黒板のタッチペンを握りしめた。
『あなたの研究がうまくいったとて、その技術によって助かる人間がどの程度いるという見積もりでしょうか?』
「現在、脳が委縮する進行性の病を患う人は一万人以上います。それに、この技術は脳の時間移動だけではなく、もっと高度な研究につながる重大な足掛かりとして科学の発展に多いに寄与するはずです!ああ、これは僕が高校二年生の時に書いた設計図なのですが……」
伊尾が説明しようとするのを遮るように面接官は口をはさんだ。
『世界に一万人、ですよね。私共の組織は日本の安全な未来を目指しています。日本にそういったどうしようもない病の患者はごく少ない。脳に病を患う患者全治の中で、ほとんどがそんな新たな分野から技術を引っ張ってくる前に、医療の力で解決できると思います。そのあたりはどうご説明されますか?』
別の面接官が言った。
「待ってくださいよ。この面接は、僕の今までの独自の研究を評価するためではなくて、僕の才能について評価するためでしょう。僕はこういった発想をもとに、ここまで精密な研究計画を立てられる人間だということは評価してくださらないのですか」
また別の面接官が少し笑った。
『その評価はすでに済んでいます。だから、この時間を少しでも有効活用するために、その研究について尋ねているのです』
「え、ああ、それじゃあ僕は採用ってことですか?」
今度は面接官全員が笑った。
『いいえ。今までの会話ですでにわかっております。あなたには計画に加わる資格はない。あなたはギフテッドではありません』
「なっ!」
伊尾がかっとしてモニターにつかみかかるが、面接官たちの顔は変わらずそこにあった。
『もう説明するおつもりがないのならば、そろそろお引き取りください』
面接官が言って通信が途切れる。モニターにはno signalと表示されるばかりだった。伊尾は持っていたタッチペンを乱暴に床に投げつけた。
伊尾は白い病室に入る。延命装置の機械音が等間隔で聞こえてくる。
「奏。こんばんは。伊尾だよ」
ベッドの上には奏が眠っている。数か月前、息の吸い方を忘れて呼吸困難になり、入院している。
あの夏からちょうど二年が経った。『カプセル』は今月で研究員の募集を締め切る。
「……面接、落ちちゃったよ」
伊尾は丸椅子を引き寄せ、腰かけるとつぶやく。
伊尾はあれから必死に勉強し、日本一の大学に入り、自らの研究を続け、『カプセル』のメンバーとして認められるべく努力した。奏とは今年の四月、つまり、四か月前からよく会っていた。奏の記憶はどんどんなくなっていく。時間がなかった。
空の色が薄くなって、雲は小さくなっていく。八月が終わる。
伊尾はベッドのしわを直し、病室を出た。
「あら、今日もお見舞い。どう、彼女さんの調子は」
すっかり顔見知りになった年配のナースが話しかけてくる。
「はは、彼女ではないんですけど」
「あら、そうだったの。いつもお見舞いに来ているものだから。失礼しちゃったわね」
「いえ、いいんです」
「浮かない顔ね」
「こうしているうちにも奏の記憶はどんどんなくなっていくんです。僕になにもできないのが歯がゆくて」
ナースは微笑んだ。
「未来への過度な心配よりも、今は、明日元気になることを信じてみたら?雲に隠れるように見えなくなるだけで記憶は蓄積されるの。あなたはその雲を一瞬でも晴らすことをしてあげたらどう?例えば、そうね。花束をあげるとか」
伊尾は曖昧にうなずいた。そんなことは気休めだ。彼女を救う方法は、彼女の脳がまだ正常だったころ、ナースの言葉を借りれば雲が少なかったときと交換することだけだ。
「また来ます」
伊尾は病院を後にした。
駅までの最短経路を通るために、病院を出てすぐの公園を突っ切ろうとした時だった。
良く知った人物がブランコに腰かけていた。そいつは片手を軽く上げて合図をした。
「久しぶりだな。伊尾」
よりによって、今日世界で一番会いたくない男だった。
「ああ、久しぶり。天原」
「話を聞いたよ」
なんの話かわからなかったが、天原が病院のほうへ顎をしゃくったので、おそらく伊尾と奏の関係についてだろう。
「それがどうかしたのか」
「伊尾のやりたい研究がわかった。その研究、俺に引き継がせてくれないか」
「僕が落ちたことはもう組織内では周知の事実か。情報が回るのはずいぶん早いんだな」
「だから来たんだよ。俺ならその研究を続けることができる。あの子も助けられるかもしれない」
天原は伊尾のカバンを見つめる。
「……嫌だ。僕のことはもうほっといてくれ。住む世界が違う、と勝手に線を引いて出ていったくせに。上から目線で手を差し伸べるのか?僕はお前を上だとは認めていない」
天原はため息をついて立ち上がる。
「意固地になるのはやめろよ。俺の組織は日本一の研究施設があるんだぜ」
「僕だって勉強してきた。僕の大学でも同様なことができるはずだ」
「お前は、プライドのために勉強しているのか?」
伊尾の手からカバンが落ちる。
「僕は……」
天原はカバンを拾い上げ、黙って去って行った。伊尾は夏の終りの公園で一人立ち尽くした。