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ケラサスの使者  作者: 岡倉桜紅
第二章
73/172

20 伊尾の過去②

伊尾が教室に入ると、奏が既に一番真ん中の一番前の席に座っていた。

奏は今日も特に机になにか広げるでもなく、ぼうとして時計のあたりを眺めていた。伊尾は黙って参考書を広げ、昨日中断したところから勉強を再開した。

昼になって伊尾は一つ横の席に移動して弁当を広げる。奏も水筒とカロリーメイトを出して食べ始める。

食事を終えてまた勉強を再開し、夕方になって伊尾は立ち上がる。

「それじゃ」

何か言わずに出ていくのもなんだか気持ちが悪い気がしたのでぼそぼそと伊尾は言った。

「また明日」

奏は振り返って言った。

天原の言っていたムーンショット計画について少し調べないといけないなとぼんやり考えながら伊尾は地下鉄に乗る。塾に向かいながら、いつもより一時間ほど早く帰宅しようと思った。

結局天原は自分が熱弁していたことを忘れたのか、はたまた他のことに興味が移ったのか、昨日の続きを話そうとはしなかった。

代り映えのしない夏休みがゆっくりと、でも確実に過ぎていった。


「……こんなところで、何してるの?」

八月が一週間過ぎた頃だ。伊尾が早朝に校舎の階段を上っていると、階段の踊り場に奏が座り込んでいた。朝のひんやりとした木の床に膝を抱えるようにして座っていた。状況は全くわからないが、朝のよどみない空気の中でその姿は妙に美しく見えた。

「座ってます」

奏は答えた。

「……そうだね」

なぜ座っているのかを知りたかったが、明確な答えは得られなかった。振り返ってみれば彼女の行動は最初からよくわからないものばかりだった。

「もう少し時間が経ったら教室に行きます」

「そう」

彼女が動こうとしないので伊尾はすべきこともなく、階段を上っていくしかなかった。

昼に伊尾が顔を上げると、彼女はいつもの場所にいた。

なんだったんだろう、と伊尾は思ったが、口に出すことはせずに、いつも通り無言で昼食を終え、勉強をし、時間通りに教室を出た。

「それじゃ」

「また明日」


彼女が座り込んでいた日の翌日、彼女は教室に現れなかった。次の日も。そして、三日経った日の昼に彼女は現れた。伊尾が弁当を食べているときに前のほうの扉が開いた。

「おはよう」

奏は言った。

「うん、おはよう」

伊尾も返した。奏はいつもの席に座るのかと思いきや伊尾のすぐ前の席までまっすぐ歩いてきて、伊尾のほうに椅子を向けて座った。

「伊尾君。お願いがあるんです」

「……何?」

真剣な目をしていた。少しうるんでいるようにも見えた。

「私に花火というものを見せてくれませんか?」

「は、花火?」

奏は頷いた後で少し表情を崩した。

「私、実はこの学校に友達いないんですよ。いや、正確にはこの学校以外にも一人もいないんですけど」

なるほど。彼女は僕にいっしょに花火大会に行かないかということを誘っているのだ。たしか、明日の夜に河原で花火大会が開催されるはずだ。伊尾自身あまり興味はなかったので行くことになるとは思わなかったし、誘われるとはもっと思っていなかった。不登校で妙な行動を多発している女の子でも、きれいな女の子に誘われてうれしくないといえば嘘になるが、いや、待て。もしかしてこれはおちょくられていたりするのだろうか。花火大会はカップルがウヨウヨしていることくらい彼女にもわかっているだろうし、この高校の他の生徒も参加するに違いない。クラスメイトに見られる可能性もある中でいくら友達がいなくても、自分を選ぶだろうか。もしかしたら、ネット上には多くの友達がいて、このまぬけな男をモニタリングしようという意図が……?

「私、今まで一度も本物の花火を見たことがないんです」

予想しないところからの発言に伊尾は思考を一度止めた。

「一度も?」

「はい。画像では見たことありますが。お願いできませんか?」

「なんで僕?」

「え、だから、私本当に友達いないんです。今日まで教室でいっしょに過ごしてきて、伊尾君しかいないと思ったんですよ」

「そうですか」

つられてですます調になる。

「いい、ってことですか?」

奏はぱっと顔を明るくした。

「まあ、いいですけど。明日だよね。六時にここを出れば花火も見れると思うよ」

「ありがとうございます!」


その日の夕方はあっけなくやってきた。

「じゃあ、行きますか」

二人は校門を出て電車に乗って、花火大会に向かった。会場に近づくにつれて浴衣の男女が増えてくる。そんな中で、二人だけは制服だった。

会場に着くころにはあたりは暗くなっていて、屋台の明かりとつるされたぼんぼりが人のごった返す道を照らしている。奏は物珍しそうにあたりをきょろきょろしながら伊尾の半歩後ろをついてきていた。

「ほんとに初めてなの?花火大会」

伊尾が聞くと、奏はうなずいた。

「じゃあ、なんか食べる?」

奏は嬉しそうにまたうなずいた。二人はりんご飴を買った。屋台の通りを抜け、河原に座る。

奏は小さな口を開けて真っ赤なりんご飴に歯を立てる。

「思ったより、硬いですね」

そう言って笑った。花火が上がった。りんご飴のつやに光が映る。

またりんご飴から奏に視線を移した伊尾は理解できずにたじろいだ。奏の目からは涙があふれていた。透明なその液体は頬を伝って顎から落ちていった。

「え、どうしたの?大丈夫?」

奏は滴り落ちたその液体が自分の涙であることが信じられない、というような表情をしたあと、取り繕うように言った。

「すみません、なんでもないですよ」

奏は立ち上がり、どこかへ行こうとする。伊尾はその手首をつかんで引き留める。

「待って!話してよ。泣くほどのことがあったんだろ」

「泣くほど、花火がきれいだったんです」

奏は伊尾の手を振りほどくと、走って行ってしまった。伊尾も追いかけようとしたが、人込みに紛れてすぐに見失う。どう見たって大丈夫な方の涙ではなかった。屋台の通りを抜けると、もう花火大会の会場ではなく、普通の住宅地へつながる道に出てしまった。犬の散歩をしながら花火を見上げる人、ランニングをする人、庭先に出て家族と花火を楽しむ子供。

「桜田さん!」

ブロック塀に寄りかかるようにした制服の少女がいた。伊尾が来るのを見ると、反対の方向へ歩き出す。拒絶だ。伊尾は立ち止った。

奏は伊尾のいる方とは反対の方向の道を進み、踏切を渡る。そのとき、彼女は転んだ。転んだ、というよりも倒れたという表現のほうが正しいかもしれない。踏切は音を立てて降りようとする。彼女は動かない。

「危ない!」

伊尾は必死に走って、彼女の体をつかむと反対側まで投げ出すようにし、自分も転がった。間一髪で電車は二人の横を走っていった。

「ありがとう」

彼女は言った。しかし、彼女の体はすっかり脱力した状態で、まったく動かなかった。伊尾は彼女を担ぐようにして踏切の外に出た。


「私は、脳に病気を患っているんです」

住宅街のブロック塀に体を預けるようにしながら奏は語り始めた。

「私の脳は少しずつ萎縮していき、十年後には今の記憶はすっかりなくなってしまいます。私の人生はすでに折り返し地点を過ぎました。折り返しを過ぎてから覚えようとしたことはなかなか頭に入らなくなり、さらに折り返しを過ぎる前に覚えたことも少しずつ忘れていきます。人生という白紙の本に一日一ページずつ思い出を書き込んでいくとします。他の人は毎日書き込んでいって、前のほうのページの文字が少しずつ薄れていって読みにくくなっていくのに対して、私の場合は、一日一ページずつ書き込んでも、一ページずつどこかのページがなくなっていく、そういう感じです。過去数週間のことはまあまあ覚えていられているはずですが、本の最後のほうから白紙がなくなるかもしれないし、本の前のほうのページ、つまり、幼少期に覚えた大切な記憶、歩き方とか、息のしかたとか、そういうのがなくなるかもしれません。つまり、……あと十年もないんですよ」

伊尾は奏が学校の階段の踊り場で座り込んでいたときのことを思い出す。あれは、さっきのように立ち上がり方や歩き方を忘れてしまったから、動けなくなっていたのだ。

「僕のことは覚えているんですか?」

「はい。直近のことは覚えていられることが多いというのもありますけど、伊尾君は、いつも変わらずにいましたから。いつも同じ時間、同じ場所、同じ挨拶。高校に入学して初めて私の記憶に存在したクラスメイトなんですよ」

「花火が見たいって言ったのは……」

「はい。花火はきっと私は何度も見ているんです。でも、そう思って見ていても、どうしても初めて見たような感じがする。一年前のことはもうすっかり覚えていられないみたいなんです。でも、見たかった。結局見たけれど、この感覚も忘れてしまうんだろうなって思ったんです。すみません。自分で見たいと言って連れてきてもらったのに、迷惑をかけてしまいましたね」

奏はゆっくりとぎこちなく立ち上がろうとした。

「治す方法はないんですか」

奏は笑った。儚げな笑顔だった。伊尾は奏に生きていてほしいと思った。

「伊尾君は優しいですね」

奏は立ち上がり、言葉を続けた。

「治らないですよ。私の脳みそがこのまま変わらないでいてほしいとは、少し考えるときはありますけど。これは進行性で、今の医療じゃ、止められないんですよ」

奏はすっかり普通に歩けるように戻っているように見えた。


深夜、伊尾は自分のパソコンの前に座っていた。奏の病気とは。脳とは。記憶とは。

彼女の病気の場合、記憶は蓄積はされるのだが、記憶のデータを読み込む機能が壊れていって、記憶を引っ張り出すことができなくなっていくというものだった。今のところ、どんなにすばらしい手術用AIを使ってもそれを取り除く手術はできそうにないようだった。

伊尾は天原にこのことを相談しようかと思ったが、部屋をノックしようとして、なぜかそれをしたくない自分がいることに気付いた。伊尾は自分の部屋に戻った。ふと、伊尾は自分の机の上にムーンショット計画の資料が開いてあることに気付いた。⑥時間移動技術の発展。頭に電流が流れたかのようなショックを感じた。無我夢中でパソコンを開き、調べる。時間移動。その技術を使えば。

もしかして、これなら……?これなら奏を救えるかもしれない。

『カプセル』。それがその組織の名前だった。

「……二年後、計画の実行開始……!」

時間移動。それは、最近やっと民間で話題になってきているが、実際は何十年も前から一部の研究者、研究組織の内部のみで研究が進められていた。『カプセル』は、ムーンショット計画の遂行を加速させるために日本政府が独自に作り上げた組織であり、他の科学の分野ではもちろん、時間移動の最先端の研究ができるほどの設備をもつ。今の日本に『カプセル』以上に時間移動の研究ができる場所はない。『カプセル』は現在、研究員を募集していた。推薦、または特殊なテストをパスすることでメンバーになれるらしい。

変わってしまうのならば、戻ればいい。永遠に、今のままでいればいい。未来の奏の脳だけを、今の奏の脳と置き換え続けるんだ。時間移動の技術なら、医療の不可能を塗り替えることだってできる。

伊尾の顔は火照り、目はらんらんと輝いていた。

「勉強だ。勉強すればいいんだ。僕が一番組織のメンバーにふさわしいと証明するんだ」

伊尾は机に向かった。

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