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ケラサスの使者  作者: 岡倉桜紅
第二章
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19 伊尾の過去①

夏が終わる。色が少しだけ薄くなって、少しだけ肌寒くなった空の下、イオは楽園に向かっている。外の風を感じるのも、本物の空の色も、青い海も、これでしばらくお別れとなる。イオは白い月を見上げた。



教室の窓から白い月を眺める。先週から高校は夏休みに入ったが、伊尾は制服を着て早朝から登校し、一人教室にいた。朝が早いのでまだ部活の朝練すら始まっていない。誰もいない校舎と校庭はしんとしていた。

席は一番後ろの窓際。伊尾はシャーペンをノックして芯を出し、参考書を開く。伊尾の高校は進学校であったので、受験を控える高校三年生のために夏休み中は校舎が自習室として開放されていたが、二年の教室には当然ながら誰も来ない。伊尾のためだけの自習室というわけだ。

伊尾はノートに数式を綴っていく。

正午にチャイムが鳴って伊尾は顔を上げる。吹奏楽部の楽器の音や、野球部の応援の声がしていた。参考書を閉じ、シャーペンを置く。机の上を片付けて昼食を取り、また同じように広げるのは面倒に思えたので、鞄から弁当の包みを取り出し、自分が隣の席に移動して弁当を広げる。

包みを広げ、いただきますのために手を合わせたときだった。パチンと手を合わせる音が二つ同時にした。

教室の真ん中、一番前の席に一人の女子が座っていた。

「え」

いつからそこにいたのだろうか。存在に今初めて気づき、伊尾は驚きで思わず声を上げた。

「あ、やっと気づきましたね」

その女子は振り返ってにこっと笑った。髪の長い、肌が白い女の子だった。真夏だというのに、春風を吸い込んだ時のように感じた。わけもなくそわそわと浮足立つような、季節が思ったよりも進んでいることに初めて気づいて戸惑うような、ひんやりしているのに花の匂いがするような。

「はじめまして。桜田奏(さくらだ かなで)です」


伊尾は頭の中の二年A組のクラスメイト名簿を引っ張り出す。さくらだ かなで。そんな女子がいただろうか。二年生になったときにクラス替えはあったが、すでに一学期が終了しており、伊尾はすべてのクラスメイトと親しいわけではないが、顔がわからないほど交流が少ない人はいないはずだった。しかし、この女子を見た記憶が思い出せない。

伊尾の疑問を見透かして解説するように奏は言葉を続けた。

「私、このクラスですけど不登校なので教室で会うのは初めてですよ。入学式はさすがに行きましたけど、もう一年以上前の話ですもんね」

ああ、たしかそんな子がいたっけ。

「……補習、ですか?」

奏が今教室に登校し、昼食を食べている状況を最もうまく説明できる理由を伊尾は聞いた。

「まあ、そんなところでしょうか」

はぐらかすように奏は笑った。彼女の机には蓋がコップになるタイプの水筒とカロリーメイトの箱しか置いておらず、彼女の座る席の隣の席には彼女のものらしきトートバッグが置いてあったが、中身は大して入っているようには見えなかった。

「いつからそこにいたんですか」

「割と朝からいましたけど。あなたが全然顔を上げないので、私、とうとう透明人間になったかと思いました」

伊尾は勉強を始めるとその他のものが見えなくなるほど集中することが多かったので、勉強を始めた後に入ってきたとしたら気付かなかったとしても無理はない。

「無視していたわけじゃないんだ。集中してた」

「いいですよ。別に。私、よく影が薄いって言われるんです」

「そうですか」

奏は少し頬を膨らませるようにした。

「どうしたの?」

「別になんでもないです。……それより、さっきまですごく集中して勉強していたんですけど、何を勉強してたんですか?」

「これ?ああ、これは休み明けの模試の対策。模試の順位で勝ちたいやつがいて」

「ふうん。ちょっと見せてくださいよ」

奏は席を立って伊尾のほうへ歩いてきた。参考書を細い指でぱらぱらめくる。

「すごい。私は全然わかんないです」

「そう」

「私にもちょっと教えてくれませんか?この、うにょーんってした形のやつ、気になります」

奏はインテグラルを指さしながら聞く。

「ごめん。忙しいんだ。質問なら向こうにある1棟の数学研究室に行けば誰かしら先生が教えてくれる」

「そっか。ごめん、邪魔でしたよね」

奏は少し寂しそうな表情をして、元居た席に戻っていった。

伊尾は食べ終わった弁当箱をしまって、参考書が開いてある方の机にまた移動し、勉強の続きを始めた。

日が傾いて窓から日差しが差し込み始めたので白いカーテンを引いた。やがて、カーテンが必要なくなるころ、伊尾は顔を上げた。

もう奏は帰っているかと思っていたが、まだ一番前の真ん中の席に座っていた。机になにも出さず、ただぼうっとして黒板の上にかけられている時計のあたりを眺めていた。

「僕はもう帰るけど。それじゃ」

奏は何も言わないので伊尾はそのまま教室から出ようとしたとき、奏の声が追いかけてきた。

「明日も来ますか?」

「まあ、うん」

正直、この妙な不登校の女子と二人きりの教室よりももっと適切な勉強場所、例えば別の教室とか、図書館とか、塾とか、そういう場所はたくさんあったはずなのになぜか伊尾はそう答えていた。伊尾は勉強は集中できる場所でやることを決めていたが、彼女は伊尾に迷惑をかけることもなく、伊尾が彼女に迷惑をかけることもないので、教室を変えたいとまでは思わなかったのだ。

「よかった」

奏はにこっと笑った。別にあんたの話し相手になるつもりはないんだけどね、と伊尾は心の中で言って、教室を出た。


学校は夏休みの間、基本的に午後六時に校舎の戸締りがされる。

街は夕暮れだったが、コンクリートからはまだむわっとした熱気が立ち上っているように感じた。コンビニでウィダーインゼリーを買って、その足で地下鉄の駅へと向かう。都会の真ん中だというのに蝉がうるさかった。伊尾はイヤホンを耳に入れ、英単語の聞き流しを始める。

家の最寄り駅の二駅前で降りて塾に入る。自習席のいつもの場所に座り、ゼリーを飲みながらやりかけだった参考書のページを開く。午後十時半になって、塾の先生がいそいそと掃除機をかけ始めたころに伊尾はやっと家路につく。

スマートフォンにLINEのメッセージが届いていた。天原だ。

『わからない問題があるんだけど、今日来てくれない?』

天原は伊尾の住むアパートの隣の部屋に住んでいて、幼少期からのつきあいだった。いわゆる幼馴染というやつだ。

『いいけど、どうした?』

天原は幼い時から頭が良かったし、頭を使うのが好きだった。勉強に関しては同級生たちよりもはるかに早く深く物事を理解するし、並みの教師よりもわかりやすく説明する。しかし、授業中もつまらないと思っていることを上手く隠して馴染む器用さも持ち合わせていた。とにかく、伊尾が質問をすることはあれど、天原から質問が来ることはかなりまれだった。

『テクノロジ系』

ときどき天原は伊尾に対して説明を省く。伊尾はスマホをポケットにしまい、アパートに帰った。


「天原、入るよ」

ドアを開けると、天原は部活のジャージ姿でノートパソコンをいじっていた。ちなみに彼はサッカー部のエースだ。

「ああ、伊尾。おかえり」

自分の家に帰ってきたかのようにおかえりと言われるが、天原家と伊尾家は長年のつきあいだし、二人は日々お互いの部屋に出入りしているので、自然とそんな挨拶になる。

「ただいま。天原にわからないとこがあるなんて珍しいね」

「いつもわからないことだらけだけどね」

天原はパソコンを閉じて伊尾に向き合った。伊尾は天原のベッドに腰掛ける。

「ムーンショット計画ってどう思う?」

「ムーンショット計画?」

数十年前、日本を含め、多くの国々が『身体、環境、時間の制約から解放された社会』の実現を目指し、人類が月に向かってロケットを発射させたという、とても難しいが、実現すれば多くの発展が見込めるという意味をこめて『ムーンショット計画』を打ち出した。2100年までに、掲げられた7つの項目を達成することが目標だったが、現在は西暦2114年。計画はある程度進んでいたが、まったく進んでいない項目も多々あった。

「半分くらいは成功したって、多くの関係者はテレビとかで言ってるけど……。急にどうしたの?」

7つの項目は、①仮想空間における人類アバター化計画の推進 ②高速ネットワークの普及 ③AIの普及 ④地球環境の改善 ⑤異星への移住計画の推進 ⑥時間移動技術の発展 ⑦人類の創造力の向上、人材育成 である。

仮想現実はまあまあ普及しているが、全人類がアバターとしてすべての生活をしているわけではないので、①は半分くらい達成といっても過言ではない。②の高速ネットワークについては、数年前に都内に高い電波塔ができ、実用化されているので、ほぼ達成。電波塔によってAIや、生活を見守り、ときにはAIをサポートする人工衛星が統制されるので、③のAIについても達成している。しかし、電脳社会が発達している代償なのか、地球環境は悪化するばかりである。数年前レッドデータブックに載っていた生き物のほとんどが死滅、という意味でリストから消えて忘れられ、一部の人間を含む厳選されたしぶとい生き物だけで生態系は回っている。海は青い部分が見当たらないほどに汚れ、空気も汚い。数十年前に流行していた感染症は医療技術の進歩により鳴りを潜めているが、汚い空気のせいで人類はいまだにマスクをつけた生活を強いられている。④の地球環境は達成よりむしろ悪化していると言える。⑤の異星への移住はまったく進んでいない。つい最近火星への調査隊が事故に遭い、音信不通になったばかりである。⑥の時間移動についてはまあ割と進んでいる。最近、ラットが時間移動に成功したというニュースも聞いたし、そのうち一般の市民も手軽に時間旅行をできるようになるのかもしれない。⑦の創造力の向上は、よくわからないが、そういうねらいをもって作られた教科を学校で教えられたりしているので、政府もやることはやっているのではないか。

「大学研究だよ。たとえ計画や状況がどんなにひどくても俺たちの世代がこの問題を解決しなくちゃ、この星はもたない」

天原は真剣な顔で言った。

「僕の予想よりもずいぶん大きな規模で考えていたな」

「俺は真剣にこの星の将来を憂えているんだよ」

天原の勉強机の上には参考書や大学の赤本のほかに外国語で書かれた論文が積み重なっていた。フランス語やスペイン語もある。伊尾にとってはもはや普通だったが、およそ高校二年生の机ではない。

「解決に携わるとして、天原はどの項目の問題に取り組みたいの?」

「うーん。今俺がわからないのはそこなんだ。達成が進む項目とちっとも進んでいない項目がある。項目を分けるんじゃなくて、そろそろ統合していくって発想が必要だと思うんだよね。たとえば、環境を守る目標と、この星を出ていく目標が隣り合っていてはいつまでも解決しない」

「まあ、確かに」

天原は伊尾に自らが組み立てた現政府の政策についての批評と改善案を熱をこめて語った。天原は昔から自分の理論を組み立てては伊尾に話すことが多かった。幼少期の彼の語りのテーマが『ランドセルを背負わせる意義』とか『ピーマンが嫌いな子供に無理に食べさせる社会構造』などといったかわいらしいものだったのに対して、最近は知識をつけて、専門用語を連発するマシンガンのような理論が多い。もちろん、伊尾が質問すれば専門用語の解説も語ってくれる。天原は伊尾以外の人の前では自論を熱く語ったりしない。他の人が理解できないことを知っていて諦めているのだ。彼は場所と人をわきまえる器用さを持っていた。伊尾は天原の話を聞かせてもらえることをひそかに誇りに思っていた。しかし、ここ数年は彼の話を聞いているのが大変だと感じるようになってきた。彼が本当に理解の及ばないようなところへ行ってしまったかのように感じた。

伊尾は焦っていた。天原が遠くに行ってしまう。追いつけなくなる。彼の隣にいるためには、勉強するしかなかった。

「……で、俺はジョナサンさんの理論を読んでこう思ったわけ。……伊尾?聞いてる?」

いつの間にかぼうっとしていたようだ。寝不足がたたったのかもしれない。

「ああ、ごめん。ジョナさんの理論の話だよね。実は夕飯まだでついファミレスを連想した」

「あ、まだだったの?やべ、話しすぎた。もう日付超すね」

「また明日にでも聞かせて」

「明日は午前なんかあるの?」

「特には。学校で自習するよ」

「そう。俺、明日は部活が午後からだから、家にいようと思ったんだけど」

「僕は家じゃないところのほうが集中できるから。休み明けに模試があるし」

伊尾はベッドから立ち上がった。天原は頭をかく。

「ああ、そうだっけ。じゃあ、頑張ろうな」

「うん、もちろん。いつも通りワンツーフィニッシュだろ」

「おう。ま、俺が一位で伊尾が二位だけどな」

「抜かせよ。今回は僕だよ」

二人はグータッチをすると、おやすみ、と言い合って別れた。

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