16 ルリ
「イオ!作業が終わったから家に……どうしたの?」
作業が終わってイオのもとへやってきたルリは立ち尽くすイオを見て聞いた。
「ギンナルと、ニビに会った。クジラを探しに海に出るというから観測装置を渡した」
それを聞いてルリの表情は一瞬で強張った。
「どうして?ニビには言わないでって言ったでしょう?!」
「ごめん」
ルリは膝を折ってへたり込み、両手で顔を覆った。
「ニビは知れば絶対に行ってしまうとわかってた。ニビには、ニビだけには死んでほしくないのに……!」
ルリの両親は海洋安全管理係だった。ノーチラス304号に乗って、青の街の周りの海上を日々パトロールする。もちろん、船には研究室をもっていた。研究のテーマはクジラだった。ある嵐の日、両親はクジラの声を観測し、海に出て、二度と戻ってこなかった。幼いルリのもとには船長のいないノーチラス304号と大量のクジラの研究のデータが残された。
ルリは両親を奪ったクジラを恨んだ。思わせぶりな声だけ上げて姿を見せようとしないこの生き物が、無駄に広くて青い海が、全部が嫌いになった。
ある時、街に住む子供の間で、クジラを見たことがあるという少年が噂になった。クジラが姿を見せるはずない。彼が見たとしたら、いったい私の両親は何のために人生を研究に費やしたのか。どうして死ななければならなかったのか。その少年をバカにする人たちや、クジラを信じない人たちに合わせていっしょになってバカにした。
「俺はクジラを見たんだ」
少年がルリに話しかけた。
「話しかけないでよ。嘘つき少年と仲良くしてたら私までからかわれる」
からかいの中心となっていたのはルリだったのだが、ルリはそう言った。
「でも、見たんだ。すごく、すごく美しかったんだ」
少年は目を輝かせながらクジラの美しさを語った。少年の美しいものを美しいと素直に認める心がルリの目を覚ました。
ルリはあの日からずっと放置してあったノーチラス304号に乗り込んだ。資料をすべて見た。両親の残していった観測装置も説明もないままなんとか使い方を模索し、研究を始めた。見たいわけじゃない。でも、クジラを、ニビの語った美しいものについてもっと知りたかった。誰にも言わずに研究を進め、何年も経つうちに気付いたことがあった。クジラの声が最もよく聞こえるのは、夏の終り、嵐の日だと。ニビに言うことはできない。だって、ニビもクジラを探して死んでしまう。
ルリは研究を一時ストップさせた。それから半年が経って夏が来た。
「協力させてくれ。僕もクジラを探す。僕の目的はその後でいい」
楽園から来た男がそう言った。正直、研究室はいつ片付けようか、と考えていたほどクジラの研究への意欲がなくなっていたころだった。イオというその男の目にはただならぬ真剣さがあった。楽園から来たヒトなら、もしかしたらクジラについて新しいことがわかるかもしれない。私よりもずっと学があるんだから。
半年ぶりに機械を観測装置を起動させる。両親の研究室から出てきた、まだ使っていなかった装置も引っ張り出して、二人で組み立てた。
イオが古代の文字を読めると知ったときは驚いた。千年前の資料からは、今までの研究ではわからなかった詳しい情報が様々に書かれていた。
調べれば調べるほど、気付いた法則を裏付ける証拠が出てきた。ついに今年の夏が終わろうとしていた。
「なるほどね……」
イオはルリの家のリビングに飾ってある家族写真を眺めながらつぶやいた。窓には相変わらず雨が強く打ち付けている。
「帰ってくるかな……?」
濡れたタオルを頭にかぶったまま、ソファーに座ってうなだれるルリは言った。
「信じて待とう。雨が収まったら探しに行こう」
ルリは小さくうなずいた。