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ケラサスの使者  作者: 岡倉桜紅
第二章
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14 夏の午後

日曜日は青の街全体で休日として定められているらしい。しかし、海底安全管理係は仕事を止めるわけにはいかないので、他の曜日よりは軽いが仕事がある。ルリは出かけて行くのを、イオも手伝おうとしたが断られた。イオは小さい丸椅子を持ってベランダに出て街と海と空を見ながら論文を読み進めることにした。キッチンは好きに使っていいといわれたが、何の食材なのか得体のしれないものしかなかったので料理は諦めた。グラスに水を汲んで、エアコンの室外機の上に置く。天気はよく晴れて風は穏やかだった。日陰にいれば暑さもあまり感じずに済んだ。今まで経験してきた中で一番夏らしい夏休みのひとときだと思った。


ギンナルは『ジェリーフィッシュ』のカウンター席に座っていた。午前中は客はギンナルの他にはいなかった。早朝、起きてすぐに行った海底図書館で借りてきた本をめくっていた。ギンナルの前にふいに器に盛られたアイスクリームが差し出されてギンナルは顔を上げた。店主が差し出したのだ。

「いいのか?」

「一番乗りのやつ限定のサービスだ」

「いただきます」

「何を読んでいるんだ?」

「ああ、その、詩集です。ニビに言われたんだ。美しいものを感じる心がないからその価値がわからない。俺の詩を良くするには何が必要なのか少し気になって」

ギンナルが少し早口で言うと、店長は大きくうなずいた。

「存分に学んでいくといい。作品を見せてもらっても?」

「いや、ひどい詩ですから」

ギンナルは慌てて拒否した。その時、ギンナルの後ろでドアのチャイムが鳴った。

「いらっしゃい」

入ってきた人物はギンナルに左に座席を一つ空けて座った。

「いつものを頼む」

ギンナルが横を向くと、先日会ったことのある老人が飲み物を受け取るところだった。ギンナルの詩をつまらないと一蹴したあの老人だ。ギンナルは本をまとめると席を立った。

「青年、アイスはいいのか」

店のドアに手をかけたギンナルに老人が言った。ギンナルは目を合わせないように下を向いたまま席まで戻ってアイスクリームの残りをすべて口に流し込み、また速足で店から出ようとした。

「詩作のほうはどうだ」

なにか話しかけられても無視していってしまおうと思っていたが、老人の声が予想よりも優しかったのでギンナルは思わず足を止めた。

「別にどうともありません」

無表情をつくって感情をこめずにギンナルは答えた。老人は手招きする。また説教をされると思うと心底行く気がしなかった。自分の間違いを指摘したり叱ってくれる人間のありがたさは歳を重ねるごとに実感することは多いが、ギンナルは人から叱られるのが人一倍嫌いだった。放っておかれて自分が自分の間違いに気づかずに恥ずかしく生きていったほうが叱られるよりもよっぽどましのように思っていた。しかし、老人がしつこく手招きをするのでしかたなくギンナルは席に戻る。

「もっと自分の作品に自信を持て」

やっぱり説教だ。アレルギー反応のように嫌悪感が一気に胸にあふれる。ギンナルは席を立とうとした。

「さっきお前は自分の詩のことをつまらないものだと言ったな。お前だけは、お前の作品を愛していないとだめだ」

「あんたがそう評価したんじゃないか」

やっとの思いでギンナルは小さく反論した。いい歳した自分が10歳の少年に逆戻りしたような気持ちになってくる。

「お前が愛せなかったら、世界のだれにも愛せない。他人の評価で価値がぐらつくようなら創り直したほうがいい。それはまだ試作品の域を出ていないのだから。お前は前にあんたは何様だと聞いたな。俺はたしかに他人の詩をどうこう言えるほど偉いわけではない。しかし、何が美しいものか、なにが美しくないかくらいはわかる」

ギンナルは老人の顔を見た。瞬きもせずに自分を見つめていた。

「それはあんたの価値観だろ」

「ああ。でもお前はその価値観すら持っていない。自分で何が美しいのかさえ一人で判断できない。自信がないのだ。多くの人間はそのことに気付かずに死んでいく。別にそれは俺はどうでもいい。でも、詩人を名乗るお前には気付いてほしかった」

「……」

ギンナルは店を出る。

「青年。詩を持ってきなさい」

老人がギンナルの背中に言った。


八月は過ぎていく。


ルリとイオはリビングテーブルに大きく広げた近海の地図に印をつけていく。

「環境の条件的に、ザトウクジラの回遊コースがこのあたりにあってもおかしくない。このあたりに観測装置を設置してみよう」

「音だけじゃなくて、動くものが通過したら反応する装置も作ったよ。音の観測装置も改良した」

「かすかな反応だ!あの方角にきっといる」

調査を進めると、すでにもう、海に大きな生物がいることは疑いようのないことは明らかになった。真実に近づいていく感覚はゾクゾクした。

どうやら、西の方角には大陸があるらしく、それによってクジラが観測しやすい条件になっていたのだ。

論文の書いてある言葉を教えてくれとルリがいうので、英語の辞書を借りてきて英語のレッスンもした。イオが帰った後も読めるように。ルリは一生懸命にメモをとった。

その様子を見るたびに、勉強には詰め込むこと以外にも向き合い方があったことにイオははっとする。体裁や強迫観念以外の、純粋な意欲。

目が覚めるような気がした。――そうか。勉強って、競争の道具じゃないんだな。

地図は書き込みで埋め尽くされた。八月も半ばになるころ、二人は毎日のように海に出かけた。イオの肌は少しずつ焼けていった。


ギンナルはニビの船の上で見渡す限りの青に包まれて詩を作った。何度も書き直す。


ギンナルは老人に黙って手帳を破いた紙を差し出した。老人はじっくりと何度もその詩を読み直し、少し笑って言う。

「まだつまらんな」

ギンナルは肩をすくめる。

毎日老人は『ジェリーフィッシュ』に現れては、ギンナルの差し出す詩を読んだ。


ニビが街を歩いていると、向こうからオレンジ色の髪の青年が歩いてくる。

「よお、エンジ」

「よお、ニビ」

お互いに片手を軽く上げて挨拶する。

「俺を捕まえないのか?」

ニビがいたずらっぽく言う。

「船に乗ってるお前じゃなきゃ捕まえられないことになってるんだ」

「残念だな。船に乗ってる俺は捕まらないよ。そういえばお前、最近新しい船をもらったんだろ?乗り心地はどうなんだ」

「速いよ。大陸まで半日もあれば着くくらいにはな」

「そんなに速い船もらったんならもうあの『地球2号』はいいだろ。見逃してくれよ」

「『地球2号』を取り返すために速い船をもらったんだよ」

「じゃあ永遠に追いかけっこするしかないな」

二人は笑った。

「昼飯食べていかねえ?」

「賛成だ」


珍しく黒い雲が空を覆った日、ギンナルは老人に紙を差し出す。老人は過去一番長い時間をかけてそれを読んだ。

「まだまだだが……悪くない」

ギンナルは老人に見えないようにガッツポーズをした。

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