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ケラサスの使者  作者: 岡倉桜紅
第二章
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13 海にて

「俺は手伝うとは言ってない気がするんだが」

ギンナルはヨットの帆を張りながらニビに言った。ニビが一人でやすやすとやっているのを見ると簡単そうに見えたが、帆を張る作業は意外と大変だった。ロープが手の中を滑って摩擦で手のひらはすぐに痛くなった。

青の街は後ろの遠くにある。楽園の巨大なカプセルは青の街の向こう側に霞んでいた。船の前方を向くと目に入るものは海の青と空の青、入道雲の白だけだ。

「巻き込んでごめん。でも、君は何かに今悩んでいるだろ?なら一緒に大海原に漕ぎ出してまだ見ぬクジラを探しに行こうよ」

ニビがロープを巻き終えて手をパンパンと払いながらさわやかに言う。

「前後の因果関係がよくわからなかった」

ニビはギンナルの横に立って手すりにつかまり、海を眺めるようにした。

「珍しいことじゃないんだ。楽園から来たヒトで悩みを抱えてるヒト。俺よりもずっと学があるはずのヒトたちがそれはもう小さなことで悩んで人生が終わりだ、みたいに迷っているんだよ」

「俺たちが悩んでるのは馬鹿らしく見えるか?」

「ギンナルが馬鹿らしいと思うならそれは馬鹿らしいことなんじゃないかな」

「いや、重大だよ」

「じゃあ重大だ」

ギンナルも手すりにつかまって遠くの水平線を眺める。今の俺は詩のセンス、いや、芸術のセンスもないくせにそれだけを頼りにして楽園から逃げてきた男だ。どちらの世界からも拒絶されたように感じる。俺は一体何になるんだろう。人生をただ無駄に過ごして、働かない、だれの役にも立たない、だれも愛せないし、だれからも愛されない。なんにも残さないで、若さを浪費するままに死ぬのかな――。

「青の街のヒトは悩みがないのか?それとも、悩んでも病まない強い心でも持っているのか?」

「なぜそんな質問をするのさ」

「いや、君も悩みがあったら申し訳ないけれど。楽園から青の街に来るやつはいても、青の街から楽園に来るやつはあまり見ないものだから」

「俺たちの先祖は、そして俺たちは望んで楽園には入らなかったんだ」

船の外側にどこからか流れてきたプラスチック製のボトルが当たった。ニビはのび~る孫の手のような棒を使ってボトルを引き上げる。線室内にあった袋にこれと似たようなボトルがたくさん入っていたのを思い出す。エンシェの文明の遺物だろう。

「勉強ではないところに、残しておくべきものを信じたんだよ」

「図書館か?」

「そうかもしれない。それぞれ違うかも」

「海か?」

「俺の場合はそれもある。でも、多くの住民が思っているのはきっと、『美しさ』だよ。それぞれの美しいものを守っていくためにここにいる。例えば海の美しさを守るためにこうして掃除屋も買って出てるし。楽園から来たヒトは、美しいものがなんなのか見失ってしまったヒトが多いように思うんだ。俺も本当に理解しているかと言われると、同じなような気もするけど。海とか、空とか、そういうわかりやすい美しさからリハビリしていきたい、そんな気持ちをもってここに来るヒトが多いと思う」

「リハビリ?」

「美しいものを美しいと思える心のリハビリ」

「確かに閉鎖されたカプセルの中じゃ、美しいものを目にするのはここよりはるかに難しいだろうな」

「違う。美しいものはどこにだってあるんだよ。それを美しいと感じる心が足りないから気付かないだけだ。ここはただわかりやすいだけ。わかりにくい美しさも、楽園と同じようにある」

「クジラを見れば俺はリハビリできるのか?」

「うん。大きな生命はとてつもなくわかりやすく美しいからね」

ニビはギンナルのほうを向いていたずらっぽく笑った。

「それに、夏の間一緒に船に乗ってくれるヒトがいないと、この船の操縦はなかなか大変なんだ」

うすうすわかってはいたが、実務的な理由も大きく絡んでいたようだ。

「いいぜ。他にやることもないし、探すのに協力するよ。俺も、クジラが見たくなってきた」

クジラを見れば変われるかもしれない。つまらない、何もない人生に、一つでいいから価値(うつくしさ)を見つけられたら――。


『そこの船ー!止まりなさーい!おーい、そこの!』

「向こうの船がなんか話しかけてくるけど」

ギンナルは伸びるタイプの単眼鏡で水平線を見ながら操縦室に入って船を操作しているニビに言った。ニビは甲板に出てきて一目見るなりまた操縦室に駆け戻っていく。近づいてくる船にはメガホンを持ってこちらに叫んでいる若い男が乗っている。

「あいつはエンジっていうんだ。昔の仕事の同期さ。俺がこの船に乗っているのが気に入らないんだ。大急ぎで帆をたたんでくれないか。潜水艦モードで振り切る」

「たしかこの船、どこかからパクったものだって言ってなかったか?」

「パクってない。否応なしの状況に乗じて頂戴しただけだよ」

「乗じてって言葉がもう確信犯だよ」

「とにかく早く!捕まると面倒なことになるんだ。潜ってしまえばこの船より早く進めるのはまだ見ぬ生物以外ではほかにないよ」

ギンナルは仕方なく帆をたたみ始めた。

『潜るのか?逃げるのか?腰抜け!』

船は近づいて、叫ぶ男の顔まで見えるほどだ。オレンジ色の髪をしていて、水兵の帽子をかぶっている。男は挑発の文句を叫んでいたが、ギンナルが帆をたたみ終えて船内に入り、マストが収納され、海面下に沈んでいくのを見ると、あわてて自分も船内に駆け込んでいった。

「さあ、全速力だ」

ニビは操縦室で、握ったレバーをぐっと押した。潜水艦は加速し、ギンナルは派手に転んだ。操縦室に入ってニビの後ろからフロントガラスを見ると、潜水艦は海底近くのゴミや鉄骨を器用によけながら走っている。鉄骨の下をくぐる時、頭上ギリギリをかすめたので、ギンナルは思わず首を縮める。

「ハァ、ハァ。ここまで来ればもう大丈夫かな」

ニビが潜水艦を操作して青の街の中を海中を通って少しずつ海面のほうへと浮上させていった。ギンナルの緊張してこわばっていた体もようやく脱力した。

ギンナルとニビはそこで顔を見合わせる。どちらからともなく二人は笑い出した。

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