12 海底図書館
おいしそうなにおいと海の音でイオは目が覚めた。一階に降りていくとすでに着替えて救命胴衣のようなベストを着て、朝食を作っているルリがいた。リビングの窓は開いて、ベランダから海のにおいがする風が吹き込む。ベランダに干されたばかりの白いシャツが朝日を反射していた。
「おはよう。なにか手伝おうか?」
「大丈夫。もうできたわ」
ルリがキッチンからリビングに皿を運んでくる。平皿に入っているのは灰色がかったギリギリオートミールに見えなくもないようなどろどろした液体だった。確かにいいにおいはするし、温かく湯気は立っているが、見た目がほぼゲ〇だ。
「プランクトンの栄養満点フィッシュミールよ。ソースはお好みで」
イオはおそるおそるそれをスプーンですくって口に運んだ。決しておいしい味ではないが、すぐに吐き出したくなるほどひどくはなかったのでなんとか飲み込む。
「どう?私の料理はみんなにおおむね好評なんだけど」
他のヒトの手料理がどの程度なのかわからないので何とも言えない。楽園は食に関してはとても素晴らしかったということがわかった。
「おいしいと思うよ」
イオは必死で言った。ルリは満足そうに口角を上げると、自分のぶんをがばっと掻き込んだ。
「さあ、食べ終わったら今日の仕事に向かうよ。仕事が終わり次第、クジラの調査をしなきゃ!」
朝食を何とか食べ終えたイオは、ルリが持たせてきた荷物を抱えて彼女のあとを追って家を出た。荷物はなんらかの機械のようで、ドアにぶつけるとルリがじとっとした目でにらんできた。
昨日のようにすぐに潜水艦に乗り込んで海底に潜るのかと思いきや、最初の仕事は潜水艦の掃除とメンテナンスだった。デッキブラシでノーチラス304号のボディを磨く。磨き終えると、表面がボコボコとへこんだかなり年期の入った銀のアタッシュケースを開いて機械を組み立てた。二人で協力して組み立てていく。組み立て終わるころには背中を汗がじっとりと伝っていった。組み終えた装置は、頂上にパラボラアンテナのついたミニチュアの東京タワーのような形だ。アタッシュケースの中を覗き込むと、アンテナがキャッチした信号がオシロスコープのように波形として観測できた。
「これは何を調べる機械なの?」
「音を拾う機械よ。普段とは違う不自然な波形が現れたらアラームが鳴って自動で波形が記録されるの。この骨組みをひっくり返して、上に浮き輪をつけて海のある地点に浮かべておくと、リアルタイムで海の状態がわかるはず」
「それでクジラについて調査できるの?」
ルリは大きくうなずいた。
「できるわ。現にもう何度か怪しい音声をキャッチしているわ」
ルリが潜水艦に入っていくのでイオもあわてて追いかける。ルリは船内にあるノートパソコンのような機械を操作した。最初は二つの固いものがこすれあうような高い音が聞こえた。そのあとで低い、ウオーンともパオーンともつかない音がした。
「そうか。クジラは歌を歌うんだ」
ルリはうなずく。
「歌を歌う理由は、メスの気を引くためとか、縄張りを主張するためとか、ただ単に楽しいからとかいろいろあるみたい。私も調べたけれど実際にクジラがいたころの論文とかは言葉が難しかったし、日本語のものはほとんどなかったから詳しくはわからないんだけど。とにかく、これはきっとクジラの声よ」
「それを海に設置しに行くんだね。……というか常に浮かべておくことはできないの?毎日設置したり撤去したりしてるのは大変じゃないか?」
「あまり放っておくと沖に流されすぎちゃうの。まあ、このアンテナは電波をだいたい200海里先までは飛ばせるんだけれど、その距離だとメモリがいっぱいになったときに記憶媒体を付け替えるのが大変だから。装置の充電もしなきゃいけないし」
「そう。あ、そういえばさっき、クジラの文献で読めないのがあるって言っていたよね。もし見せてもらったらわかる言葉があるかもしれない。こういう体を動かす手伝いもそうだけど、頭を使う方面でも以外と僕にやらせたら役に立つかも」
イオは思い出してルリに言った。言った後すぐにイオの腹が鳴った。この船着き場にいるとわかりづらいが、頭上から差し込む日光はほぼイオたちを真上から照らし、影は短くなっていた。
「そろそろ、昼ご飯にしよっか。イオも疲れたみたいだし、午後は私だけで仕事と設置をしてくるよ」
「あ、いや、そんなつもりで言ったんじゃ、」
「違うよ。イオには文献を調べてきてもらいたいの。この街の中心にある海底図書館、そこに行って資料を調べてきて。これはやっぱり街の外から来たヒトじゃないと頼めないことだから」
海底図書館。そういえばギンナルが行きたいと言っていた場所だ。確か、古いものから新しいものまで、メジャーなものからマイナーなものまでなんでもあると聞いた気がする。
「わかった」
イオはうなずいた。ルリは満足そうに口角を上げる。
昨日コンサートにも行ったあのレストランは『ジェリーフィッシュ』というらしい。またそこに行って昼食を食べた後、イオはルリと別れた。レストランにニビはいなかったし、ギンナルも見当たらないようだった。
図書館の入り口はすぐに見つかった。というか図書館があまりに大きく、街と融合しているかのような構造なため、扉をいくつかくぐっていたらいつの間にか図書館の中にいる、というような具合だった。普通に生活する街と図書館の境界線があまりにも曖昧で、それもまたこの街の住人と図書館の距離の近さを表しているようでよかった。森のような書棚の間を抜けて奥に入っていくと本の香りがする。この図書館は上下に長い建物なので、なんとなく古い文書は下の階層にあるのではないかとイオは見当をつける。貸出カウンターや司書らしき人物は見当たらない。うろうろ歩き回っていると、中年の男が書棚の間にしゃがみこんで本を読んでいるのを見つけた。
「すみません、ここの図書館って司書はいるんですか?」
イオが尋ねると男は顔を上げた。読書の邪魔をしたことを怒られるかと思ったが、男は別に気にする風もなく、本を閉じてイオに向き直り親切に答えた。
「司書?俺は会ったことないな。ずっと下の階にいるんじゃないかって言い伝えはあるけど。会いたいのか?」
急にロールプレイングゲームをしているかのような錯覚を覚えるイオ。この街で司書とはレアなモンスターと同じような立ち位置なのか。
「ええ、できれば。探している本があるので」
「どんな本だ?俺はこのあたりの書棚は割と精通してるからいっしょに探してやろうか?」
「海洋学とか、海の生き物について書いてある本が読みたいですね。できれば古いもののほうがありがたいかもしれないです」
男はうなずくと、読みかけの本を小脇に抱えたまま書棚の奥へと進んでいくので、イオもはぐれないようについていく。
「この階だとこのあたりかなあ。もっと古いのなら下に降りて行ってみろよ。背表紙にラベルがついてるだろ?452って番号が振ってあるあたりを見れば読みたいのが見つかるかもな。階段はそこだ。本をたくさん抱えてるときはエレベーターを使うといい。借りたい本があれば持ち出してもOKだが、絶対に粗末に扱うなよ」
「ありがとうございます!」
男はにっと笑って親指を立てて見せた。
「あの、本当に親切にありがとうございました。読書邪魔しちゃいましたよね」
「いいってことよ。あんた、この街の住人じゃないだろ。この街じゃあ誰もが誰かの司書になれるんだ。読みたい本はみんなが読めるようにしなきゃ、こんな立派な図書館がもったいないだろ?この図書館は俺たちの誇りなのさ」
男は朗らかに笑ってさっきしゃがみこんでいた場所へと戻っていった。
イオはさっそく教えてもらった書棚を見た。比較的新しい、2970年代からの本が多い。おそらくこのあたりの文献ならルリが読みつくしているだろうからわざわざ読む必要もないだろう。イオは階段を下りていくことに決めた。
下の階に行くにつれて図書館内は涼しく、暗くなっていった。暗い、といってもほどよい暗さで、本を読むには適している。館内はしんとしていて、窓からは海の中の様子が見える。書棚がどの階にもぎっしり立ち並んでいるのかと思うとそうでもなく、勉強できるパーテーション付きの机があったり、サイドテーブルつきのおしゃれなソファーが置いてあったり、銅像が置かれていたり、大きな柱時計が置かれていたりと、各階個性がある。ここを一日散歩するだけでもいい観光になりそうだ。照明は青っぽく、海底にいることを意識させて、幻想的な読書体験ができそうだった。
果たして文献は、あった。イオの時代に書かれた本は単純計算で千年以上経っているので、ページは黄ばんでいて開くとパリパリと音を立てた。普通に書店の店先に並べてあったであろう本が、時間が経ったというそれだけで、書店に置いてあるころには全くなかった荘厳な雰囲気を醸し出しているのが、なぜかおかしかった。
イオは大体自分が本来生きていたくらいの年代でクジラについて書かれていそうな本や論文を片っ端から本棚から出して床に積み上げた。英語や、その他スペイン語やらフランス語やら日本語以外で書かれたもののほうが多い。歴史によるとイオたちの時代、イオールの雲という事件を境にして地球の環境ががらっと変わってしまったらしいので、この時代に書かれたことが最後のクジラについての研究に違いない。観測技術もあり、クジラも普通にいる最後の時代だ。
幸い、イオはフランス語が少しできたので、英語とフランス語の論文を中心に読み進めていくことにした。
短い腕で抱えられるだけの本を抱えてイオがルリの家に戻ってくる頃にはもう真夜中に近かった。図書館内は海底なので常に一定の明るさにされているし、閉館のアナウンスも、そもそも閉館もしないのでつい時間を忘れてしまった。
イオが返ってくると、リビングでうとうとしながらテレビを見ていたルリが跳ねるようにソファーから立ち上がった。
「どうだった?何か収穫あった?」
「とりあえず本をできるだけ借りてきたよ。これを読んでクジラの生態とか回遊のパターンを見つければもっと効率よく探せるはずだよ」
イオはリビングのテーブルに本をドサッと置いた。ずっと抱えていた腕が解放されてじんじんした。
「すごい。その文字読めるの?」
「専門用語はあまりよくわからないけど。友達がこの言葉ができたから、一緒に勉強したことがある」
「今日はもう遅いからゆっくり寝て。夕ご飯、温めようか」
「ありがとう」
ルリはカップラーメンのような容器を棚から出してきて電子レンジに入れて温め始めた。
紫色の軟骨のような食感の食べ物だった。噛む度によくわからないが、出汁のような味わい深さがあるような気がした。たとえるなら、――。イオはそこで考えたが、紫色の軟骨という表現しか思い浮かばなかった。