11 コンサート
「僕はチケットを持っていないけれど」
「初回くらい無料にしてくれるわよ」
ノーチラス304号はあの後二人を乗せて浮上し、最初に出発した場所に戻ってきた。既に街は暗くなっており、街にはオレンジ色の灯りが灯っていた。船から降りるとルリは急いでレストランに向かう。
ドアベルを鳴らして2人がレストランに入ると、昼間とは雰囲気が打って変わって、落ち着いたバーのような雰囲気が漂っていた。店の真ん中にある円柱形の水槽はライトアップされてぼんやりと光っていた。客は昼間よりも入っていて、カウンター席以外のテーブル席もほぼ埋まり、客たちは穏やかに談笑していた。二人が空いていたテーブル席に着くと、店の奥にあるステージをスポットライトが照らした。
「いい夕ですね。ニビです。今宵は俺のコンサートに来てくれてありがとうございます。楽しんでいってください」
ニビはギターを鳴らした。何故か懐かしくなるようなイントロからよく響く力強い、しかし繊細で美しい歌が続く。ニビの声はレストランに心地よく響き、イオはその歌に引き込まれて彼から目を離す事が出来なかった。他の客たちも放心したように見入っている。大きな安心できるものに包まれたまま波に揺られているかのような、夢の中にいるような感覚を覚えた。
「ありがとうございました。今のは俺が作った海潮音って曲です」
拍手が鳴る。放心からやっと解放されてイオも手を叩いた。
「次の曲は快晴。みんなも踊ろう!」
ニビの指先は先程までのゆったりとしたリズムではなく、素早く動いて弦を弾いた。踊り出したくなる旋律だ。客たちは立ち上がり、体を揺らしてリズムをとる。ニビは熟達したエンターテイナーだった。何曲か踊り、客たちの頬が上気した頃、ニビはギターを弾く手を段々と穏やかにしていった。
「最後に一曲やって終わりにします。まだ踊り足りないかもしれないけど、料理だって腹八分目が一番美味い。足りなかったら来週も来てくれよ。この曲は出来たての曲だ。これから改良するかもしれないけど、今のを聴いてください」
ニビは歌詞の無い曲を演奏した。美しくて儚げな印象のギターだった。演奏後、ニビは一礼してバックヤードに下がって行った。スポットライトは消え、レストランはコンサート前と同じような照明に切り替わった。
「どう?良かったでしょ?」
ルリがイオに聞いた。お互いさっきまで踊っていた名残で顔がやや赤い。二人の前にはニビが最後の曲をやっている時にレストランの店主によって置かれたグラスが置いてある。
「感動したよ」
グラスの飲み物を一口飲んでイオは言った。甘い炭酸飲料の味がした。
「楽しかった」
「本人にそう言ってあげたら?喜ぶよ」
ルリが指さす先には、もうバックヤードから戻ってきたニビが他の客と話していた。
「あの曲はなんて言う名前なんだい?」
酒瓶を片手に持ったおじさんがニビに尋ねていた。
「くじらのうた、だ。クジラの尾ヒレを見た時の感情を音にしたんだ」
おじさんの集団がどっと笑った。
「曲は良かったけどよ、......まだ探してんのか?」
「クジラはいるから」
おじさんたちはまた笑う。
「そうか、頑張れよ」
「本当にいるんだ。海がどれだけ広いか知ってるだろ」
「俺たちは海がどれだけ汚いかも知ってるんだ」
「それでもいるさ!なあ、君はそう思うだろ?」
ニビは近くのカウンターに座っていたギンナルと肩を組むようにした。ぼうっとして一人酒を飲んでいたギンナルは急に話を振られて慌てた。
「はぁ、まあ」
適当にうなずくと、ニビは歓喜の声を上げてギンナルに飛びついた。
「まじか!俺、初めてだ。俺に協力してくれるやつなんてこの街にいないと思ってた。ありがとう!世界は広いんだな」
「え、いや、俺は協力とかは......」
「ニビ、協力なら、」
イオはニビの発言に違和感を感じて声をかけようとしたが、それを遮るようにルリがイオを引っ張った。ルリはそのままイオを連れて店の外まで出てしまう。後ろでおじさんたちが、「仲間ができてよかったな」などと言いながら笑っている声が聞こえた。
「どうして店を出てきてしまったんだよ」
イオはルリの強く掴む手を振り払った。
「言わないで」
「え」
「ニビには私がクジラの研究をしてる事は言わないで」
「でも、」
イオは言い返そうとしたが、ルリの真剣な目を見て言葉を飲み込んだ。きっといろいろあるのだろう。
「どうせ泊まるとこ無いんでしょ。あなたが楽園に帰るまで私の家にホームステイしていいよ。クジラの研究ももちろん手伝ってもらう。でも、それをニビに漏らしたら追い出すから」
イオは頷くしかなかった。ルリはそれを見ると満足気に口角を上げ、ついてきて、とばかりに街を歩き出した。
ルリの住む家は街の階段を上っていって、海からはかなり高いところにある南向きのしっくいの壁が青く塗られた家だった。
玄関から入ると広いリビングにソファーとブラウン管テレビが据えられ、南向きの大きな窓は少し開いていて夜風が部屋を流れていた。白いカーテンが揺れている。他に人の気配はなく、少女が一人暮らしするには少し大きすぎるように感じた。ルリがスイッチを押すと天井からぶら下がるガラスの傘のついたランプが点灯し、部屋は暖かな光で満たされた。
「この辺でくつろいでて。イオが泊まる部屋を掃除してくるよ」
ルリは螺旋階段を上って二階へと行ってしまい、イオはリビングに取り残された。
見渡すと、部屋にはテレビのほかに、ファミリーコンピュータを彷彿とさせるようなレトロなデザインのゲームのコントローラーや、扇風機、掃除機、CDラジカセ、CDケースがあることに気付いた。楽園の少なくとも地上にはこのような家電はなく、ゲーム機は花札などカードゲーム、CDはレコード、テレビはなくラジオという風に使う道具が違った。楽園で初めてレコードを生で見た時も、教科書でしか見たことがないものだったので使い方は見様見真似だったが、CDもイオの時代にはほぼ使われていなかった。CDもおおかたレコードと使い方に大差はないだろう、と目の前のディスクを見ながらイオは見当をつけた。
壁に目を向けると、色あせたポスターや写真が貼られていた。幼いころのルリらしき少女が母親らしき女性と父親らしき男性に囲まれて笑っている写真を見つける。写真はきれいなカラープリントで、楽園で使われているプリンターやカメラよりも高性能なことがうかがえる。写真に写っている人物はみなトイロソーヴの二頭身の姿なので、写っている彼らはれっきとした人間で、家族の写真であるとわかっていても、ゲームの中のキャラクターを見ているような不思議な感覚になる。
「イオ、準備できた。階段上ってすぐの部屋を使って。シャワーはあそこのドア」
「ありがとう」
イオに貸された部屋はこじんまりとしていたが、居心地のよさそうな部屋だった。窓からは夜の海と月が見えた。壁には絵画がかけてあり、真っ白なベッドのシーツは清潔さが漂っていた。タダで泊めてもらうにはもったいないほどだ。
シャワーを浴びてリビングを通ると、ルリはソファーに座ってテレビを見ていた。映画だかドラマを映しているようだ。
「なに見てるの?」
「映画。楽園のヒトにはなじみがないかもしれないけど、台本に沿って物語を役者が演じてそれを一二時間のビデオにしたものよ。このチャンネルでは日夜この街の誰かが撮った映像作品、または昔の映画の再放送をしてる」
「映画は知ってる。一日中ずっといろいろな映画ばかり流している放送局があるの?」
「放送局?この街にテレビ塔は一つだけよ。つまりチャンネルはひとつだけ。その放送局が映画を流しているの」
「ニュースとか、他の番組は見られないの?」
「ラジオで聞けばいいじゃない」
ルリはさも当然といった様子でそう言うと「私もシャワー浴びようっと」と独り言ちて風呂場へと向かっていった。
なんとなくテレビを消す気にもなれずにイオはソファーに座って今ちょうど流れている映画を見た。内容は、平凡なラブストーリーだった。平凡な男の前にある日、平凡な、しかし男にとっては特別な女が現れる。二人はいろいろあっていい感じにまで発展するが、どうしようもない運命のいたずらによりすれ違い、別れて、切なく物語は幕を閉じた。
夜風が吹き込んで足元に触れた。作品に入り込んでいたのか、カーテンに風で隙間ができていたことも気付かなかった。イオは立ち上がって窓とカーテンを閉めた。ルリはイオがテレビに夢中になっている間に自分の部屋に戻ったらしい。
十年前の夏を思い出していた。平凡な恋だった。思い出さないようにしまっていた記憶の蓋が開きそうになってイオは頭をふった。