4 おさかなワールド
「ほう、これがマグロ……。大トロってやつか。で、これがブリ。なるほど」
ギンナルは水槽の前に設置されたパネルの説明書きを読む。薄暗い館内に設置された巨大な水槽で、水面がキラキラとしていた。
「ギンナル、早く行こうよ。もうその水槽の前に何分いると思ってるの?」
モモは急かすように言う。
公園に行った日から一週間も経っていない。ギンナルとモモと事務のお姉さんは『おさかなワールド』という施設に来ていた。ここでは食品の加工と同時にその展示も行っている。水槽の中にはこれから各家庭の食卓に並ぶ前の姿の魚が泳いでいた。
ただし、泳いでいるのはみな切り身の状態の魚である。泳ぐというよりは流水に流れているという表現のほうが正しいかもしれない。もっとも、楽園の住民は本物の魚を見たことがないし、これからもその泳ぐ姿の知識が必要になる機会は少ないと予想できるので、これで十分なのかもしれない。違和感に気付くものはいないのであった。
「悪いな。先に行っててもいいぜ。魚に見とれて聞き込みを忘れんなよ」
「そのセリフそっくりお返ししたいんだけど」
モモは奥の展示室に入っていった。
「なあ、……」
ギンナルはモモの後について次の展示室に向かおうとした事務のお姉さんに呼びかける。
「はい、なんでしょう」
ギンナルはポケットの中で名刺の感触を確かめる。
「君は……」
「?」
事務のお姉さんは言葉が続かないギンナルの顔を怪訝そうに見た。ギンナルの手は冷たくなって口がひどく乾いた。無い唾を飲み込んで、ギンナルは口を開く。
「あの、」
「わあー!!マグロだあ!」
ギンナルと事務のお姉さんの間に少年が走ってきて水槽に張り付くようにした。後から父親らしき男性もついてくる。
「ほんとに泳いでる!すっげー!」
「こら、静かに見なさい。他のヒトの迷惑だろう。あ、すみませんね」
男性はギンナルに頭を下げる。後から母親らしき女性も歩いてきた。
「いや、もう次行くんで、どうぞ」
ギンナルは場所を譲って次の展示室に向かった。
「ああ、そのヒトなら見たことがあるよ。去年の今頃だったかな。毎日毎日カメラ片手にここに来て一日中写真を撮っていたよ」
ギンナルが従業員に聞くと、従業員はすぐにクニカらしき女性の目撃情報を語ってくれた。
「どこらへんに住んでいるか?そんなこと知るわけないよ。ああ、でも開館時刻からここにいるってことはこの近所かも。小さい男の子を連れていることもあったし、近所の集合住宅に住んでるんじゃないのかなあ」
「小さな男の子?女の子ではなくて?」
「ああ。多分男の子だよ。それがどうかしたんですか?」
「いや、こっちの話だ。情報ありがとう」
ギンナルは話を切り上げた。
「ひょっとして、クニカってヒトはもう、再婚して……」
事務のお姉さんは言う。
「だったら何だよ。どうしようもない。モモが満足するまで調査するしかないだろ」
「……そうですね」
「聞き込みをしたらすごい情報を発見したよ!私のおかあさんはよくここに来てたって。手がかりをつかんだね。名探偵モモ、調査はあと少しだ!」
モモはシーフードカレーを食べながらこぶしを上に突き上げた。おさかなワールドの出口の前にあるフードコートで昼食をとる。
「さっき泳いでるのを見た後によくそんなにバクバク食べれるな。魚はイキモノなんだぞ」
「そんなこと気にしてたら何にも食べられなくなっちゃうよ。ねえ、食べ終わったらお土産コーナー寄ってもいい?さっき通ったところ」
「はあ?土産?お前に金がないことは調査済みだぞ」
「どうしてもぬいぐるみが欲しいの。経費でおとせばいいでしょ?おねがい、これが一生のお願いだから」
モモは事務のお姉さんにおねだりした。
「ええと、」
「どうしてもだめ?一番小さいのでいいから。お願いします」
モモは頭を下げる。
「調査に必要なら買ってやってもいいってさ」
ギンナルは自分の分の普通のカレーを食べながらぶっきらぼうに言った。
「何勝手に」
「本当?うん、必要だよ。もうなくしちゃったけど、前に来た時に買ってもらったやつとおんなじのが売ってたんだ。それを持って歩けばおかあさんのほうから気付いてくれて調査が早く進むと思うんだ」
モモがぱあっと笑顔になる。事務のお姉さんはやがてうなづいた。
三人は列車に乗っていた。モモは座席で鮭(の切り身)のぬいぐるみを抱えて眠っていた。
「あなたも意外とやさしいところがあったんですね」
事務のお姉さんがギンナルに言った。
「やさしいと思うかい?そりゃよかった」
「違うんですか?」
「さあどうだか。俺は君のほうが少なくとも俺よりやさしいということはわかってるよ」
しばらく会話が途切れる。列車は駅に着く。
「俺はここで降りてあの町に引き返して集合団地を調査する。じゃあな」
ギンナルは座席から立ち上がった。
「なぜ列車に乗る前に解散しなかったんですか?」
「モモが起きてたらついて来かねないだろ。調べるところは限られているからおそらく見つかるはずだ」
「……もし、クニカさんを見つけたとして、モモさんに会わせるんですか?」
「それは俺よりやさしい君が判断してくれよ」
「そんな無責任な」
ギンナルは列車を降りた。
ギンナルは一軒ずつ集合住宅を回っていった。とっぷりと日が暮れたころだった。
「すみません、ケビイシの特設課です。少々お話よろしいでしょうかー?」
平然と職名詐称しながら玄関のベルを鳴らす。玄関に出てきたのは家族写真に写っていた人物そのものだった。クニカである。
「ケビイシがうちに何の用ですか?」
御多分に漏れず、クニカも警戒心をあらわにしながら聞いた。
「いえ、大したことではございません。義務学校に通うお子さんをもつご家庭を回って、学校生活について何点かお伺いして回っているだけですので。あと、アンケートにご協力いただけたらな、と思います」
「ああ、全部の家庭を回っているんですね。あ、中へどうぞ」
「すみません、失礼いたします~」
ギンナルは中に入ると素早く様子を観察した。見た感じ普通の家庭だ。棚に置いてあるのは写真立てに入った家族写真だ。モモの写真ではモモがいた場所には小さな男の子が写っていて、モモの父親がいた場所には新たな男性がいた。
「今、息子は近所の公園に行っておりまして、夫は迎えに行っていて留守です」
「まったくかまいませんよ。というより、好都合です」
ギンナルはリビングのテーブルの席に着く。
「モモがあなたを探している」
お茶を準備しにキッチンに向かったクニカにギンナルは言い切った。クニカは動きを止める。
「あなたは誰ですか?」
「情報屋、今は探偵だな。人探しは探偵の基本業務だ。モモはあなたに本気で会いたいと思っているんだ」
クニカはお茶を汲むのをやめてギンナルの正面の席に腰かけた。
「モモのことは愛しています。でも、会うべきかわかりません」
「モモのこと『は』?あなたがモモの父と別れたのはなぜですか?モモを愛していたならモモがここまでさみしがる前にできることが、」
クニカは奥の部屋のドアを開け、部屋から写真を一枚取ってきた。ちらりと見えた部屋の中には鮭(の切り身)のぬいぐるみが見えた。
「あなたを情報屋と見込んでお話します。これは他のヒトには話さず、あなただけが知っていてください」
モモが持っていたのと同じ家族写真。しかし、モモの父親、つまりクニカの夫の顔だけペンでぐるぐると塗られていて顔がわからないようになっていた。
「私はおかしいのかもしれません」
クニカは写真をまた部屋の中に戻して、リビングテーブルの席に戻ってくると、立ったままのギンナルに言った。
「三年前です。私の前の夫は事故に遭いました。一命はとりとめ、重い後遺症もなく、すぐに普通の生活に戻ることができました。幸運なことに事故の前と後ではなにも変わらないかのようでした。――ただ、一点を除いては。彼の顔面は、見る影もなくめちゃくちゃにつぶれてしまったのです」
「それで、別れた……?」
クニカは浅くうなずく。
「彼の言葉も気持ちも変わっていない。変わったのは顔だけ。私は結婚したとき、彼のすべてを愛しているつもりでした。彼の顔がつぶれて瞬間、何かが壊れました。どうしようもない違和感。顔だけを愛していたわけではなかったのに、顔がつぶれただけで、どうして彼を彼と思えなくなってしまったのか。最低なヒトだとお思いになるでしょうね。……モモには悪いことをしたと思っています。モモに会えるなら会いたいですが、あなたが私とモモが会うことに反対するならば引き下がります。私にはどうしたらいいかわかりません。私はたぶんおかしいのです」
「今の夫の顔がつぶれても同じことが起きるのか?」
「わかりません。今の夫は愛しています」
「……」
「ヒトは何をもって、そのヒトをそのヒトたらしめているのか。顔?声?はたまた魂?魂を好きになったとして、なにか衝撃的な一つの出来事があったりしたら魂は変わってしまうんじゃないか。他のヒトは何をもって相手を愛しているんでしょう。その、他のヒトが自然にできることが私には難しく思えるのです」
クニカは静かな口調で言う。母親が息子に諭しているかのような穏やかな口調の中に冷めた無感情さが不気味に浮いていた。
「もしあなたがモモと私を会わせてもいいと判断なさるなら、4月2日の正午に春風園に来てください。観覧車の前で待っています。そろそろ夫と息子が帰ってきますので、お引き取り願います」
ギンナルは集合住宅を後にした。
「先週のあなたの提出した経費の領収書ですが、この使途不明の切符はなんですか?会社の経費の使用状況が不透明になると、あなたはクビになりますよ」
事務のお姉さんがオフィスに戻るとペパロニ君が待っていた。
「申し訳ありません。使途はお客様のプライバシーのために言うことはできませんが、それは経費です」
「甘いことを言わないでください!ここは会社です。少し業績がいい社員だからと言ってあなたの自由勝手にしていいお金は一銭たりともありません」
「わかっております。私はお客様のために……」
本当にそうだろうか。モモの調査に協力しているのはもしかしたらモモに自分を重ねているだけなのかもしれない。
「申し訳ありません。これ以降は自費にします」
「それが当然です。それと、零時を超えてオフィスの電気がついているのはいかがなものかと上方から苦言が届きました。以後気を付けてください」
「はい……」
時計を見ると零時まであと10分を残すのみとなっていた。今日オフィスでやるべき仕事は半分も終わっていなかった。