32 ホープ
「ラジオを聞いたぞ。よくやったじゃないか」
コピーはイオに言った。二人は黒の塔の最上階、コピーの自室で向かい合っていた。コピーはゲーミングチェアに乗って、胡坐をかいている。
「ええ。昨日、植物の種の埋まった井戸にガクを注ぎ込みまして、芽を出しました。エネルギーの準備は整いました。……ところで、なんだか今日は部屋が綺麗ですね。大掃除でもしたんですか?」
コピーの自室は、床に本が積み重なり、脱ぎ散らかした白衣や、放置された実験道具が散乱していたが、現在、床にほとんど物が無く、綺麗だ。いや、綺麗というのは言いすぎで、恐ろしく汚かった部屋が、ちょっと片付けが苦手な人の部屋レベルまで改善したといったところだが。
「いや、Bb9が勝手に始めた。でもまあ、自主的にやってくれるのはありがたいし、100年に一遍くらいは私も大掃除しないと清潔感が保てないからな」
部屋の隅で本を整理していたBb9が何か言いたげに赤い目を向けてくるが、コピーは全く意に介さない。
「タイムマシンの方も準備万端だ。城に諸々を運び込んだりする時間がいるから、そうだな、決行は3月27日にしよう」
「今日23ですけど、そんなに急で大丈夫ですか?」
イオは思ったより出発が早くて驚く。
「早く帰りたいんじゃなかったのか」
「そりゃ、数年前は一日でも早くこんな変な世界から帰りたかったですよ。やらなきゃいけないことも過去に残してきたし」
「世話になったヒトにお別れはちゃんと言っておけよ。……とにかく、決行日は3月27日だ」
「わかりました」
イオは楽園に来てほとんど三年間経っていることを思った。いろいろなことがあって、いろいろなヒトと出会った。勉強至上のこの世界で、勉強に生きるヒト、勉強とそれ以外で揺れるヒト、生まれた環境に悩むヒト、学問を愛するヒト、自由と芸術を目指すヒト、天才にも、凡人にも、自分と違うあらゆるヒトと出会った。『楽園』と名付けられたこの世界で、悩み、苦しみ、葛藤の先に自分で答えを見つけ出す、強かなヒトたち。お礼と、お別れを言わなくてはならない。
「スズヤ、お前は大丈夫だよ」
コピーは部屋を出ていくイオの背中に言う。
「ありがとうございます」
イオが出て行った扉をコピーはしばらく見つめていた。
「そういえばBb9」
「はい、なんでしょう」
Bb9は手を止める。
「昨日本棚を整理してたら植物の本があったと思うんだが、王城の下に千年間埋まっていた種は一体、どんな花が咲いたんだろう」
Bb9は本棚から植物の本を探してコピーの元まで持ってくる。
「私にはなんとも」
コピーは本を受け取る。
「スズヤが来るのがもう数百年遅かったら、楽園の王たちは芽がでて花が咲いた植物を見て、腰を抜かしたかもしれないな」
「そうですね。タイムマシンが降って来るよりも驚くかもしれませんね」
コピーは色の褪せた写真付きの図鑑をめくっていく。
「種はサクラですヨ」
声がしてコピーが目線を上げると、伸ばしたワイヤーを器用に使って扉を開けて、ホープが部屋に入って来るのが見えた。
「桜か」
コピーは図鑑の索引の『さ』の欄を指先でなぞった。
「桜なら見たことがある。大昔だけれど」
桜のページを開く。色が褪せた写真を眺める。
「本物はもっとピンクで、もっといい匂いがして、もっと綺麗だ」
言いながらコピーはふと疑問に気づく。
「どうしてお前がそんなことを知っているんだ?」
ホープはオレンジ色の目をピカピカと点滅させる。
「私はハイテクなロボットなのデ。たいていのことはわかりますヨ」
「植物の種類はこんなにあるんだぞ」
コピーは図鑑の分厚さを見せつける。
「エー、わかんないですガ、そういうのは大体サクラですヨ、サクラ」
適当なことを言いながらホープはまた部屋から出ていく。そういえばホープはイオがここに連れてきたが、正体がわからないままだった。ただの都合のいい喋って動く計算機として、今まで積まれたコンピュータを使っていたが、楽園で作られるお仕事補助のAIロボットとは少し違うような言動を見せることがあった。おちゃらけたふるまいと、かわいらしさに寄ったデザインのボディのせいで、多少妙なことをしてもあまり気に留めていなかったのだった。