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ケラサスの使者  作者: 岡倉桜紅
第三章
138/172

25 冬まつり

早朝の弓の練習場には雪が積もっている。

サミダレはルートが弓を引くのを後ろから手を添えて補助している。ルートの手が矢から離れ、矢はまっすぐに飛んで数十メートル先の的に中った。

ルートはパーティーに入って、アメの一族の山で暮らすようになってからというもの、ペンを手に入れ、今まで本を読むだけの勉強スタイルだったのを一新し、体を鍛え始めた。義手や義足、荒れた皮膚というハンデを抱えながらもルートは弱音を吐かずに修行に取り組んだ。

ペンを扱うのに必要な要素は三つあると言われている。モンダイを解く力である『ガク』、ペンを変形させる力である『ヤルキ』、そして、変形したペンを手から離さないようにする力である『ネバリ』だ。ルートは今までペンを触ってこなかったこともあり、さらに義手なので、ネバリの習得が人一倍重要だった。ネバリの習得は修行でしか得られない。ルートの細く、虚弱だった体は筋肉が付き、ここ半年ほどで見違えるほど成長していた。今は、修行中、今までトレードマークになるほど常に身に着けていた黒のフード付きマントを脱いでいた。王である兄に会い、話をするための覚悟の現れのようにも見えた。

「今の一射はなかなか良かった。昨日の夕方、シグレに教わったからかな、体の使い方が上手くなってる。この調子だな」

サミダレは言って、義手を冷やさないようにマントを肩にかけてやる。山の下でポン、という昼花火の音がした。

「今日は冬まつりだ。祭に行ったことはあるか?」

サミダレが聞くと、ルートは首を振った。

「いや、無い。地下は夏に祭をやる。地下の夏まつりを何度か見たことがあるくらいだ」

「去年は規模が小さかったけど、今年はもっと大きくやるみたいだ。たくさん出店も出るみたいだし、花火もある。行ってみないか?街が音楽であふれて、緑と赤と金色に飾り付けられて、町中の人が踊ってるんだ」

「俺は踊りは苦手だ」

「そう言わずに。ただ音楽に合わせて楽しむだけでいいんだ」

二人は朝食を食べに屋敷の中に戻る。大小の足跡が雪に並んでついた。


「ローレン、いっしょに花火を見に行きませんか?」

日が暮れかけた屋敷の廊下でイオはローレンに声をかけた。ローレンは振り返る。

「いいですよ」

夕暮れの山を二人は歩いた。しんとした静けさが心地よかった。

「イオさん、テセウスの船って知ってますか?」

ローレンが口を開く。薄暗い黄昏のせいで表情は良く見えなかった。

「はい。大昔からある哲学の問題ですよね。テセウスの船のパーツを一つ一つ外していって、どこまでをテセウスの船と呼べるのか、外したパーツを別に組み立ててできた船はテセウスの船なのか」

「そうです。いったいどの要素がその船をその船たらしめるのか。それはパーツの量?特定の特別なパーツ?一つでもその船のパーツを含めばそれは同じものなのでしょうか」

足の下で雪を踏みしめる音がしている。

「どうして今そんな話を?」

「なんだか、この話をしなくてはならないような予感がしたんですよ」

祭の音が近づいている。

「あなたはどう思うんですか?」

「答えが出ないからイオさんに聞いたんですよ」

街は赤と緑と金に彩られている。陽気な音楽が聞こえる。

「イオさん、踊りませんか?」

ローレンは言って、イオの手を掴んで引いた。

「はい、踊りましょう」

イオはローレンを引き寄せる。お互いの目が合う。イオはローレンの目に明かりが映っているのを見た。二人は軽やかに踊りながら出店の間を抜けていく。周りのヒトたちも二人に笑いかける。いつしか二人の周りには大勢の人が集まり、音楽に合わせて夢中で踊っていた。寒さなど気にならなかった。

酒瓶を片手に指笛を吹くのはイルマだった。隣にはセトカもいて、二人の様子を笑顔で見ていた。

「イルマさんにからかわれてますよ」

ローレンが言う。

「向かいの道の端にルートとサミダレも物欲しそうに見てます」

イオが返すと、ローレンは笑った。

「じゃあ、逃げ出しましょうか」

二人は通りを駆け出した。

二人は街はずれの静かな公園まで来た。公園内は雪かきが済んでおらず、膝ほどまで雪がある。足を取られてローレンが雪に倒れ込むと、その横にイオがあおむけに倒れ込んだ。

「天井が無ければ、星が見えたのに」

「星ですか」

ローレンは起き上がってイオの横に自分もあおむけに横になった。

「夏ならさそり座、冬はオリオン、カシオペヤ」

「星は見たことないですね」

花火が上がった。辺りがぱっと一瞬照らされて、音が鳴る。

「私にとっては花火が、空の光のすべてです」

ローレンはイオが起き上がっているのに気付く。雪の上に座って、こちらを見ている。

「どうしたんですか?」

ローレンも身を起こした。イオはローレンの瞳を見つめる。

「あの花火を覚えてる?」

イオの声は真剣だった。

「あの花火?」

「ずっと昔に、君と花火を見たんだ」

「何の話ですか?」

ローレンは少し自分の声が震えていることを意識した。

「君はあの日泣いてて、真っ赤なりんご飴をかじって、思ったより硬いですねって言ったんだ。りんご飴には花火が映ってた。あの花火と同じ色だよ」

「イオさん、何のことを話しているのかわかりません」

イオはローレンの手を掴む。

「わかるはずだ。君はあの日から変わってない。僕は伊尾だよ」

「イオさん、やめてください」

イオはローレンのピンク色の瞳を覗き込む。真冬だというのに、春風を吸い込んだ時のように感じた。わけもなくそわそわと浮足立つような、季節が思ったよりも進んでいることに初めて気づいて戸惑うような、ひんやりしているのに花の匂いがするような。そんな匂いがする。

「奏、君なんだろ。前世から愛してる」

花火の音が鳴る。ローレンは泣いていた。

「わかりません。違うんです。イオさん、目を覚ましてください」

「思い出せるよ。僕は今こんな姿だけど、本当に伊尾なんだ。夏休みのあの日、教室で君に会った、最初のクラスメイトだ」

ローレンはイオの手を振りほどいた。

「やめてください!急に前世とか、昔とか、なんなんですか?あなたが見ているのは幻影です。もういないヒトの概念です」

「覚えてるよね。僕は時間移動の理論を完成させたんだよ。君に覚えていて欲しかったんだ。君に僕のことを覚えてもらうことだけが僕の生きる意味だった!生きる証だったんだ。他の誰のためでもない、君の思い出になりたかったんだ」

「私はローレンです。それ以外ではないんです。あなたが人生をささげているような、そんな尊い人間と関係ないんですよ?人違いなんです」

ローレンの涙が頬を伝い、顎から落ちる。

「テセウスの船の話をしただろ。パーツ一つでいい。君の欠片ひとつでいいんだ。だってそのために僕は理論を組んだんだ。思い出一つでいいんだよ」

「そんなの薄情の言い訳じゃないですか。脳が一緒なら、いくつかの行動が似てるだけで他人を混同するなんて。愛すなら、顔も、体も、全部を愛してくださいよ!考え方が同じなら、顔が違ってたって満足なんて言わないで。それなら誰でもいいじゃないですか!」

「薄情じゃないよ。心は、人間は脳の信号で生きてるんだよ。その人の全部は脳なんだ。脳が同じなら、記憶が、思い出が同じなら、同じ表情だって、しぐさだってする。僕は君の全部を愛しているんだよ」

「でも、現に私は覚えてないじゃないですか。おんなじ脳なわけないじゃないですか」

「覚えてる。思い出せるよ。記憶にただ雲がかかっているだけだ。記憶自体はちゃんとあるんだよ」

「愛してなんか、ないですよ」

ローレンはぱっと立ち上がって、公園から走り出て行ってしまった。イオは公園に一人取り残される。伸ばしかけていた手は空中に差し出されたまま、行き場を失くしていた。

イオは頭を抱えてうずくまる。滴り落ちる涙が雪を垂直に溶かしていた。

奏はローレンのように運動神経が良くなかった。奏はローレンのように勉強の覚えもよくなかった。奏はローレンのようにたくさんおいしそうにご飯を食べなかった。奏はローレンのように冷たい目をしたことがなかった。奏はローレンのように口論で理的に言い負かそうとしなかった。

奏はローレンのようににっこり優しく笑った。奏はローレンのように敬語で話した。奏はローレンのようにつらい時でも隠して明るく笑っていた。奏はローレンのように優しかった。奏はローレンのように春の桜の匂いがした。

「僕を覚えていて……」

イオの声は花火にかき消された。

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