18 オーガスタ―
「……そして私は永遠の心臓を手に入れた」
海底図書館の最下層、メデューサはそう語った。
「くだらない理由だと笑うだろう。私はある意味、あのときの読書感想文を書き直すために永遠の寿命を願い、手に入れた」
メデューサは淡々と語っていく。
「私はあまりにも勉強をしなかった。自分文章の巧拙を判断するだけの教養も、他人の文章の良し悪しを判断する基準も、それ以前に他人の主張を理解するたけの頭脳も持っていなかった。私は頭がよくなりたかった。永遠の時間を手に入れた私はまず、本を読むことにした。本を読んで、読んで、その本がいいものか悪いものか判断できなくても、とにかく読んだ。取捨選択はできないけれど、私にあるものは時間だけだから。好き嫌いをせず、棚の端っこから一冊ずつ。読めば読むほど自分の無知がわかっていった。そしていちいち絶望し、哀しみ、嘆いた。私はなんて物を知らないんだろう!やがて私は集めた本で自宅に図書館を作った。図書館には基本的に紙でできた本しか置かなかった。インターネットや仮想空間、コンピュータ上のものは移ろいやすく、消えてしまいやすいから。変わらないものを集めたかった。確かな知識が欲しかった。そうして、その図書館は千年残った」
メデューサは腕を広げる。この部屋はメデューサがエレナだったころの自室を少し改造したものだった。パソコンもゲーム機もまだ置いてあるのはこういうわけだったのだ。
「それがここ、海底図書館なんですね」
「そう。もともとは今みたいに深い海の下にあったわけじゃないよ。図書館は作った一年後に海底に沈む」
手術の後は厳しいリハビリが待っていた。新たに体に入れた心臓が拒絶反応を起こし、地獄のような苦しみが続いた。
しかし、一か月ほどでその苦しみはぷっつりと終わりを迎えた。エレナは数年ぶりに外に出た。大気は汚染されて、街のどこにいても変な臭いがした。夏まではかなりあると言うのに蒸し暑く、空を見上げれば、第五次世界大戦の真っ最中なために、カラーコーンみたいな無人の戦闘ロボットが敵国に向かって空を飛んでいた。
永遠に生きていかなくてはならない世界は、だいぶ汚く荒んでいた。エレナは黙って部屋の中に帰って、ドアを閉ざした。
数週間前から父が家に帰ってこなくなった。さすがにこれ以上黙っているわけにはいかなくなって母に尋ねるとただ、仕事よ、とだけ返された。母親とのコミュニケーションを今まで避けてきたせいで、その発言の真偽が判断できなかった。微妙な表情の変化も何を意味しているのかわからない。というか、母ってこんなにやつれたような顔してたんだ、と場違いなことを考えた。
その日は唐突にやってきた。真夏の、やけに天気のいい日だったと覚えている。ああ、その日は私の誕生日だったっけ。
入道雲を貫いて青い光の線が空を割って、高く高く上って行った。地を揺るがすような大きな音がして、カーテンを開けた。まるでロケットの打ち上げみたいだった。世界の汚さなんか忘れるほど、それは美しい青だった。
空に届いたその光は、やがてはじけた。そして真っ黒な暗雲になって一気に世界中の空を覆った。世界は一瞬にして夜になったみたいだった。雨が降りだした。雨は建物を壊し、その雨に当たった人間をたちどころに殺した。人間は融けた。エレナは世界の形がなくなっていくのをただ窓ガラス越しに眺めていた。
後ろに気配を感じて振り返ると、部屋のドアのところに母が立っていた。
「世界最後の日くらい、娘と一緒にいてもいいでしょ?」
エレナは頷いた。母はエレナの隣まで歩いてきていっしょに窓の外を眺めた。雨に打たれて静かに世界は終焉を迎えている。
母はエレナを抱き寄せた。
「愛してるわ」
母の温もりを感じて、急に感情が堰を切って、波のように押し寄せた。こんなに駄目な娘を、さも当たり前のように無条件に深く愛してくれる人がいる。なのに私はいつも何も返せない。注いでくれた、決して当たり前じゃない愛を、鬱陶しいと払いのけた。いつも自分のことばっかで、他人の気持ちを知ろうともしなかった。
「ぅああ……っ」
感謝を言わなくちゃ。お母さんに、ありがとうって言いたいのに。嗚咽と涙と鼻水ばかりが邪魔をする。
こんなに大切なお母さんに何も返せてない。世界最後の日に気付いたってもう遅いよ。私はたくさんの時間を無駄にしてきたんだなぁ。私はお母さんのいない世界でこれから生きていくのかな。永遠に別れる日が来るんだ。
「今日世界が終わってもあなたは生きるの。生きてみなさい。生きてみせなさい」
母はエレナを優しく抱きしめる。
「私はどうやら次の時代にはいられないみたい。……だから、だからこれで、さよならね」
母はエレナをそっと離すと部屋を出ていく。
「お母さん!行かないで!」
母は一度だけ振り返って微笑むとドアを閉めた。
雨は降り続いた。一年降り続いて、少しだけ雨脚が弱まった。エレナは雨を眺め、部屋にあふれるほどの本を読み、日記を書いて過ごした。タイトルをつける。『メデューサの手記』。インターネットでのハンドルネームとして使っていたメデューサという名前だが、不老不死の自分にとってぴったりだった。クラゲの成体の名前でもある。
世界は静かで、ただ雨音しか聞こえなかった。
エレナの住む家は高層マンションの4階と5階だった。窓から水嵩の様子を確かめると、4階の床の部分ほどの高さまで水面が上昇していた。おそらく父のおかげであろうが、エレナの部屋は特別丈夫に造られていて、人間や建物を融かしてしまう破壊的な雨を浴びてもまだ融けずに残っていた。浸水も雨漏りもない。
エレナは窓を開けた。雨は最近は強く降ったり弱く降ったりと、少しずつ自然な振り方に変化してきているように感じていた。手を伸ばして雨に少し触ってみる。一年という時間をかけて、破壊的な雨はその破壊性をかなり弱め、少し触ったくらいでは何も起きないように変化していた。
エレナはドアを開けた。5階から上の階は融けてなくなり、空が見えた。エレナはパーカーのフードをかぶり、長靴を履いて廊下に出た。階段を下りていく。少しきしむ。エレナの家の一階部分、つまりマンションの4階は、ふくらはぎほどの高さまで水が溜まっていた。キッチンでは冷蔵庫が倒れ、天井に開いた穴からの雨で融けて穴が開き、食べ物だったものが周辺に浮いていた。缶詰や、瓶に入ったジャム、そして穴が開いて中身はとっくにどこかに流れ出て行ってしまってはいるものの、エナジードリンクの缶。エレナはそれらが浮かぶ水の中をざぶざぶと進んでいって、エナジードリンクの缶を拾い上げて苦笑する。
永遠の心臓を得てからというもの、エレナの食欲、睡眠欲、性欲の三つの欲情はなくなり、ただ部屋の隅に置いた金魚鉢に飼うクラゲさえ時々食べていれば生きていられた。あれだけ大好きだったエナジードリンクさえ、今まで一度も飲みたいと思ったことがないのに気が付いた。
「これを飲むなと忠告した医者はみんな死んじゃったんだなぁ」
エナジードリンクの缶をまた水に落とす。ぱしゃんと透明な水が跳ねる。
ダイニングに入る。雨にさらされながらもかろうじて形を保っているダイニングテーブルの席にだれかが座っている。
それは、母だった。骨だけになって、その骨も少し崩れ始めていて、服はボロボロでほとんど原型をとどめていない。部屋の中なのに傘をさしていて、その傘も骨だけだった。母はなにもかも受け入れたかのように静かに座っていた。その表情はどことなく微笑んでいるようにも見えた。
エレナはしばらくテーブルの脇に立ってその様子を眺めていた。そしてまた黙って階段を上り、自分の部屋に戻った。
それから2年ほどが経った。小雨になってきたが、まだ雨は止まない。海面上昇は続き、水位はエレナの部屋の窓のすぐ下くらいになった。もう気安くドアを開けることもできなくなってきた。エレナの生活は変わらなかった。雨を眺め、本を読み、日記を書いて暮らした。
コンコン、とある日窓をノックする音がした。
エレナが目をやると、ボートに乗った数人の二頭身のヒトがエレナに何か話しかけていた。窓を開ける。
「あなたたちは?」
「箱舟に乗らなかった新人類です」
一人の男が船から身を乗り出すようにして言った。少し日焼けをして、腕は筋肉がたくましかった。
「比喩的だね」
「楽園という保存都市のカプセルに閉じ込められることを自ら拒んだ者たち、器の名前で言う、アオセールです。……あなたは?」
「私はメデューサ。この図書館の主」
「図書館?世界が滅亡してからの3年間、ずっとここにいて本を読んでいたのですか?」
「そうだけど、あなたたちこそ、3年間もずっと雨に打たれながら船の上で生きてきたの?」
「はい。古人類、私たちは彼らをエンシェと名付けましたが、エンシェはあの雨に当たると融けてしまいます。しかし我々新人類、アオセールは融けないのです。あなたは……お見受けしたところ、エンシェのようですね」
「そうだね。あなたたちはここに何しに来たの?」
「我々は、街を創りに来たのです」
「街を?」
男は大きく頷いた。
「そうです。海上都市を創る場所をずっとこの3年間探してこの広い海を旅していました。でも今日、ここで旅はおしまいです。なぜなら、あなたに出会えたからです」
「どうやって創るの?」
「この部屋を拠点として、上に伸びるような海上都市を設計します。これから数十年はこの雨は止まないでしょう。ですから、階段のように縦に高い街を創るのです」
「……図書館はうんと大きく創ってよね。それから、司書は私」
「約束します」
男は白い歯を見せてニッと笑った。
それからさらに200年ほどが経った。日記帳は20冊を超えた。図書館はすっかり海底に沈んだ。メデューサの部屋は土台であるために、何度も改装され、少しずつ広くなり、水圧に耐えられるよう丈夫に造られた。部屋の壁の一面には水族館で観るほど大きな水槽にして、そこでクラゲを飼った。明るい茶色だった髪は白くなり、父親譲りの薄い水色の瞳は真っ赤に変わっていた。
やがてその海上集落は青の街と呼ばれるようになり、上へ上へと伸びていった。海面が上昇するたびに図書館は大きくなった。本は街の人たちによって増やされていった。世界滅亡から500年が過ぎたころにはもう海底深くに住む海底図書館の司書の顔を知るものはいなくなった。そのころにはもう雨は止んでいた。メデューサは本を読み続けた。
「これが、海底図書館の歴史」
メデューサは、おもむろに一人掛けソファーから立ち上がり、水槽まで歩いて行った。はしごのようになっているところを上り、水槽の上から料理に使うようなお玉を使ってピンク色のクラゲを一匹掬い上げた。そしてはしごを下りると、ラミーとウォータの前で、口の広いソーサー型のシャンパングラスを取り出し、そこにクラゲを入れた。
メデューサは二人の目の前に美しいクラゲの入ったグラスを掲げて見せた。
「このクラゲ――クレナイクラゲが、永遠の心臓を作る材料なんですね」
ラミーが聞くと、メデューサは頷いた。そしてグラスを傾け、ごくりと飲み干した。真っ白な喉が動いて、クラゲが飲み込まれていった。飲み込んだあとに唇から漏れるかすかな吐息になぜか見とれさせるようなものがあった。