17 ハリス
三年が経った。暦の上では真冬だと言うのに、コートがいらないほど世界は暖かい。エレナの父、ハリスは空を突くような高い高層ビルの前に立っていた。これは『カプセル』という組織の所有するビルで、日本政府の全面的な支援を受け、最新鋭の設備を備え、政府が掲げる『ムーンショット計画』を進めるために各階でさまざまな研究や開発が行われている。
ガラス張りの壁から一階受付ロビーの様子が見える。多くの警備用ロボットが入口のガードをしているのがわかる。今からもう27年も前の話になるが、一人の狂った個人の研究者が銃を持って乱入し、開発途中だった時間移動技術の部門に押し入り、タイムマシンを強奪してビル内で暴走するという凶悪な事件が起きた。犯人は結局どうなったのかなどは、政府や組織によって功名にぼやかされ、曖昧になったが、それ以来、ビルのセキュリティは強化され、時間移動についての分野の研究は禁忌となった。
ハリスは黒髪のかつらの位置の最終確認をし、最先端技術によって創られた網膜付きのコンタクトレンズの調子を確かめる。そして、ビルに何食わぬ顔で入って行った。受付のロボットにIDカードを渡し、網膜をスキャンする。
『生命科学科、伏見守さま。おはようございます、行ってらっしゃいませ』
受付のロボットは画面にそう表示した。ハリスは軽く頷き、エレベータ―に乗った。伏見守は、カプセルの生命科学科に所属する研究員であり、カプセルに採用されるくらいなので頭脳は恐ろしく優秀だったが、運動神経は壊滅的だったために、ハリスに物理的に捕まえられ、無理やり網膜の情報やIDカードを奪われることになった。伏見は現在、ハリスが契約している裏社会的な物件に監禁されていた。
ハリスは生命科学科のフロアに降り立つ。そして、IDカードを差し込み、実験室のドアを開ける。暗く、ひんやりとして、実験室特有の臭いがしている。ハリスは保管庫に向かい、棚に並べられた無数の水槽を一つ一つ見て行った水槽の中には、二頭身のゲームのアバターのような姿の人間が浮かんでいた。
ハリスは首をふる。この辺りの水槽は関係ない。
ハリスは、研究員で共用の研究の成果を補完しているエリアを離れ、研究員が個人で使っている棚のエリアに足を踏み入れる。
ハリスは棚のプレートに『花城』と書かれている棚で立ち止まった。花城という研究員が個人的に行っている研究プロジェクトの成果物に用があった。水槽が並んでいる。水槽を揺蕩うのは、ピンク色のクラゲだった。ハリスはポケットから栓付きの瓶を取り出し、水槽の中のクラゲを掬った。水槽を上から見ると、水の上に桜の花弁が浮いているように見える。まるで花筏のようだった。
ハリスはいくつかの試験管にクラゲを二三匹ずつ閉じ込め、ポケットにしまった。そして水槽をもとのように戻した。
「ここで何してるの?」
はっとして振り返ると、髪の長い女性が腕を組んでこちらを見ていた。
「資料を取りに来ただけですよ。おっと、僕の棚はここじゃなかったですね」
ハリスは動揺を悟られないよう、きわめて平然を装って言った。
「そう。研究頑張ってね」
女性は言った。
「はい、どうも」
ハリスは足早に保管庫を後にしようとした。出て行こうとするハリスの背中に女性が呼びかけた。
「――一応聞くけどさ、それは、愛なんだよね?」
足が止まる。ハリスはゆっくりと振り返る。何もかも見透かしているような、そんな目をしていた。
「間違いなく」
ハリスは答えた。女性は表情を変えないまま浅く頷いた。そして棚と棚の間へと消えて見えなくなった。
エレナはゆっくりと目を開けた。天井が見える。
「エレナ!目が覚めたか!」
少し目を動かすと、父の顔が見えた。
「二か月ずっと目が覚めなかったんだ。よかった。手術は成功だ。お前は、永遠の心臓を手に入れたんだ。……もう、焦らなくていいんだよ」
エレナはくしゃっと顔をほころばせて笑った。笑ったのはもう何年ぶりかわからなかった。