16 永遠の心臓
「……よし。これでもう完璧なはず……!」
8月も半ばに入り、空は青さを増していたが、エレナの部屋のカーテンが開くことはなく、薄暗い部屋で何も変わらないルーティンが繰り返されていた。
エレナは何度も読み返した読書感想文をとうとう送信することにした。これ以上読み返しても直すところの見つからない完璧な文章。文学的価値さえあるんじゃないかと思えるほどだ。エレナは個人チャットを開き、依頼してきた引きこもり中学生とのページを開く。
『ここはこう直してほしいとかあったら全然言って~』とは書いたが、来るはずないだろうと思いながら送信ボタンをクリックした。
どんな返事が来るんだろう。自分の書いたものが人に読んでもらえることがこんなにも嬉しいことなのかと、エレナは初めて気づいた。わくわくと浮足立つような気がして頻繁に新着のメッセージボックスを更新してしまう。やがて、そわそわしている自分に気付いてエレナは苦笑した。そんなに早く返事が来るはずもない。一日か二日は待ってみようと決め、パソコンの電源を切った。このままだとずっとメッセージを待ってしまいそうだ。
エレナはベッドの枕元に置いてある携帯型ゲーム機を手に取る。最近なけなしの小遣いで買った中古品だ。しかし、これから自分は一万円を手にするのだから差し引きそこまでの出費ではないだろう。ここ最近はパソコンの前にいない時間はほぼすべてこのゲームに注ぎ込んでいた。
そのゲーム機はゴーグルとコントローラーからなるもので、ゲーム内の仮想空間で遊ぶことができるものだった。最近はこの手のゲーム機は珍しくないが、話題になっているのはそのソフトだった。タイトルは『サクラ伝説』。このゲームは端的に言えば、謎解きとアクションが組み合わさったようなもので、基本的には個人プレイだが、インターネットを通じて他のプレイヤーと交流することもできる。発売開始からまだ一年も経っていないが、いまだ人気は衰えず、今や日本国民のほとんどが一度はプレイしたことのある超有名作品である。エレナはゴーグルをつける。制作会社とタイトルが表示され、セーブデータを選ぶと、視界はゲームの中に没入していった。
大正時代の日本風な街並みの中にエレナは立っていた。プレイヤーはいわゆる勇者で、街のあらゆる場所に出没するモンスターを倒して経験値を稼ぎ、ときどき街の人のお願いを聞いたりして報酬を得てレベルを上げ、魔王に奪われた緑な自然を取り返すという目的で、四人の中ボスを倒し、最後は街の真ん中に構える城に住む大ボスを倒すというストーリーだ。バトルでは、技を出すためのコントローラーのボタンのコマンドを上手く入力しなければならないことに加え、その場で出題される謎解きをしないと攻撃ができないというシステムで、自分の知力と体力を尽くして戦う感覚があり、そこがなかなか面白いのだった。エレナは現在、二つ目のボスのところで行き詰っていた。
「フレンド募集するか……」
エレナはつぶやく。最近のアップデートで、プレイヤー同士が一緒に協力してボスに挑むようなことができるようになった。エレナはステータスメッセージにフレンド募集中と打ち込み、報酬などの情報を書き込んだ。さて、優秀な仲間が集まるまでは一人地道にサブミッションをこなしてレベルでも上げておこう。このゲームの作り込みは本当にすごくて、まだ誰も見つけていない隠しミッションやマップがまだまだたくさんあるという。マップを巡回するだけで楽しい。
そうこうしているうちに夜になり、エレナはゴーグルを外した。夕食を食べねば。基本的に一日二食なので一食抜くとまあまあお腹が減る。部屋にため込んでいるお菓子なんてものはないし、コンビニに買いに行くのは論外だ。ドアに耳をつけて下の階の様子をうかがう。お盆なので両親は休みで一日中家にいる。リビングでお酒を飲みながら映画を観ていたりする可能性もあり、うかつに降りると鉢合わせしかねない。しばらく前に父親と話をしたきり、父とはさらに気まずくなって、これまで以上に顔を合わせないようにしていた。
物音は特にしなかったのでエレナは空になったエナジードリンクの缶を持って下に降りた。冷蔵庫にはラップのかかった夕食が用意してある。最近は熱いので悪くならないように冷やしているのだ。地球温暖化とかいう異常気象のせいで外の気温は40度とか50度とかニュースになっていた。私が外に出たら一瞬で融けて死ぬんだろうな、と容易に想像できた。この家は全館空調が24時間稼働しているので、この家にいる限りは暑さにさらされることはない。
夕食はご飯と鮭とマグロの刺身が小さくカットしてある小鉢、出汁が入ったコップだ。これで鮭マグロ丼を作って最後はお茶漬けにして食べるということだろう。冷蔵庫の野菜室を見ると、お気に入りの常飲しているエナジードリンクが残りわずかになっていた。母は気付いているだろうか。買い足しておいてもらわないと困る。最近はこれを飲まないと冗談抜きで不安な気持ちになり、やけに喉が渇いて、他の事に集中できなくなる気がする。もちろんそこまで怪しいものは入っていないはずだが、あの喉を通る爽快な炭酸と暴力的な砂糖水は、もはやエレナにとって命の水と言って差し支えない。商品名を検索エンジンの検索ボックスに入力すると、検索数の多いワードとしてその後に「糖尿病」「命の前借り」「医者 警告」などと予測変換が羅列され、この世のすべての医者が飲むことに対して警告を発するほどだが、美味しいんだからしょうがない。
茶わんと小鉢を持ってダイニングテーブルまで行くと、テーブルに何か箱が置いてあるのに気が付いた。箱には赤いリボンが巻かれていて、カードがついている。カードを見ると、そこには『誕生日おめでとうエレナ』と書かれている。
そういえば8月15日、今日はエレナの誕生日であった。エレナは箱を開ける。中には真っ白で何も書いていない表紙の、厚い本が出てきた。挟み込まれているカードに説明が書いてある。『これはあなたが作りあげる世界で一つだけの本です。長編の小説を綴ってもよし、単純に勉強用の計算用紙として使ってもよし、ページを切り離しても、絵を描いてもよしです。当社は十年分の日記が書けるようなページ数があるので十年日記帳としての使用をお勧めします』。ページは少しつやのある丈夫で上質な紙が使われていた。
十年後の自分がどうなっているかなど想像もできない。十年後、この日記帳のページが全部埋まったら、私は23歳になる。全くイメージが湧かなかった。まともで自立した大人になっているビジョンがこれっぽっちも浮かばなかった。
部屋に持ち帰ってパソコンデスクの上に日記帳を置く。パソコンやゲーム機など、電子機器で埋め尽くされた部屋の中でその本はただ一つ奇妙な違和感を放っていた。一ページ目を開いてみる。真っ白なページと対面する。エレナは長いこと部屋の隅に放り捨てられていたスクールバッグの中から初めてペンケースを取り出し、中から鉛筆をつかみ出した。
『2155/8/15』と日付を書き込んだ。長い間筆記用具というものを触ってこなかったので、自分が予想していたよりも手に力は入らず、ふにゃふにゃの字だった。しばらく何を書こうかと考えたが、特に日常に特筆すべきイベントが起こっていないことに思い当たり、ただ『これから気が向いたときにときどき、正直に日記をつけていこうと思う。今日はたんじょう日。特になにもない』と書いて本を閉じた。この日記をつけていけば、十年後の人生が少し変わるんじゃないかと思った。起きたことを書く意識があれば、代り映えしない日常を眺める目が少しは変わるんじゃないかと思った。いや、変わらなければ。このままでは駄目なことはずっと前からわかっている。そして、変えようと考えながらも何もしてこなかったこともわかっている。でも、日記を書くことくらいはできるんじゃないか。
そう考えている自分に気付いてエレナは苦笑を漏らした。日記をつけようと決意するだけなのに、こんなにも重い感情を抱かないと始められないとは。私って将来に対してこんなに不安で、何をするにも、何もしないことにも不安ばっかりだ。
時計は03:45を示している。まだそこまで眠たくはないが、朝日がカーテンのわずかな隙間から差し込むのを見たくはなかったので、本を片付け、ベッドにもぐりこんだ。
いつものように昼過ぎにエレナは目を覚ました。ルーティン化されているので、体は勝手にパソコンの前に座り、電源を入れる。
新しいメッセージが届いていた。
すぐに眠気が吹き飛んだ。エレナに読書感想文を頼んできた引きこもり中学生からだ。私のすばらしい文章に対してどんな誉め言葉が書いてあるのだろうとエレナは胸を高鳴らせながらそのメッセージを開いた。
「……え?」
エレナはメッセージの内容があまりに予想外だったので、しばし呼吸を忘れた。喉の奥から声が漏れた。
『超笑ったwwwこんなにおもしろい文章読んだの初めてwww内容バカすぎてまさに義務教育の敗北で草wwww これ掲示板にのせとくわ、絶対バズるww でもさ、俺はネタじゃなくてマジメなのを頼んだんだけどな。まあ、まだ夏休みは二週間くらいあるし、ふざけの入ってないやつはもうちょっと先でもOKっす!おもしろい文章送ってくれてサンキュー!まじめ風に送ってきてこれはマジギャグセン高くて最高』
エレナは少し震える冷たい指先でキーボードをたたき、返信を送る。
『いや、これはまじめに書いたやつですけど……。やり直しってことですか?』
相手もパソコンの前にいるのか、すぐに返信が返ってきた。
『えっwww あ、ハイ、そうっすね』『あ、この会話も合わせて掲示板にのせていいっすか?』
エレナは拳でパソコンデスクを思い切り殴った。視界の端に、個人宛のメッセージが新たに大量に届いているのが映る。それを開くと、どのメッセージもエレナの作文を読んだ感想について書かれており、『千年に一度の逸材』『ここまでのアホは珍しい』『もはや完成された芸術』などと、エレナの作文を嘲笑し、バカにする内容のものだった。
体中から嫌な汗がにじみ出している。高熱を出した時みたいに体の水平がわからなくなる。
「な、なんでっ……!?」
掲示板のバズったトピックのコーナーにエレナの作文の全文コピーが貼り付けられてさらされていた。エレナは椅子から転がり落ちた。腰が抜けたみたいに立てない。衝撃でデスクが揺れて、エナジードリンクの缶が倒れて、床にへたり込むエレナの頭から降り注いだ。
あんなに一生懸命書いたのに……!
心の中で、ガラスが甲高い音を立てて一気に割れるようなイメージがよぎった。床全体に広がった透明で鋭利なガラスは、エレナの体中を突き刺した。透明なその言葉の棘はエレナの心をずたずたに引き裂き、赤く染まる。
通知は止まらなかった。
8月31日。エレナはあれからというもの、一度もパソコンの電源をつけなかった。ただ何もできず、ベッドの上で布団にくるまって一日中震えながら唇の中でぶつぶつと何かをつぶやくだけの塊になっていた。
夕日がカーテンの隙間から細く差して、夏が終わっていった。
やりなおしたい。
エレナは思った。どこからだ?人生全部だ。リセットしたい。本当は、学校に行かなかったこと、行こうとしなかったこと、勉強をしなくなったこと、両親を避けたこと、全部を後悔していた。それか、それができないのならもういっそ、ずっと子供でいたい。何も考えなくていい、毎日がただただハッピーで、ただ好きなことをいつまでも楽しんでいられるような、その意味なんか考えもしないような、無邪気で馬鹿な子供でいたい。
エレナはまるで幽霊のような足取りでふらふらとベッドから立ち上がった。部屋のドアを開け、父の部屋のドアの前に立つ。
ノックをする。少しして父親が驚いた顔でドアを開ける。
「お父さん、私に、――永遠の心臓をちょうだい」