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ケラサスの使者  作者: 岡倉桜紅
第三章
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15 読書感想文

エレナはネット越しの引きこもり中学生から依頼を受けたその日のうちに、読書感想文に取り掛かった。指定された本を電子書籍版で購入し、読んでいく。そこまで長い作品でもなく、すぐに読み終えることができた。色や花を通して人間の感性や感情についてをテーマにしているらしいが、いまいち何を伝えたい作品だったのかよくわからない。

近年は、生花など、百年ほど前に一般的に親しまれていたレトロなものがまた流行りを迎えていた。最近は戦争のせいもあってか、環境破壊はどんどん加速し、造り物ではないリアルな植物や花は貴重なものとなった。一部の富を持つ人たちは、本物の植物を部屋に飾ることによって贅沢さを演出していた。エレナは本物の花を見たことは数度しかなかった。巨大なサイバー都市、東京の中にある、一つの公園。幼いころ父に連れられて、春の公園に足を運んだ。父はエレナを肩車して、満開に咲き誇るピンク色の花を見せた。触ろうとしたら、近くにいた老婦人にきつい言葉で怒られて泣いたのを覚えている。

エレナは文書作成ソフトを起動する。作文のコツというのは、すでにインターネット上で検索済みだ。重要なのは、あらすじは極力省力すること、自らの体験と絡めて書くこと、あとはとにかく作品の本当に言いたいことについて私はわかっています、というアピールをしたうえで、その言いたいことについてたくさん褒めることだ。

缶に入っているエナジードリンクをぐびりと一口飲む。時刻は午後7時を回って、炭酸はとっくに抜けていた。

それから一時間ほど経った頃、玄関の戸が開く音がした。母親が帰宅したのだった。階下から、「ただいまー。今ご飯作るわね」という声がするが、エレナはその音を耳に入れまいとするかのようにヘッドフォンをつけた。

書き始めるまでがなかなかどうやって書いたらいいか悩み、筆が進まなかったが、書いているうちにどんどん勢いに乗ってきて、夢中でキーボードをたたいた。もしかして私、文章を書く才能があるのかも?今回引き受けた頼みに対して満足してもらえるようなすばらしい文章を書ければ、それで得られる一万円は、正当に自分で、自分の力で稼いだ賃金ということになる。自分の文章に価値を感じてお金を払う人がいる。これってもしかして、一人前のライターとして認められるってことなんじゃないか?そうだ、この調子で物語なんかを書いて小説家としてデビューとかできれば……!引きこもりで友達もいないし、勉強もできない私でも、このパソコン一つで働いていけるんじゃないか?そんな気持ちがむくむくと湧いてきた。両親はきっと私のことを引きこもりニートのクズだと思ってる。でも、私が私の力でお金を稼ぐことができると知れば、きっと私のことを少しは見直すだろう。

ッターン!

最後のエンターキーを押し、文章が完成する。エレナは人生で初めて書いた2000字の作文の予想以上の出来に満足した。机の端に置かれている、透明アクリルの中でネオンライトのような色合いのデジタル数字が浮かぶ時計を見ると、23:55を表示していた。

エレナは空になったエナジードリンクの缶を持って部屋を出て、忍び足でリビングに降りた。母親はすでに寝ているようだ。ダイニングテーブルを見ると、ラップをかけた夕食が二人分用意されていた。父親はまだ帰宅していないのだ。珍しいな、とエレナは思った。父は普段はエレナが食事を食べに降りてくるこの時間には帰宅して眠っているのに。

夕食はカレーだった。エレナの分の皿に盛られたカレーは甘口のお子様カレーで、野菜は小さく刻んで、ほぼ食感がわからないくらいにトロトロに煮込まれたものなのに対して、父の分の皿は中辛で、ジャガイモと人参と玉ねぎ、それに豚肉がゴロゴロとたっぷり入っていた。

エレナは缶をシンクに置き、電気を点けることなくダイニングテーブルについて、カレーを食べた。風呂に入っている間に父が帰宅すると顔を合わせることになってしまい、気まずい気がするので、風呂には今日は入らず、明日の昼に起きた後にでも入ろうなどと、ぼうと考えていると、玄関で鍵が開く音がした。

エレナは思わずびくりと体を震わせる。スプーンが床に落ちて、嫌に大きな音を立てながら転がった。

父親がダイニングに入ってきた。明るい茶色の髪と薄い水色の瞳がエレナの持つそれとそっくりだった。自分が不登校になった根本の原因は、父からそっくり受け継いだ容姿なのだが、父のことは別に恨んでいるというわけではなかった。ただ、家に引きこもって何もしない自分のことを責めたりしない父には申し訳なく、さらに、立派に働いている父を前にすると自分がなさけなく感じてくるので、どうも顔を合わせることができなかった。

「エレナ。ただいま。久しぶりだな」

父は上着を脱ぎ、ネクタイを緩めながら言った。上着を椅子の後ろに引っ掻け、エレナの正面の席に腰掛ける。ラップを外して中辛のカレーをスプーンですくう。

「……チンしないの?」

エレナは言ったが、父は構わずに冷えたカレーをそのまま口に入れた。

「今夜はエレナと少しでも長く話していたいからね」

「……」

「うん、やっぱり母さんの作るカレーは美味いな」

父はそう言いながらぱくぱくとカレーを口に運んだ。エレナはスプーンを机の下に落としてしまっていたので、特に何もせず、黙って自分の皿を見つめていた。父は別にエレナに食べろとも何も言わなかった。ただ向かい合い、自分の皿のカレーを食べた。

「父さんはエレナが学校に行かないことをちっとも怒っていないんだ」

最後の一口を飲み込んでから父は言った。

「母さんもだ。エレナ、お前を愛してるんだ。今は他の同年代の子たちを自分を比べてしまう時期だからつらいこともあるだろうけど、生まれてきてくれただけで、生きているだけでうれしくてありがたくて、毎日世界中のありとあらゆる神様に感謝したいくらいなんだ」

エレナはテーブルの下で拳を握った。よくもまあ思春期の引きこもり中学生に向かってそんな歯の浮くようなセリフが言えたものだ。別にあんたらのために生きてるんじゃないし。まあ、かといって何のためにも生きてはいないのだが。とにかく、両親からの愛してる発言ほど蕁麻疹の出るものはない。あんたらが私をどれだけ愛してたって、世界全体からみれば私はただのヒキニートのクズだ。父や母のようにしっかり勉強もしていないし、地位や名誉はおろか、このままいけば就職も怪しい。私は私を愛していない。

「話したいことってそれだけ……?ならもう部屋に戻るけど」

エレナは腰を浮かせた。父はきれいに食べ終えた皿を脇に退けて、テーブルの上に仕事に持って行っているカバンを置いた。銀色のアタッシュケース。蓋を開けて、父は中から小さな小瓶を取り出した。父親はエレナにその小瓶を差し出す。暗いリビングではよく見えないが、受け取って目の前にかざし、わずかな光を通して目を凝らすと、ピンクがかった半透明のものが瓶に満たされた液体の中を浮いたり沈んだりしているのが見えた。

「何?クラゲ……?ペットならいらない」

父親は首を振る。

「父さんの仕事は知っているね。最先端医療の研究者だよ。今日、長年求めていたものが手に入った。これは材料なんだ。――永遠に歳を取らない体に興味ないか?お前は他の人よりも少しスタートが遅かっただけだ。足りないのは時間だけだ。時間さえあれば、決して早くはなくともお前はこの世の誰よりも遠くに行けるはずだ」

父が何を言っているのかわからなかった。永遠に歳を取らない?まじまじと父の顔を見るが、その顔は真剣そのものだった。

「12歳をやり直せってことね」

エレナは小瓶をテーブルの上に置いた。

「違うよ。お前は決して駄目じゃない。それを自分の力で証明するのに必要なのは時間だと父さんは思ってる。少しでもお前の力になりたいんだ。このクラゲはクレナイクラゲと言って、人工的に生み出すことができた、特殊な能力を持つ特別なクラゲだ。このクラゲを使えば、永遠に動き続ける心臓を作ることもできるんだ」

「自分の力で?クラゲの力借りちゃってんじゃん。そういう的外れな気遣いマジうざい。別に他の人に私は駄目じゃないんだみたいなこと宣伝したいわけでもないし」

エレナは父に背を向けると速足で、半ば走るようにして自分の部屋に駆け込んでドアを閉めた。心臓がバクバクと変に脈打って、背中を気持ちの悪い冷や汗が流れるのを感じる。いきなりあんな話をするなんてどうかしてる。もしかして、父は内心、私が思っているよりも私に対して失望し、諦めているのだろうか。永遠に歳を取らなければ、いくらでもやり直せる。無限の時間を手に入れれば、今までパソコンの前に座って無為に食いつぶしてきた時間も、全体から見ればほぼなかったことにすることも可能だろう。

「クッソ……!」

エレナはドアの前に座り込む。目からは涙がぼろぼろあふれてくる。自分がなさけなく、そして泣いている自分がさらになさけなく、さらに泣けてくる。制御できない荒れ狂う感情があふれ出して渦を巻くようだ。エレナは暗い部屋の中で独り、膝を抱えて丸まった。時計は01:00を示していた。

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