11 電話ボックス
「くそっ、くそっ!」
ギンナルは自らの体を必死で動かそうとする。ギンナルの胴はロープで椅子の背にぐるぐる巻きに縛り付けられ、腕は後ろに回され、手首はきつく縛ってあり、身動きが取れない。マリアの住むマンションのどこか一室に閉じ込められていた。マリアの部屋から引きずり出されるときに頭を殴られて気を失い、窓から差し込む朝日で目が覚めた。8時過ぎと言ったところだろうか。まずい、時間がない。早く会社に向かわないと。
閉じ込められているとはいっても、マンションの部屋というのは主に内側から鍵の開け閉めをするので、閉じ込められているというわけではないのかもしれない。しっかり拘束して危害をくわえようという意志は無いようで、ギンナルを明日の正午までの約12時間閉じ込めておければよいという程度であった。大声で叫んだとしてもこのマンションであれば防音がしっかりしているので、隣の部屋の住民にすら聞こえないだろう。犬食いすれば食べることができる位置にサンドイッチとストローが差してある水のボトルが置かれていた。
「なめやがって……」
ギンナルはかろうじて動かせる指先を起用に使ってポケットの中身を探る。ライターの感触があった。
何とかうまくポケットから引っ張り出してスイッチを押す。手首を縛るロープさえ焼き切ることができれば活路が見いだせそうだった。
「熱っ」
手首の皮膚をライターの炎が焼く。歯を食いしばって熱さに耐える。もう少し。
その時、あろうことかギンナルの手からライターがぽろりと落ちた。ライターは床をはねて遠くに転がった。舌打ちが出る。中途半端に焼いたロープはまだ千切れるレベルには到底達しておらず、それでも引きちぎろうと手首を動かすと、火傷の皮膚がロープにこすれてずるりと剥ける感触があった。
「くそぉ!」
ギンナルはそれでも、手を動かし続けた。
事務のお姉さんはいつもどおり、そのオフィスではたらく従業員の中でも一番早くにオフィスに出社し、自分の仕事部屋でコートを脱ぎ、必要な書類、メモを机の上にセットする。誰もいない静かな朝のオフィスの床をモップで軽く掃除をし、窓を拭く。そして、自分のコーヒーを用意し、自分専用の仕事部屋に入ってドアを閉め、席についた。
さわやかな春の朝の日差しが窓から差し込んでいた。
電話の多い日だった。事務のお姉さんはてきぱきと問い合わせや依頼をさばき、受話器を置いてすぐに鳴りだす電話に対応するために、メモを従業員まで伝達することもできず、自分の部屋にこもり切りになった。
始業時刻になっても、たくさんの従業員のデスクが並べておいてある広い部屋はがらんとして、一人もヒトがいなかった。
11時40分。事務のお姉さんを除く、すべての従業員は、誰一人出勤していなかった。
事務のお姉さんは依頼の電話を終えて受話器を置く。おそらくその依頼は虚偽だということに気付いていた。しかし、事務のお姉さんは立ち上がることもせず、電話を見つめていた。
「あああ!」
ギンナルはとうとう手首のロープを引きちぎった。手首からは血が流れ、手は真っ赤に染まっている。自由になった両手を精一杯伸ばしてライターに手を伸ばす。椅子が倒れる。ギンナルはなんとかライターをつかみ、自分の胴に巻き付けられたロープを焼き切った。
体が自由になると、迷わず窓を開けてバルコニーに出る。その部屋は5階だった。
ギンナルは少し泣きそうに顔をゆがめる。
「ああ、5階って、こんなに高くて、こんなに怖いんだ」
ギンナルはバルコニーの手すりを乗り越え、飛び降りた。
ゴミ袋が積んである場所めがけてギンナルは落下した。ゴミ袋の山に落ち、ゴミ袋は勢いよく道にまき散らされる。
「ぷは!」
足と腕が何やら変な方向に曲がっているような気がしなくもないが、気にしてはいられなかった。体中生ゴミと血の臭いにまみれながらギンナルはゴミをかき分け道に飛び出し、走り出す。
間に合え、間に合え、間に合え!彼女を救えなかったら、俺はあの日の俺のまんまじゃないか。もう二度と後悔したくないんだ。守りたい。
走れ、走れ、走れ!
「おい、ここから先は交通規制中だ!通りたきゃ回り道しろ!」
急に目の前に通せんぼする男が現れ、ギンナルはぶつかって尻もちをつく。
「うるさい!どけ!」
ギンナルはその男を押しのけようとするが、力が及ばなかった。逆に男に突き飛ばされて背中をコンクリートに強く打ち付ける。肺の中の空気が一気に押し出され、目の前がチカチカした。
「駄目だ。今日は工事をするから近隣の住民すらもここを通れないことになってるんだ。――ていうかお前、ひどい格好だな。怪我してるし、かなり臭う」
男が鼻をつまむ動作をして、男の腕時計がちらりを見えた。11時55分。
ここで男を振り切れたとしても、オフィスまではまだ距離がある。
「くそっ」
ギンナルは拳をコンクリートにたたきつける。何か、何か方法はないか。頭の中はパニックを起こしそうになる。駄目だ、救わなきゃ、救わなきゃ。
あんな思いはもうしたくない。二度と俺の大切なヒトを殺したりなんかしたくない。
ギンナルの手は無意識にポケットの中を探る。名刺が指先に触れた。
電話だ。
ギンナルは立ち上がった。
「電話は、一番近い電話ボックスはどこにある!」
ギンナルは交通規制をしている男につかみかかって叫んだ。
「な、なんだよ、電話?電話ボックスならそこの角にある」
ギンナルは聞くや否や、男を放り出し、走った。角を曲がると電話ボックスがある。あと3分。オフィスの番号はわかっていた。少し前にユメクイが見せてくれた企業パンフレット、それに連絡先が記載されていた。大丈夫、ちゃんと覚えてる。
「あ、もしもし、僕、友人からの口コミで聞いて、おたくのサービスを利用したいと思って電話したんですけれど」
エラーズ排斥派の男は電話をかけていた。
『はい、お電話ありがとうございます』
スピーカーモードにした受話器からは事務のお姉さんの声がする。男は隣に立つ仲間ににやりと目配せした。
「よし、やれ」
ギンナルは電話ボックスのドアを乱暴に開け、電話に飛びつく。電話を掛けろ、電話を掛けろ、今度こそ電話を掛けるんだ!受話器を取り、コインを入れて番号をプッシュする。
つながらない。
乱暴に受話器を戻し、もう一度コインを入れなおし、番号をプッシュ。
やはりつながらない。
そこでギンナルは気付く。受話器から番号をプッシュした時の音が聞こえていない。受話器を見る。受話器から電話本体につながっているコードは、ぷつりと真ん中あたりで切れてぶら下がっていた。
カッとまぶしい暴力的な光が電話ボックス内を照らし、直後に爆発音が鳴り響き、ガラスがびりびりと振動した。一拍おいて衝撃波が空気を伝わり、電話ボックスのガラス壁一面が割れてはじけ飛んだ。あたりには土煙が立つばかりだった。
ギンナルは身じろぎ一つもせず、切れたコードを見て立っていた。おそらく、この電話ボックスはかなり前から故障していて、長いこと使われていなかったのだろう。電話ボックスなんか使うタイミングは普通に暮らしていればあまりないから、しょうがないことなのかもしれない。聞かれてとっさに答えたあの男を責めることはできない。それに、別の電話ボックスの場所を教えてもらっていたとしても、間に合ったかどうかは定かではない。遅かった。何もかも致命的に遅かったのだ。
――また、救えなかった。
ギンナルは膝を折る。体中が震えだす。目から大粒の涙がこぼれていく。
「うああああああああああああ!!」
ギンナルは慟哭した。また駄目だった。俺は駄目なままだった。電話を、掛けられなかったのだ。
どうしようもなく涙があふれていく。言い訳なんかできない。苦しかった。変わらない自分が嫌で嫌でしょうがない。誰か、罵ってくれ。俺を殺してくれないか。
「プルルルル、プルルルル」
ふいに後ろから声がした。
「ガチャ」
声の主は言った。
「お電話ありがとうございます。こちら、ハイパー・エクストラ・ウルトラ事務のお姉さんでございます」
「!?」
ギンナルが振り返ると、右手で受話器の形を作って耳に当てた、スーツの女性、事務のお姉さんが立っていた。
「な、な、なんで君が……?」
ギンナルが涙と鼻水でぐしょぐしょになった顔であっけにとられて、なんとかその言葉を絞り出すと、事務のお姉さんは少し微笑んだ。ギンナルの前にしゃがんで目線を合わせると、指でその涙をぬぐう。そして、ギンナルが握りしめたままの受話器をギンナルの耳まで持っていった。
事務のお姉さんは、自分の手で作った受話器に向かって冗談ぽく言った。
「電話ならいつでも私が出ます。だって私は、ハイパー・エクストラ・ウルトラ事務のお姉さんですから」
事務のお姉さんは立ち上がってギンナルに手を差し伸べる。
「昨日はあなたに当たるようなことをして申し訳ありませんでした。でも、誤解しないでください。私は、あなたのことをもう恨んではいないんです。母を、アスターを愛してくれてありがとうございました」
オフィスのビルは爆発で跡形もなく砕け散り、爆発の衝撃によって地面が陥没して、クレーターのように地下まで穴が開いてしまっていた。
爆発の中心、がれきの山の中で、レコードが回り続け、事務のお姉さんの録音された声が流れ続けていた。
『はい、お電話ありがとうございます』
「電話を待っていました。母が愛したあなたを、私は救いたかったんです」
「爆発や計画の事は知っていたのか?」
ギンナルは涙だか鼻水だかをごくりと飲み込んで聞く。事務のお姉さんは頷く。
「はい。エラーズ排斥派が爆弾をオフィスに仕掛けたことも、会社の社長がこのオフィスを爆破させようとしていることも、社長が私を最後の最後にオフィスで電話番をする役として雇ったのも、プランB と称して私以外の従業員は皆今日出勤しなかったことも、すべて知っていました」
ギンナルの口から少し笑い声が漏れる。自分より一回り以上若い目の前の女の子は、俺よりずっと強い。
「なんだ、それじゃあ俺は独り相撲を取ってただけか」
ギンナルは事務のお姉さんの手をつかんで立ち上がる。
「じゃあ、逃げるとしましょうか」
事務のお姉さんは笑って、ギンナルの手を引っ張って走り出した。ギンナルは苦笑しながらその後を追う。がれきの街を二人は走った。
「ありがとう」
ギンナルは小さくつぶやいて握っていた受話器を後ろに放り捨てた。ポケットからいつの間にか名刺はなくなっていた。