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ケラサスの使者  作者: 岡倉桜紅
第三章
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9 ギンナルと事務のお姉さん

母は、ギンナルに愛されていないと勘違いして5階から飛び降りた。頭の中はそのことだけがぐるぐると回り続けていた。

ユメクイの住むゴーストマンションを出てしばらくどこに行くともなく足の赴くままに歩いていた。急にめまいがして膝ががくりと折れる。視界が周り、まるでメリーゴーランドの上にいるかのようだった。世界が回っている。ああ、実家で煙草を手に入れた後、寝食も忘れて煙草のことや、花火工房のことを調べていたんだった。吐き気がこみあげて事務のお姉さんは口元を押さえる。

「おい、大丈夫か?」

ふいに声が振って来る。やっとの思いで視線を上に向ける。黒い長髪を結び、耳にはピアスをつけた男。ギンナルだった。ギンナルは事務のお姉さんに気付いてはっとした表情になる。

事務のお姉さんは吐き気をこらえて飛び退るように立ち上がった。足元がふらつく。

「無理するな。真っ青だぞ」

「近づかないで!」

ギンナルが伸ばす手を振り払う。

「どうしたんだよ」

「アスターを……アスターを愛していたんですか?」

「え」

ギンナルは戸惑う。

「ちゃんと、本当に、愛していたのかって聞いているんですよ!」

事務のお姉さんは叫んだ。ギンナルは悟る。彼女はとうとう気付いたのだった。ポケットの中の名刺に指を這わせる。

「……愛してたさ」

事務のお姉さんはギンナルの胸倉をつかんだ。

「じゃあなぜ!じゃあなぜ母は死ななくちゃならなかったんですか!二人思いあっていたのに、どうしてあなたは母をみすみす死なせるようなことをしたんですか?愛してたんでしょう!なんで連れ出さなかったんですか!」

事務のお姉さんは泣いていた。事務のお姉さんに押されて、ギンナルは壁に背をつける格好になる。

「あなたのせいだ!死なせるくらいなら、最初から母に近づかなきゃよかったんだ!母を、私の母を返してよ!」

「……ごめん」

「最悪です。自分の行動くらい責任を持ってくださいよ!こんな地下で、情報屋なんてことやって定職にもつかずふらふら暮らして、他人の感情をもてあそんでいるのと同じでしょう。私から母を奪った。母にはあなたしかいなかったのに。そしてそれは、私にとっても、あなたしか救えなかったのに。無責任なことをしないでくださいよ。あなたの生き方は全部無責任なんですよ!」

「ごめん」

事務のお姉さんは吐き気が押さえきれなくなり、ギンナルを離してしゃがみ込む。嗚咽が、涙が止まらない。

「ちょっと!そこ!何をしているんだ?」

道の向こうから声がかかった。一人の女性が駆けつけてくる。スーツを着た、金髪で青い目の女、カトリーナだった。カトリーナは事務のお姉さんの様子を見るや、背中をさすって自分のハンカチを差し出した。事務のお姉さんは声を上げてむせび泣く。その悲痛な叫びは道にこだまする。

「あんた、もういいからどっか行きな」

カトリーナは事務のお姉さんの腕を取って肩に回すと、担ぎ上げるようにして立ち上がった。

「会社はすぐそこだから、そこで休もう」

事務のお姉さんは、無意識のうちにでも自分の会社へのルートをたどって歩いてきたのであった。カトリーナと事務のお姉さんは会社のビルの中に消えていった。ギンナルはただそれを見送り、立ち尽くしていた。


カトリーナは事務のお姉さんを会社の休憩スペースのカウチに寝かせた。先ほど、トイレで吐くものをすべて吐いてすっきりとしたのか、それとも体力が尽きたのか、安らかな顔で寝息を立てている。吐いた、とはいっても、口から出てくるものは胃液ばかりだった。しばらく何も食べていなかったのだろう。

電話線のメンテナンスという()()の臨時休業が明けて出社してきた社員たちは、事務のお姉さんの様子を見て不安そうな視線をよこした。

「おい、プランBの決行は明日だぜ。そんな状態で大丈夫なのかよ」

同僚がカトリーナに聞いてきた。

「プライベートで何があったのかは知らないが、体調のほうはただの栄養失調と寝不足だろう。食べさせて寝かせておけば今日の夜くらいにはもう電話番くらいはできるまでに回復しているだろう。その辺で何か滋養のありそうなものを買ってこさせてくれ」

「へいへい。明日電話番が出来さえすれば問題ないしね」

同僚は頷く。

「ま、世間と言うものに絶望してくれている方がこちらとしてはやりやすいや。この世に未練たらたらだとちょっとかわいそうだからな」

「……そうだな」

同僚は休憩スペースから出て行った。


事務のお姉さんが目を覚ますと、終業時刻1時間前だった。カウチに寝かせられ、体にはタオルケットが掛けてあった。

目の前の机の上にはサンドイッチと牛乳が置かれ、『起きたらすべて食べてください』というメモが置いてあった。筆跡からして、カトリーナさんだろう。事務のお姉さんは、社員のほぼすべてのヒトのメモや、作成した書類を見たことがあり、その筆跡を記憶していた。

しばらくぶりになる食事を口に運ぶ。ゆっくりと体にしみわたっていくようだった。

「起きたか」

カトリーナが様子を見に来た。

「先ほど。こちらの食事をありがとうございました。そして、本日は朝から大変申し訳ありませんでした。今日すべきだった仕事は必ず明日以降埋め合わせをいたします。今日は無断欠勤にひとつ数えておいてください。そして、今日私の業務の穴を埋めてくださったのはどなたでしょうか?お詫びを……」

「ああ、いいから、いいから。相当つらいことでもあったんだろ。時々は仕事も休まなくちゃ。そして、君は自分の体をもう少し大事にしたほうがいいね。同じオフィスで働くものとして少し心配だよ」

「申し訳ありません」

カトリーナは気にするな、というように首を振ると、事務のお姉さんの向かいに腰掛ける。

「今日はもう会社のことはいいから帰りな。そして家でもゆっくり休んで、また働けばいい。辛ければ、仕事よりも優先すべきものを優先してもいい」

「いえ、そんなものはもうありません」

「人生は仕事だけじゃない。プライベートを、自分自身の人生を楽しませるための補助的な手段だよ」

カトリーナは事務のお姉さんの目をしっかりと見て言ったが、事務のお姉さんは首を振った。

「いいえ。私にとって今必要なことは、このお仕事をしっかりとやることです。今日は本当にありがとうございました。明日は最初から最後まできっちりと働かせていただきます」

「……そうか。あんなに泣いていたのはもう大丈夫なのか?」

「はい。精一杯泣いた後というのは心がすっきりすると言いますか、どこかすがすがしい気持ちすらします。ギンナルさん――私が詰め寄っていたあの方に対しても、少し言い方がきつかったと反省し、申し訳なく思うほどです。もう、吹っ切れました。もう、あの方に対しての怒りもないのです」

事務のお姉さんはカトリーナに一礼すると、会社を出て行った。

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