8 煙草
「来ると思ってたよ。よく俺を見つけたね」
ユメクイは煙管から唇を離した。青白い煙が空中に揺蕩う。
「私は、ハイパー・エクストラ・ウルトラ事務のお姉さんですから」
事務のお姉さんは言った。ユメクイの自称自宅、ゴーストマンションの一室で二人は対面していた。
「あなたの事を調べるのはかなり骨が折れました。あなたは求めるヒト誰にでも煙草を売る、というわけではありませんでしたから」
「そうだよ。俺は俺の気に入ったやつにだけ売る。一見さんお断りの会員制の商売なんだ」
ユメクイはソファーから立ち上がる。事務のお姉さんより少し背が低かった。カツン、カツンと義足が金属音を立てた。事務のお姉さんのそばまで歩み寄ると、事務のお姉さんの顔をなめるように眺めた。不健康な顔色の中で瞳の紫色だけが鮮やかに光っていた。
「俺を自力で見つけ出したことに敬意を表して、一本作ってあげたいくらいだね」
「ええ、ぜひお願いしたいです」
ユメクイは喉の奥でくっくっと笑い声をあげた。
「もちろんだよ」
ユメクイは床に開け広げたスーツケースの中をごそごそやり始めた。ここで事務のお姉さんは部屋の中を見渡してみるが、部屋は数年住んでいる割には私物が少なく、いまだに棚やタンスを使わずに、スーツケース一つに収まる程度の私物をスーツケースから出し入れすることで暮らしているようだった。煙草作りに使うのか、見たこともない道具や、地下で流通している子供が遊ぶためのおもちゃ、同じ型の白いマントが何着も見えた。
やがてユメクイは一本の煙草を事務のお姉さんの前に差し出した。恭しい手つきで事務のお姉さんの口にくわえさせると、ジッポのライターで火をつけた。初めての煙草の煙に事務のお姉さんはややむせる。
「平気だよ、すぐに美味くなる。ゆっくり吸ってごらん」
青白い煙が部屋に満ちていく。数度煙草をくわえて息を吸っていると、だんだん頭の中がガクで満たされていくような感じがした。一時的に考える力を得たような、自分だけが、世界の誰も知らない秘密を覗き見ているような気になってくる。頭の中で一つの考えが浮かんでくる。『愛するヒトへの告白は、対面ですることが最も効果的に思いを伝える手段であるのだろうか』。頭の中に浮かんだこの考えは、モンダイではなく、あくまで考えであって、「~だ」と断定することも、「~ですか」と質問することもない。誰かがぼんやり思っていることの独り言を盗み聞くような体験。その誰か、というのは最初から一つの正しい答えを求めているんじゃなくて、その問いかけについて、あなたの感性でこれについて一緒に議論しよう、考えよう、考えることそのものを一緒に楽しもう、とそう呼びかけてくるようだった。
「これが、煙草」
事務のお姉さんは少しぼんやりしながらつぶやいた。ユメクイはその様子を見て満足気に頷き、ソファーに戻ってそこに腰掛け、ゆったりと足を組んだ。
「一服したところで、さて、そこに掛けなよ。君がしにきた話について聞かせてもらおうか」
「煙草が吸いかけなので、うまく話に集中できるかわかりません」
事務のお姉さんはユメクイの向かいに腰掛けた。ユメクイは目を細める。
「平気だよ。煙草はそんなに集中して味わうものでもない。片手間に口の中を転がしてればそれが充分な楽しみ方だよ。煙草は吸う者に新たな考え方の一つを提示する。ある意味話題を提起してくれる。でもその話題は吸う者に対して明確な答えを期待しているわけでもないし、吸う者がその話題についてその場でよく考えたとしてもそれを聞いてやり、反論や共感をしてくれる機能はない。だから我々、喫煙者はその煙草の独り言を頭の片隅で垂れ流させながら、意識の大半は自分の今生きるべき現実に向ける。話題というのは、ただ持っていることが重要なんだ。提起されたその時に考えるんじゃなくて、いつか暇なとき、ふと思いついたとき、世間のある事が偶然にもその話題と絡み合っていることに気付けたとき、それを思い出せればいい」
なめらかに話すユメクイの様子を青白い煙越しに眺め、事務のお姉さんは半分夢の中に入るかのような錯覚を覚える。
「答えを期待しない独り言なんか、聞き流していな。聞き流すけれど、ちゃんと頭の片隅には入れておく。それで充分だ。頭の片隅に居座ったその話題が、君の人生を豊かにしてくれる」
「はい」
事務のお姉さんは咥えていた煙草をつまんで少し口から離した。事務のお姉さんは煙草の巻紙を観察した。几帳面な巻き方で、両端を少し潰すようにしてあった。色は黒で、よく見ると紫色の細い字が書いてある。
事務のお姉さんはポケットに手を入れ、中身をローテーブルの上に置いた。実家のチェストから持ってきた、血のついた煙草だった。全く同じ見た目をしている。
「18年前に、同じ煙草を売ったヒトについて話してください」
ユメクイは足を組み替える。
「いいよ。ただ、その人物の名前を俺は知らないんだ。君と同じように、自分の字を捨てて生きているからね。でもいつまでも名前はまだない、なんて言っていると不便だから、便宜上そいつが名乗っている名前のいくつかを教えるよ。そいつは、ナナシ、あるいはモルガナ、――あるいはギンナルと名乗る」
「ギンナル……?」
少し言葉の端が震えていた。事務のお姉さんの脳裏には、一年ほど前にギンナルとモモという少女とともにファミレスで食事をした時のことが思い出されていた。あの時、ギンナルはモモの前で煙草を吸おうとして、自分がそれを没収した。その時の煙草はすぐに捨ててしまったが、その巻紙の特徴は、自分の目にあるそれとまさにそっくりだった。パズルのピースがはまっていくような感覚になる。それは加速し、どんどんつながっていく。
「そうだよ。君は先日、ハナガサ工房という今はつぶれた花火屋に行ったね。そこで当時働いていた、モルガナというバイトについては君ならもう知っているんじゃないのかな。そのモルガナがギンナルだよ。そして、アスターという女性と仲が良かったのもまた、そのギンナルという男だ」
「あなたはどこまで知っているんですか」
ユメクイは肩をすくめる。
「ありきたりで俗っぽい言葉を使えば、アスターはギンナルという男を愛していて、そしてギンナルもアスターを少なからず思っていたようだね。今も思い続ける程度には」
「アスターが、母が愛していたのは、ギンナル――?」
「アスターは良家だか、地上のいいところのお坊ちゃんに見初められて結婚した。ギンナルはショックを受け、ふてくされた。でも、ギンナルはアスターの本当の思いに気付いてはいなかった。そして、ギンナルが気付かなかったことを気に病み、アスターは死んだ。お互いに、自分だけが相手のことを思っているのだと勘違いして傷ついた。そして、自分が傷つくことで相手をもっと深く傷つけた。愛というのは尊く、ままならないものだね。これが、俺の話せるすべてのこと。君が知りたかったのはこれで満足かい」