7 事務のお姉さんの父
その部屋はしんとして、何も動かず、定期的に掃除がされているのか清潔ではあったが、時間が埃のように部屋中に降り積もり、体積しているようだった。一歩歩くごとにその降り積もったものはかき乱され、部屋に舞う。
事務のお姉さんは大きな外開きの窓の淵に手を掛けた。18年前、母はここから飛んだ。
南ブロックの良家、イチの一族の分家のミカの一族、それが事務のお姉さんの父親の家系だった。
「とうとう戻ってきたか。3年ぶりだな」
声がして振り返ると、入り口のドアのところにスーツに身を包んだ父親が立っていた。父は生活レベルとすれば平均よりは高い水準で暮らしているが、良家のヒトに比べれば庶民なので、毎日企業に勤めて仕事をしている。
「この家で暮らすために戻ってきたわけではありません」
「立ち話もあれだ。お互い座って話そう。茶を用意させる」
「お茶はお構いなく」
父親は部屋を出ていく。事務のお姉さんは窓の外をもう一度だけ見ると、父親の後を追って部屋を出た。窓からは空が広く見えていた。ヒトが飛び降りるのに5階というのはあまりにも殺人的な高さだった。
「今日は仕事はないのか」
席に着くと父親は言った。給仕ロボットが出てきて拒否する事務のお姉さんのことを聞かずに、二人の前にお茶を置いて去っていく。
「会社全体が休みだそうです。電話線のメンテナンスをするだとか」
「休みの日もスーツは脱がないんだな」
「お父様こそ自宅なのですからもっとくつろいだ格好をなさってはいかがですか?」
二人はまるで社会人同士が打ち合わせをするかのように背筋を伸ばし、油断せずに相手を観察していた。
「お前がこの屋敷に戻って来るとしたら考えられる理由は一つだな。アスターのことを聞きに来たんだろう」
アスターというのは、事務のお姉さんの母親の名前だった。事務のお姉さんは頷く。
「あいつが自殺した理由は何度も話した通り、彼女が結婚生活以前に暮らしていた生活水準や考え方との相違に精神が耐えられなくなったからだ。私はそれに気づくことができなかった」
「一緒に暮らしていたのにですか?自分が求婚した相手の様子になんの興味も抱かなかったのですか」
「あいつは隠していた。私はあいつの心を開かせようといつも努力をしていた。しかし、あいつは弱音を吐くことをしなかった。強いヒトだったよ。そこを好きになったというのもあるが、頑なすぎてこの家の誰にも心を許そうとしない頑固さというか、意地のようなものも持っていた。一人で抱え込んだ挙句に精神を壊すなど、社会人では考えられない、ヒトとしてもかなり大きな性格上の欠点を持っていたと言わざるを得ない」
事務のお姉さんは机の下で拳を握りしめた。この言いぐさはまるで、自分は悪くない、母は勝手に死んだのだ、と言わんばかりではないか。
「良い職も紹介してやったのに薄汚い事務員なんぞ続けて、仕事だからと地下に出入りしていた。精神を病んだ原因はやはり地下との接触の影響もあったのかもしれない」
「いつもそうやって私が何か言う前に言い訳ばかりですね」
「言い訳?」
父親は悪びれる風もなく聞き返す。事務のお姉さんはポケットから手帳を取り出した。
「母が働いていたのは、中央人材発掘派遣会社の東支店という会社の最下層の事務員。主な仕事は事務ですらなくて、会社に入ったクレームに対して直接謝罪をするという汚れ役をやらされていたようです。この会社は今はつぶれていて存在しませんが、今から20年前、この会社はAIを業務によく用いていて、ヒトはあくまでAIの手伝いをするという立場だったようです。取引先が地下にある場合はそこまで出向くこともあったそうです」
「ハイパー事務のお姉さんともなるとそんな情報まで手に入れられるのか」
事務のお姉さんは父親を睨む。
「私は現在、ハイパー・エクストラ・ウルトラ事務のお姉さんです」
「そうか。すまない」
「構いませんが。それで、母はなぜ事務員を続けていたのかを調査しました」
「なぜだったんだ?」
「調査を進めると、一つの会社の名前が浮かび上がってきました。あなたも知っているはずです。母が最後に仕事として出向いた地下の小さな企業、ハナガサ花火工房です」
「……」
父親は黙ってお茶をすすった。無表情だった。
「話してください。ハナガサ花火工房と母の死についてあなたが知っていることすべてを」
「お前が事務員になると言い出した時からこの日が来ることは予想していた」
父親は廊下をゆっくりと歩く。その後ろから事務のお姉さんがついていく。父親は自室の扉を開け、ウォークインクローゼットの中に入る。クローゼットの最奥の小さなチェストの前に立ち、ポケットから鍵を取り出した。
「中を見ろ」
事務のお姉さんは父親の手から鍵を受け取り、チェストを開けた。中には一本の煙草が入っていた。茶色く変色した血がついていた。
「これは……?」
「あいつが飛び降りたときに手の中に握っていたものだ」
事務のお姉さんはその煙草を手の中に握り込んだ。
「隠していたんですね。母には他に思うヒトがいた。これで自殺の原因はわかりました」
「違う。私はあいつを、アスターを愛していた。あいつが望む者をなんでも買ってやるし、したい生活をすべてかなえてやるつもりだった」
父親の声は震えている。
「ええ、ですが、母が本当に欲しかったものはそうじゃなかったんでしょうね」
事務のお姉さんは冷静に言った。
「私はあいつの心を開かせようと努力もした!この家にだって住まわせてやったし、まともな職も用意してやった!」
「母にはもっと手に入れたい未来があったんです」
事務のお姉さんはクローゼットを出る。
「信じてくれ!許してくれ!」
父親は事務のお姉さんの手をつかんだ。事務のお姉さんは振り払う。
「何をですか。あなたのどこにも許せる要素が見当たりません。母を殺したのは、あなたではないですか」
父親は膝をつく。事務のお姉さんは一度も振り返らずに家を後にした。