引退
デビューから2年後、4歳になった私は競走馬を引退することになった。
出遅れ負けしたレースの次のレースは勝利を手にし、2歳時は3戦2勝、クラシック戦線に名乗りをあげ、3歳時はリステッドを1勝ニューマーケットで行われる牝馬限定G1にも出た。だが今年は2戦して2戦とも2桁着順だった。
自分でもどうしてなのか分からないが、去年までは競馬場に行けば気持ちが高ぶってきて、レース中も他の馬に負けたくない気持ちが強かった。
その気持ちが今は全くない、普段の調教にも身が入らず、ただ惰性でこなす日々だった。
「もう走るのは嫌になっちゃった?」
ケイトが寂しそうな表情を浮かべ私の顔を撫でる。
嫌ではないよ、と返すがケイトには伝わらない。ただ寂しそうにしている彼女の顔を見ていると、罪悪感で胸がいっぱいになり、いたたまれなくなった私はケイトの肩を鼻でつつき始める。
その様子を見て笑顔になったケイトは、しばらくのあいだ笑みを浮かべていたが、突然青い瞳に涙を浮かべ始めた。
「さっきね、先生から聞いたんだけど、あなた引退するんですって。だからね、お別れなの」
なるほど、だからケイトは泣いているのね。でも大丈夫よ、私はあなたのこと忘れないから。
人間に私たちの言葉は伝わらないけど、私はいつも返事をするようにしている。ロッキーには、どうせ俺たちの言葉なんて分からないのに言うだけ無駄とか言われるけど、私はそうは思わない。
ケイトは私の首に両腕をまわし、抱き着くと顔をうずめている。
しばらくのあいだ、私も、ケイトも、動かなかった。
*
会場の声が天井に反響して騒がしい音を重ねている。
そのあいだを切り裂くようにハンマーが振り下ろされ、一瞬、会場が静寂に包まれる。
どうやら私の買い手が決まったようだ。私は、私を曳いている担当者と一緒に会場を後にし、いくつかの厩舎を抜け、自分の厩舎で前のときと同じように待っていると、なにやら数人のグループが近づいてきた。
どうやらこの人たちが私の次の飼い主になるようだ。
彼らの会話を聞いていると、ときおり二ホンという単語が聞こえた。
話をまとめると、どうやら私はニューマーケットを離れて二ホンという場所に行くらしい。
移動は競馬で慣れているから心配ないが、果たして二ホンという場所は美味しい草はあるのだろうか、人間は優しいのだろうか、私は人間の言葉が喋れないからどういう場所なのか人間たちに聞くこともできない。
ロバートの厩舎のヘクターなら二ホンという場所についても何か知っているかもしれない。あれだけニューマーケットの街を知り尽くしているのだし、あるいは、ロッキーも何か知っているかも。飼い主が変わるたびに住む街もかわり、ロンドン、ニューマーケット以外の街についても詳しかったから。
でももう、彼らに会うこともないのだろう。
生まれ育った牧場に一緒にいた、母も栗毛の仔馬も、他の仔馬たちもあれ以来会っていない。
そのうえ、生まれてからずっといるニューマーケットを離れたらますます会うことは無理だろう。
私は一抹の不安と、たくさんの寂しさを胸に抱えながら、それでも母と別れた時のようにビービー鳴くようなことはしなかった。仔馬から大人の牝馬になった証だった。