セリ
冬を超え、人生2度目の夏。
わたしの馬体は随分と大きくなり、いよいよとうとう、人間を乗せる練習を始めた。
鞍、ハミ、手綱、腹帯などをつけ、人を乗せて、円形の馬場でぐるぐると他の仲間たちと一緒に走っていた。初めて人が乗ったときは背中の衝撃に驚いて立ち上がってしまったけど、今はだいぶ慣れてきた。
といっても、口の中のハミは気持ちが悪いし、背中に乗っている人間とわたしのバランスが悪くなると我慢できなくなって跳ねてしまう。人間に悪いと思いつつこればかっりはなかなか止めれなかった。
*
秋のとある日、いつものように騎乗訓練かと思っていたら、わたしは突然馬運車に乗せられ、とある場所に連れてこられた。
車から降りると、突然たくさんの馬の鳴き声、物音、匂いがわたしを一気に襲い、わたしは何事かとその場にたちすくんでしまった。
「ありゃ、驚いてたちすくんでしまってらぁ。まぁこんだけの馬をいっぺんに見るのは初めてだもんな」
わたしをひいていたおじさんはそう言うとわたしのお腹を軽く叩いた。それに驚いたわたしはおっかなびっくりしながらおじさんにひかれて、厩舎の馬房にいれられた。
初めての場所で興奮したわたしは馬房の中をぐるぐるとまわり、時々立ち止まってはあちこち匂いを嗅ぐが、もちろん普段のわたしの匂いがした馬房でないため、なかなか落ち着かない。
「随分と入れ込んでるね、ほら人参でも食べて落ち着きなよ」
そんなわたしに馬房の外から人参をくれる人間がいた。人参が大好物のわたしがありがたく頂いて食べていると、人参をくれた人間に見覚えがあった。
「それにしてもいい体になったなぁ。お前もとうとう、セリに出されるときが来たか、時間の流れははやいな」
その人間はわたしが仔馬のときのお世話をしてくれたダニーだった。
「お前が育成牧場に移って以来の再会だな。セリの時はどうしても人手が足りなくなるから、助っ人で来たんだよ。しかもセリ会場でお前を引っ張るの俺だから、よろしくなお嬢ちゃん」
というとわたしの顔をその大きな懐かしい手で撫でている。
久々に嗅いだ懐かしい匂いでわたしはすっかり興奮していたことを忘れてしまっていた。
*
「25まーん、25まーん、他にありませんか!正面から28万頂きました。ほかにございませんか!ひだりて30万!ありがとうございます、ほかによろしいでしょうか!ハンマー近づいています。30まーん、30まーん、よろしいでしょうか、他にございませんか。
ラストコールです、30万の上はございませんか、よろしいでしょうか!」
会場にハンマーの音が鳴り響く。
「30万ギニー(注1)でございます。ご購買ありがとうございました!」
わたしをひいていたダニーが、人間たちの声と熱気に包まれた会場を後にする。
「お嬢ちゃん、お疲れ様、緊張して大人しかったな」
わたしの首筋を撫でながら偉かったぞ、というダニー。
わたしは何がなにやらさっぱり分からず、ただただ、初めて見るたくさんの人間たちに囲まれてとても怖くて大人しくダニーについていた。
ようやく馬房に帰ってくると、途端にお腹がすいてきて思わず前かきをしてご飯をねだる。
その様子に気付いたダニーが、人参をわたしに差し出してきた。
「あともうちょっとの辛抱だから、それが終わったらご飯だぞ」
そういうとダニーがもう一度わたしを馬房の外に連れだした。すると外に1人の見知らぬおじさんがたっていた。そのおじさんは嬉しそうにわたしの顔を撫でると
「初めまして、お嬢さん。私の名前は、ロバート・ハリス、ここニューマーケットで調教師をしています。君を落札できてとても嬉しいよ」
どうやらこの人が新しい飼い主らしい。
メガネの奥の瞳を細めて、にこにことほほ笑んでいる。
どうやら怖い人ではなさそうだ。わたしたち馬は相手のことをとてもよく観察する。だから相手が優しいか、優しくないかは表情、しぐさ、体の動きを見ていればわかるのだ。
わたしとロバートは一緒に何枚か写真を撮った後、わたしはようやく馬房にいれられてご飯にありつけた。
リンゴ、人参が入ったいつもより豪華なご飯を食べ終わると、馬房の隅に立って、うとうとと眠り始めた。
注1:30万ギニー、大体5000万円ほど
セリは、タタソールズのオクトーバーイヤリングセールBook1