67.逃亡
目の前に居る女性を見つめる。
おかしい……なんだろう、この感覚は?
(――怖い)
チリチリと肌を刺す焦燥感。
思わず目を背けたくなるほどの圧迫感。
彼女は人間の筈なのに、まるであのベヒモスと相対したかのような錯覚さえ覚える。
「……怖がってる?」
「ッ……!」
彼女は首を傾げながら、笑みを浮かべた。
口が三日月のように裂け、頬に赤みが差し、目がとろんと溶ける。
「ああ、凄く良い表情です……。そんな熱烈な表情しちゃって、私を誘ってるんですか? ああ、悪い子だなぁ」
ぞくぞくぞくと背筋が凍る。
な、何を言っているんだ、この人は?
分からない。理解出来ない。怖い、怖い、怖い。
(駄目だ……絶対に一人で戦っちゃいけない)
反射的に私は先輩たちを呼ぼうとした。
幸い先輩たちはすぐ近くに居る。
叫んで知らせようとするが、その前に、目の前の女性が動いた。
「仲間を呼ぶなんて駄目じゃないですか。小さい二人はまだしも、あの大きな女性の方はちょっと厄介そうですね。……仕方ない」
彼女は手をかざすと、何もない空間から『拡声器』が現れた。
え? ちょっと待って? 一体どこから取り出したの?
その動作に、私は一瞬動きが止まってしまった。
彼女は笑みを深くし、すぅっと大きく息を吸い込むと、
『院内に居る皆様! 緊急事態です! たった今、一階フロアに凶悪犯が現れました! ただちに避難をして下さい! 繰り返します! 一階フロアに凶悪犯が現れました! ただちに避難して下さい!』
「なっ――!?」
凶悪犯……なにを言っているんだ、この人は……?
いや、そうか――そう言う事か。
その行動に、私は歯噛みした。
看護師の緊急アナウンス。その効果は劇的だった。
「う、うわぁああああああああああ! 早く逃げろおおおおおお!」「おい、押すな!」「こ、怖いよー!」「殺さる!」「早く逃げるんだ!」「きゃああああああああああ!」「嫌だ、もう嫌だああああああああああ!」
たちまち病院内はパニックに陥った。
人の群れはあっという間に壁を作りだし、彼女の姿をかき消してしまう。
まさかこの混乱に乗じて逃げるつもりか?
「また日を改めて逢いましょう。次はちゃんとアナタも、アナタの仲間も殺してあげます」
「ッ――逃がすか!」
慌てて私は彼女の後を追おうとする。
人ごみの中であっても、その姿を見失わないように必死に目で追いながら、強化されたステータスで一気に接近しようとして――、
「――無理ですよ」
彼女は私の方を向くと、手をかざして、ほほ笑んだ。
その瞬間、更に予想外の事態が起こった。
「ッ――なにこれ!?」
突如として私の目の前に『壁』が出現したのだ。
椅子やテーブル、ベッドや売店の陳列棚など、物理的な壁が視界を塞ぐ。
こ、これは一体……?
≪アイテムボックスによる収納です≫
≪アイテムボックスは収納した道具を任意の場所に取り出す事が出来ます。それを応用し、壁を作りだしたのでしょう≫
私の疑問に検索さんが答えてくれる。
アイテムボックス――物を収納するだけの便利なスキルだと思ってたけど、まさかこんな使い方があったなんて……。
「くっ――」
壁が私の視界を塞いだのは一瞬。
だがその一瞬だけあれば、彼女にとっては十分だったのだろう。
壁を強引に取り払うと、もう彼女の姿は見えなくなっていた。
人ごみとアイテムボックスによる物量の壁。
二つの壁に阻まれ、私はまんまと彼女の逃亡を許してしまうのだった。




