煮えきらぬ存在証明
8
少し昔の夢を見た。
彼女が死んでしまった時の記憶だ。
それは俺にとって思い出したくもない、されど忘れたくもない、そんな記憶。
彼女は俺の手を取って隣を歩いている。その時に見た横顔はとても綺麗で俺は周りのことを忘れて見惚れていたのを覚えている。
俺達の何度目かのデート。その日に彼女は死んでしまった。
そう、今俺が見ている景色の様に。
彼女が死んでもうすでに何年か経ち、高校生だった俺はもう大学生活の後半に差し掛かり、あの時一緒に乗ろうと約束した車も運転できる様になっていた。
だが幸か不幸か、それほどの時間が経っても尚、俺は彼女の死ぬ夢をたまに見る。
だから俺は彼女の死を受け入れることが出来た。きっとこの夢を見ていなければ俺は彼女が死んでしまった事実から目を逸らしていたかもしれないから。
彼女が死んだのは本当にちょっとしたことの重なりでしかなかった。
夏ということもあって、手汗が流れる手を拭き取ろうと俺が彼女の手を離し、それが階段を下る時。彼女は前日に降った雨の水溜りに足を滑らせ階段を転げ落ちた。それだけならまだ生きていた可能性もあったかもしれない。だが運悪く彼女は何度も頭を強く打ち付けた。
結果、彼女は僕の目の前で死んでしまった。
その日から数ヶ月は俺も心が空っぽになった様に、ただ機械的に生きていた。
それでも俺がこうして元気に生きているのは、これじゃダメだと思ったのがきっかけだった。
最初はそこまで強い思いではなく、ただ心の隅でそう思っただけだった。だが日が経つにつれてその思いは強くなり、俺は何とか自力で彼女の死を乗り越えることが出来た。
俺がいつも見る夢は彼女が死ぬ様を何度も見せられている様な、そんな感覚にさせるものなのだが、今日の夢はどこかいつもとは違かった。彼女が階段から足を滑らせた間際、俺の方を向いていない筈の彼女がこちらを確かに見ていた気がしたのだ。
それを疑問に思っても、ここが夢である以上答えは見つからない。
だって起きた時には、もうこの夢は朧げにしか覚えていないのだから。
そして俺は夢から覚め、彼女がいない現実でまた一日を過ごす。
夢から覚め、朝日が差し込む部屋で最初に見たのは、いない筈の彼女だった。
7
彼女は器用に俺の体の上に乗って眠っていた。
まだ夢の中なのかと彼女を起こさない様に頬を抓ると、確かに痛みがあった。これは夢ではない、まだ覚醒し仕切っていない意識の中現れた事実に混乱する。
するとモゾモゾと動き、彼女は目を覚ました。
「んみゅ⋯⋯おはよう晴人」
放たれたその声は紛れもない彼女の声で、それを認めた瞬間、俺の目から涙が流れた。
彼女はそんな俺の姿に驚いて、一人であわあわしていたかと思うと、優しく俺の体を抱き締めてきた。
「ただいま晴人。⋯⋯ごめんね」
ただいまの言葉と共に聞こえた言葉は独り言の様に呟かれた。だが流石にこうも距離が近ければその声は俺にしっかりと聞こえてくる。
俺はその言葉に触れる事はなく、何も言わずにただ目の前の彼女を抱きしめ返す。
肌に伝わるこの暖かさが、彼女がここにいることを教えてくれる。
「⋯⋯なんでここにいるんだ」
しばらく無言で抱きしめ合った後に疑問を投げかける。
彼女はバツが悪そうなにポツリと言った。
「私も分からない。でもそう長くは居られない。そんな気がする」
「⋯⋯そうか」
何となく分かっていた。分かっていた事だが、折角再会出来た愛しい人とまた別れなければいけないのは考えるだけでも辛くなってくる。
その気持ちは彼女も同じなのか、俺の服を強く握りしめて震えている。
今の彼女は一体どういう存在なのだろうか。
幽霊?実体はある⋯⋯筈。
それならば彼女は一体何があってここにいるのだろうか。
本人もわからないと言っていたし、そこら辺は神のみぞ知るってところか?
「なあ、何かやりたい事⋯⋯ってあるか?」
どうせ長く居られないのならばそれまで彼女のやりたいことをさせてあげよう。そう思った。
「そんなこと言われても⋯⋯うーん、旅行⋯⋯私、晴人と旅行してみたい」
「旅行?」
「うん。今までそんな機会なかったでしょ?」
確かにあの時はまだ高校生というのもあって、旅行するほどのお金も簡単には用意できなかったからもう少し大きくなったらと約束していた。
「あ、でもお金⋯⋯」
「俺が全部出すよ」
「え、でも」
「大丈夫。バイトで手に入った金も結局使わずに貯めてあるからな。多少の旅行程度簡単に賄えるさ」
俺がそう言うと彼女は驚いた顔をしたと思えば一瞬悲しそうな顔をして、申し訳なさそうにありがとうと言った。
俺はその言葉を受け取ると、彼女に俺の上から退いてもらい出かける準備をする。
その様子を見て、彼女は不思議な顔で見てくる。
「出かけるんだよ。旅行するにしてもお前の服とか、何処に行くかとか考えなくちゃいけないだろ?」
彼女は合点が言った様に声を上げる。
彼女は今着ている、過去にお気に入りだと言っていた服しか持っていない。だから衣類は必要だろう。
「まずはお前の家にでも行ってみるか?もしかしたら服とかあるかもしれないし──」
「ダメ!!」
突然彼女は声を荒げる。
俺はその声に驚き、手を止めて彼女の方を見遣ると、彼女は不安そうな顔をしていた。
「あ、ごめん。⋯⋯でも、家に帰るのはダメな気がするの。何か色んなものが崩れそうで⋯⋯」
「⋯⋯確かにお前の家族に対する配慮がなかったな。それじゃあお前の服とかは買いに行くとして、外に出るのは大丈夫なのか?」
彼女は死んだ。それは紛れもない事実であり、覆る事はない。
そんな彼女と会ったらどうなるか。確かにただでは終わらない気がする。
俺が一人で彼女の家に行って、衣類だけ貰ってくのもおかしいしここは買うのが無難だろう。
「うん、多分大丈夫。今の私は一時的に生きているみたいな状態だから」
「すごいな、そういうの分かるのか」
「ううん、何となくだけどそんな気がするだけ。別に分かってるわけじゃない」
彼女は首を横に振り俺の言葉を否定する。
まあどちらにせよ、他人に見えるのは都合が悪くも良くもある。今回はまあ都合が良い方だろう。
ここは俺達の故郷では無いからな。彼女の家族が引っ越したという話も聞かないし、同級生もあまりいない筈だ。いても多分数人だろう。
だから外に出るのは大丈夫だ。
支度を終え、ベッドの上で待ってくれていた彼女の方を向く。
「終わった?」
「ああ、それじゃあ行くか。⋯⋯あ、そうだ。俺車持ってるんだ」
「え!本当!!てことは免許取ったの?!やった!」
そんな会話をしながら俺達は部屋を出て、車に乗り込む。もちろん彼女は助手席に乗っている。
「それじゃ行くか」
「待って。ねえ晴人。再会してからまだ一度も私の名前言ってないよね?」
「そうだったか?悪い、彩花」
彩花の名前を呼ぶと、彼女は少し照れさそうな、嬉しそうな顔で笑った。
6
とりあえず俺達は近所にあるショッピングセンターへ向かった。
向かっている途中、彩花と懐かしい話をした。
彩花の家族や友人はどうしているか。
あの時の担任の先生は結婚できたのか。
クラス一の変人の彼は本当に医者を目指しているのか。
皆、彩花が死んでからどうなったのか。
答えられる事は色々話した。それを聞いている彼女は笑っていたり、悲しんでいたり、そんなやりとりが楽しくて心が満たされる様だった。
ショッピングセンターに着いて、最初に彩花の服を買いに行く。
「ねえ晴人、これどうかな?」
そう言ってくるりと回って聞いてくる彩花はとても可愛いく、服との相性も良く見惚れてしまう。
「良いんじゃないか?似合ってるよ」
「そう?じゃあこれもお願い。これで大体大丈夫かな?」
「そうだな。四セットもあれば十分だろ」
上下四着ずつ。旅行すると言ってもそこまで長くもいけないだろうからこのくらいで十分だろう。今は夏場に差し掛かる頃。上着も必要ないだろうしこんなものだろうと、俺達は服を買う。
「次は下着かな」
「そうだな。さすがに下着は一人で決めてくれ」
「分かってるよ。でも私スマホとか持ってないからあまり遠くに行っちゃダメだよ?ここ初めてくるんだから」
「向かい側の本屋見えるか?俺そこで待ってるから買い終わったらそこに来てくれ」
俺は彩花にお金を渡して本屋に向かう。女性の下着の値段なんて知らないから適当な値段を渡したが足りるだろうか?まあ渡した時に何も言わなかったから足りるだろう。
本屋につき、小説のある棚へと向かう。
そこで少しどんな小説があるのか見ていると、突然隣から声を掛けられた。
「よう、野田」
自分の苗字を呼ばれて、声のした方をみるとそこには大学の友人の西条大河と、五十嵐浩太がいた。
「奇遇だな。どうしたんだ?」
「どうしたって、お前!!あれ誰だよ!!お前は俺達を裏切らないって信じていたのに!!」
「あ?誰って⋯⋯ああ、別にお前達には関係ない事だ」
俺がこいつらを裏切る事なんてしていないと思うが⋯⋯ああ、そういえばこの二人は一度も彼女ができたことがないとかでいつも嘆いていたな。
俺は彩花の話なんて簡単にできるものじゃないから何も喋らなかっただけなんだが⋯⋯まあ良いか。
それよりも、先程西条が叫んだせいで変に注目を集めてしまった。
五十嵐もそれに気付き、いまだに嘆いている西条を無視して話を進める。
「僕達は見たかった映画を見に来たんだよ。野田君も誘ったじゃんか」
「あ、今日だったか。まあどっちにしろ俺はしばらく用事があるからな。大学もサボるからしばらく会う事ないと思ってくれ」
彼女がいつ消えるか分からない以上できるだけ一緒にいたいのはしょうがないことだろう。
「大学サボるって⋯⋯何か大事な事でもあるの?」
「まあな」
いつの間にか嘆き終わった西条も、五十嵐もそれ以上の事は聞いてこなかった。
もしかしたら顔に出てしまっているのかもしれない。そうならきっと、物憂気な顔でもしているのだろう。
二人は普段少し馬鹿なキャラで過ごしているがこう言ったことに踏み込む様な人間ではない。だから二人といると楽しいんだ。
数秒の静寂を破ったのは西条だった。
「⋯⋯そうだ、さっき見てきた映画だけど面白かったぞ。お前も時間がある時に見にいけば良い」
「そういえばお前達は映画を見にきてたんだったな。何を見たんだ?」
「それはね───」
それから数分ほど映画の話をした後、二人はカラオケに行くと言って去っていった。
それを見送ると、すぐに彩花が来た。
「お待たせ。さっきのは晴人の友達?」
彩花は優しげな笑顔でこちらを見てそう言った。
「ああ、面白い友達だよ。待たせて悪かったな」
「ううん、大丈夫。それと待ってる間旅行したい場所考えたんだ」
「どこだ?」
「京都はどう?メジャーだけど私行ったことなかったから」
「良いな。俺もそんなに行った事はなかったから楽しみだ」
そういうと彼女は嬉しそうに良かったとだけ言って、俺の荷物を持っていない手を握る。
これからどうする?と言った様な目で見てくる彩花に、俺は先に荷物を車に置いてくと言って、二人で歩き始める。
車に荷物を置き、また戻ると俺達は食品を買いに行く。
「晴人はいつも自分で作ってるの?」
いつも通り適当な食品をカゴに入れながら会話をしていると、ふと彼女はそんなことを聞いてきた。
「まあな。自分で作る方が金も掛からないし、楽だし」
そう答えると彼女は少し考えるそぶりを見せて、顔を勢いよく上げ、
「今日は私が作ってあげよっか?一度も作ってあげた事なかったよね?」
そう言って笑った。
「料理作れるのか?」
「馬鹿にしないでよ。作れるに決まってるじゃん。何?辛いもの入れて欲しい?」
少しからからかってやると彼女はムッとして怒る。
本気で言っているわけではないと分かっているためか、笑顔が途切れぬまま俺は左手で軽く彼女の頭を撫でる。
「悪い悪い。辛いのはやめてくれ。舌と喉が死ぬ」
なんとなくだったが撫でたのが気に入ったのか、顔を綻ばせながら俺の手を握って歩いていく。
そんな彼女が懐かしく、愛おしく思える。
だがそれと同時に、また彼女が居なくなってしまう事に悲しさを覚えてしまう。
俺はそんな気持ちを忘れる様に彼女との今のこの楽しい時間を過ごす。
5
彼女がまた俺の前に現れてから四日が経った。
今日は旅行一日目。と言っても車の移動で大半は潰れるから実質零日と言っても良いかもしれない。
彩花は隣で眠っている。昨日楽しみすぎてあまり眠れなかったらしい。そんな子供みたいな彼女も愛おしく思えてしまうのは、死んでしまった彼女とまたこうして過ごせているからかもしれない。
彼女が生きていた頃はここまで想いは強くなかった。聞こえは悪いが、彼女のどんな姿もそう思えてしまうのだからそう言うしかないのだ。
なんだかんだ既に三時間ほど運転しているから大体半分くらいだろう。
サービスエリアで少し休憩し、昼食もそこで済ませまた車を走らせる。
彼女はすっかり眠気も吹き飛んだ様で、残りの半分ほどは会話する相手もいて楽しかった。
そうして京都に着いた時には既に四時を回っており、当初の予定通り今日はこのまま旅館に行き過ごす事にした。
旅行は三泊四日を予定していて、初日と最終日は移動。他の二日は京都を楽しむ事にしている。
ホテルに着き、チェックインをして部屋に入る。
「すごい。綺麗な場所だね」
「そうだな。奮発した甲斐があったもんだ」
荷物を置き、窓の外に広がる景色を眺める。別に良い景色と言う程ではないが、どうしてかそれは俺の目を引いた。
すると彩花が隣にきて、一緒に窓の外を眺め始めた。
「良い景色だね」
「⋯⋯そうだな。こんな景色でもたまには良いもんだ」
そう言うと、彼女は軽く笑って俺の頭を撫でたかと思うと、少し離れて、ベッドに寝転んで大きく体を伸ばし始めた。
「ねえ、ちょっとこっち来てよ」
彼女は寝っ転がったまま手を大きく広げる。
言われるがままに彼女のもとへ行き、腰を下ろすと彼女は俺の頭を抱えて、自身の胸に引き寄せ、耳を当てさせる。
それにはすぐに気が付いた。慎ましい彼女の胸からは何も聞こえなかったのだ。ただ暖かさを感じるだけ。
「分かる?心臓の音がしないの」
「ああ」
「死んじゃったからかな?」
「そうなんじゃないか?」
「⋯⋯ねえ晴人?」
返事を返す前に彼女は俺の頭を自身の顔が見える場所まで上げる。彼女の顔はひどく不安そうな表情をしていた。心なしか目も潤んでいる様に見える。
「私、また晴人と離れるの辛いよ⋯⋯」
「俺もだよ。でもどうしようもないだろ?これは⋯⋯」
「分かってる。でも、せっかく会えたのに⋯⋯」
「そもそも会えた事自体おかしいんだ。だから」
「うん、分かってる。でもまたあそこに行くのは嫌なの」
「あそこ?」
そう聞くと彼女は死んだ後のことを教えてくれた。
曰く、死んでしまった瞬間、死んだ自分の姿が見えたらしく、それで自分が死んだことを悟った。
曰く、死んでから少ししたら暗い場所に瞬間移動する。
曰く、その場所の時は長く、短く、心は嬉しく、哀しく、怒らしく、楽しく、そんな場所だったらしい。
その世界は何もかもがある様で無である。そんな印象を受けた。
どうして彼女はその記憶を持ったままこうしてまた戻ってこれたのか。それは彼女にも分かってはおらず、一時の奇跡として受け取っているらしい。
それを話し終えた彼女は、俺を押し倒しそのまま静かに強く抱き締めてきた。
「私⋯⋯どうすれば良いのかな?」
涙ぐんだ声で聞いてくる彼女に、俺は何も言ってやる事が出来ず、ただ彼女の嗚咽を聞くことしかできなかった。
しばらくすると彩花も落ち着き、少し休憩してから食事を食べ、二人で部屋にあった風呂に入る。
彼女は俺にもたれかかりながらポツリと零した。
「ねえ、私はどうしてまた戻ってきたのかな?」
「⋯⋯それは俺にも分からないけど、こうして今俺達は一緒居る。だからその時間ぐらい楽しく過ごそうぜ」
これは俺の願望でもあった。楽しい時間を彼女ともっと過ごしたかったから。
「私はまたあの場所に行くのかな?」
「それも俺には分からない。まあ適当に考えるなら⋯⋯そうだな。死んだ人間はそこで終わりだ。でもお前は終わらなかった。だからその苦しみを味わう事になってしまった。だから今度こそは本当に死ねるんじゃないか?」
話してて酷い事を言っているのは分かっている。
彼女が悲しい顔をしているのも、彼女もどうしようもない事が分かっているのも分かっている。
だから本心とは違う、事実を言った。
「晴人は私がまた居なくなったどう思う?」
「辛いな。多分しばらくは立ち直れないかもな。でもこうして彩花と旅行してるんだ。その間くらいは楽しく過ごしたい」
彼女はそれから何も言う事はなかった。
風呂から上がり、浴衣に着替えて明日に備えて少し早めに就寝につく。
「それじゃあおやすみ」
「うん、おやすみ」
4
旅行二日目。昨日寝るまで暗かった雰囲気はどこへ行ったのやら、俺の前には元気そうに朝食を食べる彩花が居た。
「晴人?どうしたの、私の顔ジロジロ見て」
食事に手を付けず見ていたのを疑問に思ったのか、彼女は首を傾げてこちらを見る。
「いや、ただやっぱり彩花は可愛いなって」
そう言うと彼女は照れ臭そうに頬を綻ばせながら食事を口に運んでいく。
このまま彼女を見ていたい衝動に駆られたが、我慢して目の前の料理を食べる。
食事を食べ終えた俺達は一度部屋に戻り、外に出る準備をしてホテルを出た。
まず最初に行くのは清水寺。ホテルからもそこまで遠くなく、昔から彼女が行きたがっていた場所だ。車は使わず、歩いてのんびり向かう。
涼しい風に吹かれながら知らない道を行き、彼女と手を繋ぎ何気ない話をしながら歩く。そんなちょっとした時間も今はとても楽しく思う。
「ねえ晴人。⋯⋯楽しいね」
「ああ、楽しいな。でもまだまだだぞ?」
「そうだね。あ、そろそろじゃない?それらしいの見えるよ」
「ん?本当だ。⋯⋯結構人多そうだな」
夏休み前だから少し人少ないかなと思っていたがそんな事はなかった様だ。平日でも結構いるもんだな。あれか?外国からの観光客が多いのか?
彩花を見ると、早く行こうと言わんばかりにキラキラした目でこちらを見ながら俺の手を強く握ってくる。
拝観料を払い、順路に沿って歩いていく。
彼女は感嘆の声を呟きながら色んな所を見渡す。
少し歩くと、テレビとかの紹介でよく見る場所についた。そこから見る外の景色は広大で、天気の良さも相まって美しく見えた。横目で彩花を見ると、彼女もまたこの景色に見惚れている様だった。
それから清水寺を十分堪能した。
造りに関心し、二人で写真を撮ったり、出た後も少し食べ歩きでもして色んなものを見た。そして気が付いたとこきには午前を過ぎていた。
「あ、もう一時近いじゃん」
「そうだな。そろそろ次行くか。金閣寺だっけ?」
「うん」
そうして二人で金閣寺へと向かう。もっと沢山回ることもできるのだろうが、ここ二日共にそこまで沢山の場所に行くつもりはない。ただ二人でゆっくり回れれば良いから。
それから俺達は金閣寺を見て、銀閣寺を見て、その日はホテルに戻った。
ホテルでは二人で今日の事を色々話して、大したこともなく、そのまま就寝した。
3
旅行三日目。
朝から彩花の様子がどこかおかしい。何かずっと考え込んでいる様で、俺が話しかけても反応が遅れたりする。いつもならすぐに反応してくるのにだ。
食事を食べて部屋に戻り、外に出る準備を始めようとすると、彩花はそれを阻止して、俯きながら言った。
「ねえ、晴人。今日は⋯⋯ここでのんびりしよ?」
「⋯⋯どうした?」
彼女は俯いたまま喋らない。
「まあ俺は別に大丈夫だけど本当にそれで良いのか?」
「⋯⋯午後に清水寺また行く」
「そうか。じゃあそうするか」
その言葉を聞いた彼女はベッドに俺を連れていき、俺に寝っ転がれと合図する。素直にしたがってベッドに寝ると、俺の上に彼女が乗って半ば無理矢理キスをしてきた。
数十秒のキスの末、少し息苦しくなって彼女を無理矢理離す。
「⋯⋯どうしたんだ?」
「⋯⋯ごめん」
「いや、別にそれは良いけど。どうしたんだ?」
問いかけると、彼女は俺の胸に顔を埋めて十秒くらい黙ったかと思うと、静かに顔を上げてこちらを見る。彼女の目からは涙が流れていた。
「晴人、私、消えたくない⋯⋯」
か細い声で呟いた。
そんな彼女を俺はただ抱きしめることしかできない。
すでに死んでしまった彼女がまた消えてしまう運命を帰ることなんてできない。それが悔しくて、抱きしめる力が強くなる。
「何も喋らなくて良い。ただ俺の話を聞いてくれ」
鼻を啜る音を同時に彼女が顔を縦に振ったのを感じたからポツリ、ポツリと話し始める。
「俺はお前がまた居なくなってしまったらって考えるだけで辛いよ。でもお前はもう既に死んでいる。現にお前の心臓は動かない。⋯⋯本当ならばお前は帰ってくる事はなかった人間だ」
喋っていく内にだんだんと声が震えていく。涙が溢れて止まらない。
「だからお前はここに居てはいけないのが正しいんだ。だから⋯⋯だから諦める⋯⋯しか⋯⋯ないんだよ。⋯⋯俺よりも辛いのはお前なのに⋯⋯勝手なこと言ってごめんな。怖いよな。消えるのは。でも俺は⋯⋯お前を助ける事は、出来ない。役立たずな彼氏でごめんな」
そこまで言い切った俺は嗚咽を漏らしながら片手で涙の溢れる目を抑える。
ふと、彩花が俺の頭を撫でてきた。いつの間にか泣き止んでいた彼女は片手を覆い、嗚咽を漏らす俺をただゆっくりと撫でた。
「そんな事ないよ。晴人は私のかっこいい彼氏だよ。晴人は私を十分助けてくれた。晴人がいなかったら私きっと今みたいに幸せじゃなかったから。⋯⋯また居なくならないといけないのは怖いけど、最後まで晴人と居れるだけで私は幸せだよ?だから⋯⋯私は諦めてちゃんと死ぬよ」
そう言ったかと思うと彼女は俺の目を抑えている手を引き剥がし、唇を重ねる。
一秒程で彼女は唇を離し、俺の目を見据える。
「気分転換にテレビでも見よっか」
そう言って俺の上半身を起き上がらせ、それに凭れてテレビをつける。それから俺の両手を自身の腹を抱える様にして交差させる。
俺はされるがままに動かされ、ぎこちなく彼女を軽く抱きしめる。
彼女はそれに満足した様に俺の頬を撫で、テレビを見始めた。それに倣い、俺も静かにテレビを眺める。
2
あれからしばらく時間が経ち、俺達二人は昨日もきた清水寺に来た。拝観時間が十八時までと言う事で、十七時に差し掛かる頃に入ったのだが、午前に見た時とは少し違って、これもまた良いなと思える。
彩花もすっかり元気になり、少し昨日よりもはしゃいでいる様に感じる。
「やっぱ、綺麗な景色だな」
呟く様に言ったその声が聞こえていた様で、彼女もそうだねと言って、隣で景色を楽しみ始める。
「⋯⋯そうだ。彩花、写真撮らないか?」
「写真?いいよ、どうやって撮る?」
「彩花はそこで立っててくれ。俺が後ろの景色と一緒に撮るから」
そう言って少し離れた場所から、彩花を撮る。撮れたものを確認すると、そこには彼女は照れ臭そうに笑い、ピースをする彼女がしっかりと写っていた。
「見るか?」
「見ない。絶対変な顔してるもん」
「そんなことないけどな」
「それでも見ない。恥ずかしいもん」
そう言って歩いていく彼女がどこが面白く見えたのか、意識せずクスッと笑いが溢れる。少し先を歩く彼女にはその声は聞こえなかった様で、こちらを振り返る様子はない。
まあこんなこともあるかと、俺は彼女の所まで追い付き、同じ歩幅で歩く。
一頻り見て回った後、休憩ついでにトイレをした。今俺は彼女を待っている状態で、少し離れた場所に立っている。
すると、後ろから俺の名前が呼ばれた気がした。気がしただけだが一応振り返ってみると、そこには彩花の友人である坂本沙耶が立っていた。
「久しぶり。こんなとこで会うなんて奇遇だね」
「あ、ああそうだな」
瞬間、思考が今までにないくらいに早くなった。
どうする。彩花が出てくる前に坂本をここから離れさせないと。どこか別の場所で話す様にするか?変に疑われるかもしれないがそれでいけるだろうか。
あくまで自然体で接しないとおかしく見られて余計に時間を食うだけ。これ以外の方法は⋯⋯とにかく色々やるしかない。
「なんで京都に居るの?旅行?」
「そうだな。ちょっと友達と旅行に来てるんだ」
「へぇ、どんな人なの?」
「面白いが面倒な友達だ。お前と居ると変な事言われそうだからさっさとどっか行ってくれ」
「久しぶりに会ったのに、まあいいや。じゃあまた⋯⋯ね」
突然、坂本がトイレの方を見て目を見開いて固まった。そこには丁度トイレから出てきた彩花がいた。
遅かった。そう思う暇すら与えられる事なく、彩花はその場から逃げる。それを急いで追いかける。
流石に俺と彩花とでは走る速さが全然違う為、簡単に追い付くことが出来たが、やはりと言うべきか、坂本も俺達を追いかけてきていた。
「⋯⋯どういう事」
急に走った事で少し息が乱れているが、そんな事も構わないという様に坂本は彩花に詰め寄る。その声には少し怒りが見られた。
そんな坂本に彩花は何も言わない。いや、言えない。
「⋯⋯坂本」
こちらを向く彼女は俺の表情を見てどう思っただろうか。
笑顔ではあるつもりだが、そこからは悲しみの感情が見て取れるのだろう。
彼女は深くため息を吐いき、俺の方を見て話始める。その間も彩花は俯いて何も喋る事はなかった。
「野田は友達と来てるんじゃなかったの?」
「そういう友達がいるのは本当だが、一緒に来たのは嘘だ。俺は彩花とここに来た」
「⋯⋯やっぱりこれは彩花なのね。なんでここにいるの?」
本当のことを言うべきだろうか迷った。だが彩花の友人である坂本に変な嘘をついても意味がないと思い、素直に話す事にした。
「それは俺も彩花も知らない。彩花、諦めろ。もう手遅れだ」
そう言いながら俺は彩花を抱きしめ、優しく背中を叩く。
「そのイチャイチャはどれだけ経っても変わらないのね」
「ほっとけ。彩花、一回落ち着け。坂本ならまあ、大丈夫だろ」
そう言いながら彩花の背中を撫でて落ち着かせる。
少しの間その状態でいると、覚悟を決めたのか、彩花は俺から離れて坂本を対面した。
「⋯⋯彩花は死んじゃった筈でしょ?なんで」
「私にも分からないの。ただ、分かるのは私の心臓は動いてないことと、そう遠くない内に消えることだけ」
「何それ⋯⋯それ本当なの?」
坂本の問いに、彩花は頷く。信じれられない様に俺の方も向いてくるが、こちらも首を縦に振り、肯定する。
それでも信じられない様に彩花を見るが、彩花は自分の心臓の部分に耳を当てさせて、それが嘘でないことを証明する。
彩花の心音を確認した彼女は俺が分かるほどに震えながら俺と彩花を交互に見る。
「⋯⋯な、なんで二人はそんな平気そう、なの?」
「平気なわけないだろ。現に彩花はお前から逃げたじゃないか」
坂本は息を呑み、そっと彩花の手に触れる。
不思議なもので、心臓が動いていないのに彼女は確かに暖かい。それが彼女は本当は生きているのではないかと錯覚させる。
「ねえ、彩花はこれからどうするの?」
「消えるその時まで晴人と一緒にいるつもり」
その言葉を聞いた途端、坂本は吹き出して、涙を少し流しながら笑い声を上げる。
彩花はそんな坂本に困惑して、こちらに助けを求める様に顔を向けるが、別に笑ってるからいいだろとそれを無視する。
一頻り笑った坂本は涙を拭い話す。
「よくもまあそんな恥ずかしげもなくそんな事言えるね。なんかちょっと安心した。後、私もう行かなきゃ」
「そう⋯⋯沙耶、さよなら」
これで最後になるだろうから、彩花は本当の別れの意味を込めてその言葉を言う。もちろん坂本もそれを理解したのだろう。一瞬悲しそうな表情を見せる。だが、満天の笑みで、
「さようなら、彩花。私は元気でいるからね」
そう言った。
そして手を振りながら、何処かへと去っていく。
そんな彼女の姿を見て思った。俺は彩花と別れる時、笑顔でいられるのだろうか。そう考えると坂本沙耶という人間はよく頑張ったと、強い人であるとよく分かる。
「⋯⋯それじゃ、帰ろっか」
「そうだな」
俺達は二人手を繋ぎ、静かにホテルへと帰っていく。
1
ホテルに帰って、すぐ彩花はベッドに飛び込んで、枕に顔を埋めながら静かに泣き始める。
やっぱり友人との今生の別れは辛いからな。よく今まで泣くのを我慢していたもんだ。
テレビを点けようとリモコンの電源ボタンを押そうとした時、ふと思い出す。
「そういえば彩花。夕飯はどうする?」
「適当でいい」
「そうか。それじゃあコンビニで適当に買って来ようか?」
すると彼女は枕に顔を埋めながら首を縦に振った。
それを確認し、財布だけ持ってホテル近くのコンビニで彼女の好きそうなものを選んで買う。夜だし少し多めに買っておいたが食べれるだろうか。まあ残ったら俺が食えばいい話か。
部屋に戻ると、彼女はベッドに寝てはおらず、シャワーを浴びていた。
ベッドに座り、テレビを点けてボーッと眺める。
それからしばらくすると、彼女が出てきて、二人でコンビニ飯を食べる。
「⋯⋯私って、いつ消えちゃうのかな?」
ふと、彩花がポツリと呟いたその言葉。その言葉が、俺の頭の中でぐるぐると渦巻く様に溢れる。
考えていなかった。彩花は消えることだけ分かっていて、それがいつなのかは全く知らない。だから今この瞬間、パッと消えてしまってもおかしくないのだ。そんな簡単なことをどうして今まで考えていなかったのか。
⋯⋯考えたくなかった。今目の前にいる彩花がいつ消えるかなんて。
「彩花⋯⋯」
俯きながら彼女の名前を呼ぶ。
「何?」
優しい彼女の声が聞こえる。
「お前がいつか消える前に言っておきたい」
「うん」
「俺はいつまでもお前を愛してる」
返事はなかった。その代わり、彼女は俺に正面から抱きついてきた。俺は確かにここにいる彼女をしっかり抱きしめる。
彼女はここにいる。彩花はここにいる。
彼女が消えても、彼女がいた事実は消えない。俺が彼女を愛している事実は消えない。
これでいい訳が無い。ダメに決まってる。でもどうすることも出来ない。俺達は無力だ。だからこうやってお互いに、ここにいる証明をすることしか出来ない。
「晴人、私も、私も晴人をずっと愛してる」
俺達は互いに、抱きしめる力を強くする。
それからはただ静かな時間が流れた。お互い何も喋ることなく、存在を確かめ合う。
五分ぐらいその状態が続いただろうか、彩花が少し小さなあくびをして、俺達は寝ることにした。
だがその前にシャワーを浴びてないことを思い出し、彩花に断ってシャワーを浴びる。
彩花が消えていないか心配で素早く済ませる。出ると、笑いながら早かったねと言う彼女がいて、酷く安心した。
「ねえ、私は明日起きたらここにいるかな?」
同じベッドで抱きしめ合いながら彩花は呟く。
「そうなったら辛いな」
「そうだね。でもこうやって愛しい人に抱きしめられながら消えれるなら、私はそれでいいかも」
彩花がそう思ってくれているのなら俺はそれでいい。十分後悔したり泣いたりできる俺は彼女が消える時どう消えて欲しいなんて言う資格がないから。
「⋯⋯そうか。⋯⋯おやすみ、彩花」
「おやすみ晴人」
彼女は最後に笑顔を見せて目を瞑る。
0
その瞬間、俺の腕の中から彼女は消えた。
行き場のなくした両手は何もない虚空へと向けられたまま、動かない。
静かに、彼女がいなくなった事実を噛み締めると、涙が溢れて止まらなくなった。行き場のなくした両手で俺の両眼を覆う。
涙が溢れる、息が苦しくなる、声が鳴り止まない。
彩花は消えた。
彩花は笑顔で消えた。
彩花は満足のいく消え方が出来たのだろうか。
彩花は最後まで俺といて、幸せだっただろうか。
俺は彼女と最後まで入れて幸せだっただろうか。
俺は受け入れることが出来るだろうか。
俺は笑顔で見送れた。
俺は見送った。
嗚咽が響くその部屋には、一人の男性がベッドで涙を流していた。
デジモン見て思いつきました。