将棋タクシー
「7六歩。」「3四歩。」「2六歩。」「8四歩。」「2五歩。」「8五歩。」「7八金。」「3二金。」「・・」
今日の“ゲスト”は二十歳そこそこの賢そうな好青年だ。冷静で知的な見た目だが、発せられる一手一手の声には抑えきれない熱量が感じとれる。白川はただ盤面で淡々と進行するコンピュータ将棋、それが対人であってもなにか馴染めないものがあった。それを満たすのがこの“熱量”なのだろう。生き残りを懸けて鎬を削りあう、ライバル達との将棋に全てを費やしたあの頃の臨場感に彼はまだ囚われている。
『自分があのとき結婚できていれば子供はこの青年くらいの年齢だろうか・・』
勝負どころの一局に負けてから連敗を重ね、終には白川は夢と愛する者を同時に諦めた。悔やんでも悔やみきれないそれを飲み込み、紆余曲折の後、現在はタクシードライバーとして腰を据えている。
将棋は自分に存在意義を与え、進むべき道を示してくれた。しかし、自分の力不足とはいえ、すべてを失うまで追い詰めたのもまた将棋だった。そのジレンマを消化できずにいながらも今はそれを“別な手段”として活用し、生活を潤す助力として重宝している。そんな葛藤を胸に彼は今日も誰かと指す。
「・・6三龍。」
「6四歩。」
「同銀成。」
「・・負け・ました。」
「・・いい将棋でした。」
勝利の安堵を押し殺し、白川が口を開いた。“ゲスト”によっては機嫌が悪くなることもある。客商売である限りはアフターケアも大事な仕事であり、一勝負に3万円のリスクを負うからには長距離か長時間利用してもらわなければ割に合わない。リピート率を加味すればゲストにはできるだけ気分良く帰ってもらう必要がある。
弱い指し手ならわざと緩手で応じて“接待”し、メーターを稼ぐ。得意なこととはいえ運転と並行しての将棋は消耗も激しい。それでも今となっては要領も会得して力の抜きどころも巧くなった。
「お客さん、・・どうします?再戦しますか?」
憮然とする青年に声を掛けるのも憚られたがこのままという訳にもいかない。
「・・いえ、・・充分です。・・坂崎のほうへお願いします。」
彼は訥々(とつとつ)と申し出て、静かに俯いた。おそらく感想戦をしているのだろう。きっとこの青年はまだまだ強くなるはずだ。
『若さか・・』
仕事としては楽な相手が一番だが、もしかすると“プロ”になるかもしれない、素質ある若者との勝負も時にはいいものだ。白川は自分の過去を重ね、励ます気持ちを抑えながら静かに目を細めた。