陽の当たらぬ盤上
平日ではあるが、午前1時の江片駅前は電車が終わっても酔客が多く、交差点の角に位置するコンビニの前でそれらの団体はここで仕切り直して河岸を変えるか、挨拶を交わした後に解散するかに二分される。その後者を狙ってタクシーの長い列は本来設定された乗り場よりかなり手前である横断歩道付近を起点に陣取り、後部ドアを開けて待ち構えている。
「どちらまで?」
「・・適当に流してもらえますか・・」
白川は小さく返事を返すと右ウィンカーを灯し、素早く車を出す。
「・・このままだと樋野のほうへ行ってしまいますが、よろしいですか?」
「・・一局お願いできますか?」
『ゲストか・・』
個人タクシーである彼の客は二通りある。目的地まで普通に運ぶ客を彼は心中で『お客』、将棋を指しに乗り込んでくる者たちを『ゲスト』と呼称している。
それが確定すると車は国道の本線へ合流する高架に上がるのをやめ、側道の左車線へ斜行し、ハザードランプを点灯させながら速度を落としてゆく。
「お客さんは、初めて・・とお見受けしますが、ウチのシステムはご存知?」
「はい、だいたいは・・」
「最初に三つ確認させていただきます。・・車酔いしないですね?」
「はい。」
「棋譜は読めますね?」
「それくらい出来ないならわざわざ来ませんよ。」
「仰る通りです。失礼しました。
失礼ついでに・・最後の確認ですが手持ちはいくらです?」
「2万円ちょっと・・ですかね。」
財布を覗きこむ客に確認を終えると同時に白川は説明に入る。
「気を悪くしないでくださいね。最近は勝てば要らないだろうってロクに金も持たずに乗ってくるのもいましてね・・お客さんのことを信用してないわけじゃないんですよ。」
財布をのぞきこむ客に愛想笑いを浮かべて白川は続ける。
「あなたが勝てば3万円差し上げます。運賃も要りません。私が勝っても頂くのは運賃だけです。お客さんの目の前、私の座席の背中にタブレットの端末が掛かってるでしょう?そいつが盤面です。それを操作してもらうことになってます。私は運転がしながらの対戦になりますので手番のときは口頭で示す通りに駒を動かしてください。お客さんの手番のときも一手ずつ声に出してください。私は自分のスマホで進行を確認します。特殊な状況な将棋ですので持ち時間は設けていませんが私は長考なしで・・5分以上を一手にかけません。・・ですが思考の時間も要りますので高速道路や信号のない幹線道路へは入りません。入力ミスはドローでやり直し。トイレや飲み物の購入にコンビニに寄って頂いてもいいですがそのときは運賃を質に置いていってもらいます。勿論、お戻りになればお返ししますし、初乗りにもなりません。
・・面倒かもしれませんがあくまでサービスの一環でお客さんの将棋に付き合うという体のものですのでご了承ください。手番は・・振り駒できませんので好きなほうを選んでください。
。」
白川がざっと説明を終えると今日の“ゲスト”は質問もなくこれを了承した。おそらく事前の情報と符号しない部分はなかったのだろう。
大事件があったかのように大袈裟なサイレンを鳴らし、その妨げを許さないハイビームで周囲を威嚇するようにパトカーが通り過ぎる。既に側道に寄せて停めていた白川のタクシーはそれが通り過ぎた後にゆっくりと続いた。