色気<食い気
古い作品です。
前の千円札は野口さんじゃなくて夏目さんでした。財布にどちらも共存していた頃に書いたようです。
大変です。とっても大変です。
私の人生がなんかこー非常に激しく崖っぷちです。今背中を押されればたくさんの石ころと共にお空に飛んでいけると思います、神様。
信じてもいないくせに思わず祈ってしまう。こんなこと、もうかなり昔に行った遊園地で絶叫マシーンに乗って以来だ。
あれ、どこの遊園地だったっけ。今を思うと私は若かった――てゆーか、幼かった。
あの時はほんとに怖くてさ、前にあるバーをつかんで私はどこへともなく叫んだ。「神様仏様雷様、どうか助けて」、なーんてね。何で神様と仏様の他に雷様が混じってたかなんて今思うととても謎。
「……いや、違う、そうじゃなく……」
現実逃避は美しくない。我に返って私は恐る恐る膝を見下ろした。
ノートパソコンが入ったカバンの上に、悲しいまでに軽い財布。
軽いってのはちょっと嘘だけど。実際のところ、財布はそれなりに膨らんでいる。でも、その厚みがお金意外のものなんてかなり救えない。
中身はメンバーズカードとかが主。キャッシュカードは一枚、クレジットカードはなし。銀行口座はなんと三桁。キャッシュコーナーで引き出せないなんて致命的。
中には小銭と、夏目さんと野口さんが一人ずつ仲良く入っていらっしゃる。まあつまり、お札はどっちも千円ってこと。
えー、しめて二千六百八十七円。何回数えても変わらない。これで二週間過ごすのは、いささか厳しくないですか?
私は何となくやっぱり信じてない神様に問いかけてみた。当然、答えなんて返ってこなかったけどね……。
昼間とはいえ、秋も半ばとなれば外は寒い。
今日は風がないからまだましだけど、ひらりひらりと落ち葉が舞うのを見てたらわびしさ倍増。暗澹たる気分になってくる。
少し厚めのジャケットに身を包んで、ゼリー飲料をちゅるちゅる飲んでいたら余計に。
ゼリーはスーパーで激安四十八円、税込み価格。
金欠に陥った以上、無計画にドカンと買うほどの勇気もなかったし、栄養もたっぷりそうだし、それより何より安さが魅力だった。
ちょっとぬるいけど、まあ、おいしい。
もったいないから少しずつ飲みながら、ぼへーっと空を見上げる。
はっきりしない色の空、はっきりしない形の雲。その間を遮るように葉っぱが時折ひらひらと降ってくる。
――ああ、なんかものすごく焼き芋が食べたくなってきた。
よだれが出てきそう。
サツマイモって今どれくらいの値段なんだろ。安かったら買っちゃおうかなぁ。一本くらいなら、そんなに高くないよね?
落ち葉を集めてさ、敷地内でたき火したら叱られるかな?
誰にも気づかれない場所を探したらありかも。
「ああ……いいなやきいもー」
呟いてみたところで、現実は空しい。残金は二千六百八十七円。これで二週間どう過ごそう。
「ダイエットか?」
ゼリーを飲みながら真剣に悩んでいると視界に陰がかかった。
「違う。寒いからどいて」
「おお、悪かったな」
本気でそう思ってるんだか、怪しい。ただでさえ肌寒いのに太陽光を遮ってのけた男は、そう言いながら体をずらした。
よいしょだとか年寄りじみた声を出して、私の隣に座り込む。
「あのな、萩野」
「何? 私今忙しいんだけど」
「こんなところでそんなもん飲むのの、どこが忙しいんだ」
「頭脳労働中」
「はあ?」
はっきり邪魔だとアピールしたつもりなんだけど、これで気にする奴だったら隣に座り込んだりしないよね。
心底疑わしげな眼差しで私のことを上から下まで眺めると、彼はやれやれと頭を振った。
「ものをうまそうに食わないおまえは、萩野じゃない」
「なにわけわかんないこと言ってんの春日井」
思わず彼の正気を疑ったら、目線が合ってしまった。
それを誤魔化すように最後の一口を飲み干して、ゼリー飲料のキャップをする。おなかいっぱいにはならなかったけどおいしかった。
「気の抜けたような顔してゼリーすすってまでやせる必要があるのか?」
春日井は私の手元を見下ろして、そう聞いてきた。いや、だからー。
「とりあえずそういうネタを振るな。だからデリカシーに欠けるんだよ春日井は。一歩間違えればセクハラだよそれ」
「なんでだっ」
「なんでもだ」
私はびしっと春日井にゼリー飲料のパッケージをつきつけた。
「そもそも、ダイエットと違うって言ったと思うけど? 金欠。今私飢えてるの。下手なこと言ったら、キレるよ?」
「もうすでにキレ……いや、なんでもない」
高校時代は柔道部。だからなのかどうなのか、やたらガタイがいいくせに、春日井は妙に押しが弱い。
「ケチな……いや、計画的な萩野にしては珍しいな」
「私にケンカ売ってんの?」
「――いや、そういうつもりじゃないんだが」
だったら私に恨みでもあるのか。
じっとり睨み付けると、密やかに春日井は身を引いた。へたれめ。
「人聞きが悪い。帰省と旅行でバイト代が飛んで、その上パソコンが壊れたの」
「パソコン?」
「レポート、データで提出、今月末。ただでさえ機械得意じゃないんだから、早く直ってもらわないと困るの。修理代三万、さっき払ったばっかりよ」
「高っ」
「痛かったわ……」
「そりゃ、ご愁傷様だな」
春日井は納得したような顔で、視線を落とした。私の手元の、侘びしい昼食さんにね。
「それで、それか」
「そう。買い置き食材もなくなってたし、バイト代は半月後。それまで三千円もないのにどうやって過ごせと」
「少なッ」
「だから計画練ってるの。邪魔しないで」
なるほどなるほど、なんて納得しながら春日井は立ち上がる。ああもー、余計な怒りでエネルギー使ったわ。
「色気より食い気が先走ってる萩野らしくないと心配したんだ」
「……春日井」
だからあんたは私にケンカ売ってんのか!
「うー、あー、悪かった?」
言う前に気付け、あと誠意が足りない。不機嫌に睨み続けてやると、春日井は困ったように頭をかいた。
困れ困れ。人の神経を逆なでたあんたが悪い。
「腹が満たされないと、怒りっぽくていけないな」
「あんたが余計な口出すからでしょーが」
「悪かった。お詫びにランチおごってやろう。スペシャルを」
「え……?」
私はゼリー飲料を取り落としそうになりながら、呆然と春日井を見上げた。
「マジ?」
「本気だとも」
「本気の本気で?」
じっと見上げた春日井が迷いなくうなずく。私は思わず立ち上がって、春日井の腕をひっつかんでしまった。
「なんっていい奴なの春日井! 失礼なこと言ったのすべて不問にしてあげるわ!」
「現金な奴だなー」
ぶんぶん振り回した腕を困ったように見下ろしながら春日井が呟いてる。うん、その言葉も気にしないことにするわ。
どうしよう、スペシャルランチなんて!
秋のスペシャルランチは、秋の味覚がふんだんに使われててボリュームたっぷり。その分学食の割にお高いんだ。サンマでしょ、栗の炊き込みご飯でしょ、キノコの炒め物に、お味噌汁。確かサラダもついていた。
うわどうしよう、七百五十円よ七百五十円。今の私の全財産の三分の一近くもするんだから。
「どうしよう春日井、私あんたに惚れちゃうかも」
「餌付けしたつもりはないんだが」
「よだれが出てくるわー」
「……そんなことを堂々と言わんでくれ」
なんか、気分が上向いてきた。大丈夫よね、二千六百八十七円あればお米くらいは買えるわ。今日のランチを最後に、節約生活をはじめるのも悪くないじゃない。
栄養が偏るかもしれないのが難点だけど、この際仕方ない。少しの辛抱なんだから。
そう決めるとあとは足取りも軽い。春日井を引っ張るようにして、私は張り切って学食に向かった。