001−005
湖を取り囲む木立の群に足を踏み入れるため、馬から降りる。そっと降りる。忍び足で歩く。
もしや、今日こそは、という再会への期待が、常にこのような動作を、おれに強いるのだ。
この慎重な足運びは、いつだって徒労に終始するのだが。
その日は、違っていた。
はじらう銀鈴のような繊細な水音が、足取りを凍りつかせる。
湖に視線を投じたとき、おれは足取りどころか心臓までも、うっかり硬直の餌食に差し出してしまうところだった。
あれは、何だ。
透き通るようなくるぶしを、湖面に差し入れている、あれは。
無数の真珠を連ねたような白銀の髪が背をおおい、腰まで垂れかかっている。
どう解釈したらよいのだろう。
これは、あのときの蛇なのか。
本当に?
蛇の化身なのか。
そう信じていいのか?
動揺は、足に来た。
よろめいて、地面に落ちていた小枝を踏んでしまった。
かわいた音が、空気を震わせた。
白蛇の化身が、こちらを向いた。
赤い瞳。
虚無と深遠のまなざし。
あの頃と寸分たがわぬ。
「久しぶりだね、きみ」
おれはこう言った。
こう言ったつもりだった。
無垢な裸体をさらす、少女の姿をかりた蛇に。
だが実際は。
かすかに唇が震え、わずかに息が洩れただけで、言葉には、ならなかった。
白蛇の化身の、解き難い謎のような表情は変らない。
しばらく彼女は、そのまなざしで、おれの両目と心臓を射抜いていたが。
やがて興味が失せたのか、ふいに視線をはずし、湖水に沈んでいった。
おれは、後ずさりを始めた。
そして、転がるように木立を抜けた。
プランセットの手綱を掴み、飛び乗る。
驚いた彼は前足を上げた。
宥めることも失念し、ムチを食らわせてしまった。
たまらず彼は駆け出した。
どうしてこんな気分になるんだ。
なぜ逃げ出さなくてはならないんだ。
彼女の姿をただ一目みただけで、五体を駆け巡る血液が、油を注がれた火と化したようだ。
息ができない。心臓がやぶれてしまう。手の震えがとまらない。
精霊に会ったのなんか、初めてだ。
愚にもつかぬ噂話なら腐るほど耳にしたが、実際この目で見たことなんて、これまで一度もなかったのに。
しかし、この戦慄は、単に人外の存在に遭遇したためばかりではない。
仮にあの精霊が、彼女のあの容姿よりわずかでも異なっていたならば、おれはこれほどまでも魂に深手を負わずにすんだはずだ。
おのれの心身を律することすらままならぬ恐慌に陥ったおれに、愛馬を気遣う余裕はなかった。
プランセットは滅茶苦茶に引きずり回された。
突然の理不尽な扱いに混乱しながらも、賢明な彼は、ほとんど自力で、自分の意志だけで、城に帰還した。