表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/30

001−005

 湖を取り囲む木立の群に足を踏み入れるため、馬から降りる。そっと降りる。忍び足で歩く。

 もしや、今日こそは、という再会への期待が、常にこのような動作を、おれに強いるのだ。


 この慎重な足運びは、いつだって徒労に終始するのだが。

 その日は、違っていた。


 はじらう銀鈴のような繊細な水音が、足取りを凍りつかせる。


 湖に視線を投じたとき、おれは足取りどころか心臓までも、うっかり硬直の餌食に差し出してしまうところだった。


 あれは、何だ。

 透き通るようなくるぶしを、湖面に差し入れている、あれは。


 無数の真珠を連ねたような白銀の髪が背をおおい、腰まで垂れかかっている。


 どう解釈したらよいのだろう。

 これは、あのときの蛇なのか。

 本当に?

 蛇の化身なのか。

 そう信じていいのか?


 動揺は、足に来た。

 よろめいて、地面に落ちていた小枝を踏んでしまった。

 かわいた音が、空気を震わせた。

 白蛇の化身が、こちらを向いた。


 赤い瞳。

 虚無と深遠のまなざし。

 あの頃と寸分たがわぬ。


「久しぶりだね、きみ」

 おれはこう言った。

 こう言ったつもりだった。

 無垢な裸体をさらす、少女の姿をかりた蛇に。


 だが実際は。

 かすかに唇が震え、わずかに息が洩れただけで、言葉には、ならなかった。


 白蛇の化身の、解き難い謎のような表情は変らない。

 しばらく彼女は、そのまなざしで、おれの両目と心臓を射抜いていたが。

 やがて興味が失せたのか、ふいに視線をはずし、湖水に沈んでいった。


 おれは、後ずさりを始めた。

 そして、転がるように木立を抜けた。


 プランセットの手綱を掴み、飛び乗る。

 驚いた彼は前足を上げた。

 宥めることも失念し、ムチを食らわせてしまった。

 たまらず彼は駆け出した。


 どうしてこんな気分になるんだ。

 なぜ逃げ出さなくてはならないんだ。

 彼女の姿をただ一目みただけで、五体を駆け巡る血液が、油を注がれた火と化したようだ。

 息ができない。心臓がやぶれてしまう。手の震えがとまらない。


 精霊に会ったのなんか、初めてだ。

 愚にもつかぬ噂話なら腐るほど耳にしたが、実際この目で見たことなんて、これまで一度もなかったのに。


 しかし、この戦慄は、単に人外の存在に遭遇したためばかりではない。

 仮にあの精霊が、彼女のあの容姿よりわずかでも異なっていたならば、おれはこれほどまでも魂に深手を負わずにすんだはずだ。


 おのれの心身を律することすらままならぬ恐慌に陥ったおれに、愛馬を気遣う余裕はなかった。

 プランセットは滅茶苦茶に引きずり回された。

 突然の理不尽な扱いに混乱しながらも、賢明な彼は、ほとんど自力で、自分の意志だけで、城に帰還した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ