002-005
なんということだ。
森は色あせていた。
まるで、よその地に踏み込んだようだ。
それとも。
森でなく、やはりこのおれの方が変わってしまったのか。
おれのこの目は、この皮膚は、恋に蝕まれ、曇ってしまったのか。
おれは項垂れて、つまりは愛馬のたてがみばかりを眺めながら、しょんぼりと木々の間を彷徨った。
愛馬プランセットの歩むに任せていたおれは、彼が急に立ち止まってしまっても、しばらく気づきもしなかった。
ようやく我に返って、のろのろと顔を上げる。
そして、ぎょっとした。
今の今まで胸の内で恋焦がれていたまさにその人が、目の前に佇んでいたのだから。
彼女は今日も南方の民族衣装を纏っていた。
但し……男物を。
この地方の服よりは、袖口も襟ぐりもゆったり取った上着。
襟元からはハイネックの胴衣が覗く。
極彩色の紐やら金銀の鎖やら、贅沢というよりは無遠慮なほどの大ぶりな宝石つきの金具などで、あちらこちらを複雑に止めつけてあるところまでは女性のと同様だが……裾の丈が違う。
晩餐の時に見かける女物は地を這うほどたっぷりと布を使ってあるのに、今来ている服の裾からは、皮のブーツに覆われたふくらはぎまでが、覗いているのだ。
……たしかにあのドレスでは、森を散策するには不都合だろうが。
はじめは幻かと思った。
が、そうではなかった。
おれは非常に驚いた。嬉しい驚きではなかった。
彼女は兄の側女となる身なのだ。
「ここは、ぼくの森だ」
……そうだった。当時のおれは、みずからを『ぼく』と称し、そして。
「出て行きたまえよ」
……そして、今のおれならば絶対に使わないであろう、このような上品な言葉を、生意気にも平気で、大真面目で操っていたのだ。
彼女は笑った。軽く鼻を鳴らし、唇を片方だけ吊り上げて。
「おまえの森?」
彼女は言った。たしかにこう言った。
喋った!
「おまえの父上の森だろう」
異邦人ならではの、微妙な発音。
それにこの尊大な言い回しは、どうだ。
このおれを……仮にもこの国の第二王子を『おまえ呼ばわり』したのだ!
言い返すこともできず、ただ目を瞠るばかりのおれを、彼女はまたもや、嘲笑った。
「わたしが口をきくのが、不思議か?」
逆らい難い、威厳に満ちた、口調。
「ああ、だってあなたは、あなたがた南方の人々は……」
気づいたときには、すでに返事をしていた。
語尾が流れたおれの言葉の続きを、彼女は淀みなく継いだ。
「他部族には決して声を聞かせない。声は神聖なもの。形もなく色もなく匂いもなく、そして……一旦発した声は、二度と取り返しはつかぬ。この喉元から迸り出て空中に溶け込み、何処かへ去る。我々は天の神々の元へ還るのだと信じているが……それゆえ、我らは不用意に声を出したり、聞かせたりはせぬ」
「では、何故、今……」
「我らは決して声を聞かせぬ。気を許せぬ者に対しては、決して」
彼女はきっぱりと言い切った。
赤い瞳で、白蛇の瞳で、おれを見据えて。
おれは総毛立った。
「……が、どんなことにも例外はつきものだ。わたしとおまえのように」
彼女はひらりと、鋭い視線を上手に和らげて、言った。
「大人たちの言うことを、いちいち鵜呑みにしてはいけない。実際あれらは、なにもわかってはいないのだ。おまえの父親にしても、そうだ」
「王が?」
「みずからの父を『王』と呼ぶのか?」
「…………」
「まあ、いい」
彼女は微笑んだ。
今度は嘲りを、あまり含んでいない。
心なしか、機嫌が良くなったようにさえ、見受けられる。
「そう『王が』な。彼はわたしの名すら、正確に公表しなかった」
「あなたは、ノエル・ナハシャザーレではないの?」
「厳密にいえば、ちがう」
「…………」
「…………」
少しだけ、沈黙が流れた。
彼女の、装飾をひとつも施していない真珠色のざんばらの髪が、風にそよいだ。
巻き毛が、さざ波のように泡立つさまに、一刹那、完全に目を奪われてしまったおれは、間抜けにも、咄嗟に呑み込めなかったのだ。彼女がおれの問いかけを待っていることを。
「……あ、ええと、それでは、本当はなんていうの?」
おれは、幾分慌てて訪ねた。
彼女は、せっかく先刻ちらりと見せた微笑を、もう完全に引っ込めて、おれの鈍さを無表情で責めていた。
「ノエルタリア・ナハシャザーレ」
拗ねたように横を向いて、ぶっきらぼうに言う。
「タリアとは王家の女子に与えられる称号だ。男子はタリオン。こちらの言葉で姫とか、王子とか言うが、それとは少し意味がちがう。名の一部なのだ。なくてはならぬものなのだ。おまえの『王』は、わたしをナハシャの人身御供と軽んじて、タリアの称号を省いたのかも知らぬが、それは誤りだ。わたしは今もノエルタリアだ。ノエルタリア・ナハシャザーレだ」
「……ノエルタリア・ナハシャザーレ」
思わず反復してしまった。
彼女の表情は、まるで風紋だ。微妙に、繊細に、様子を変える。
そしてどの表情も、おれを魅了し、釘付けにする。
彼女は、合格点をくれるときの教師のような、上機嫌だけれどやはりどこか高慢な顔をして、おれを見つめなおすと、いきなり気さくな雰囲気を醸し、言った。
まるで同性の、旧知の友のように。
「いいかげん、そこから降りてこないか? 人を見上げて話をするのは好きじゃない。わたしは砂だらけの国で生まれ育ったから、こういった環境が珍しくてならないのだ。おまえが馬から降りて、わたしと肩を並べて歩き、森を案内してくれるなら、わたしも、おまえの知らぬ、砂漠の話をしてやろう」
彼女は素直にものを頼む術を誰からも教わらなかったと見える。
だが、この高飛車な物言いも、実に彼女らしくて、おれは気に入ってしまった。
安心も、した。
出会いが出会いだったから、なんだかおれは、彼女のことを未だに人間以外のもののように感じていた。
けれど彼女は笑い、語り、拗ねてさえみせる、生身の人間だったのだ。
しかも、こんな風情を見せるのは、おれにだけ特別に、らしい。
この考えに突き当たった途端。
おれは全身の細胞が歓喜に沸き返るような、すさまじい優越感を覚えた。
おれたちは、出し抜いているのだ。
欺いているのだ、周りのものすべてを。
おれたちの真の姿は、互いの他、誰も知らないのだ!