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プロポーズのようなもの、または失言

作者: 志内炎

この小説は完全なフィクションです。

歩いて十分もかからないスーパーに、一緒に買い物に出かけるとき、彼は必ず二分間、姿見の前に陣取る。

 まず、やや右を向く。

 しっかりと横に張った小鼻がちょうど顔の真ん中辺りに見えるくらい右を向く。

 左耳の後ろの髪の毛が、顎の一番張った部分に向かって綺麗なアールを描いているかを確かめる。

 次は左を向く。

 こちら向きのときは、小鼻がちょうど顔の真ん中に来るように角度を取った上で、ほんの少し顎を上げる。

 どうやら右耳の後ろ髪の癖は強いようで、左側のときよりも慎重に曲線を確かめる。仕事での日々の荷物の積み下ろしという作業のためか、指先へ這うように伸びている爪先、親指と人差し指の二本で、茶色がかった毛の一本一本でもつまもうかというほど丁寧に整える。

 最後に正面を向く。

 パーマをかけたような緩やかなウェーヴは天然で、それ自体が彼のお気に入りのようだ。真ん中で分けた、眉が隠れる程度の前髪は左右対称に美しく流れていて、もういいだろうと思うのに、指先をすべて揃えてすぼめた右手を分け目の中央、額の上から頭頂部にかけてふわりと動かす。同時に、すぼめていた指を一度広げて元に戻す。指先は髪の表面から地肌までのちょうど中間を通る。その繊細さは、私の身体に触れるときにすらみたことがない。

 大切な二分間が終わると、私の準備の進み具合に関わらず、

「よし、行こう」と声をかける。

「髪型決まってるね」というのをやめるのに、そう時間はかからなかった。仕事が終わった彼が、当然のように私の部屋に帰ってくるようになったのとどちらが早かっただろうか。

 彼の部屋のいつ洗ったかわからないシーツで眠るのが嫌で、私の部屋に誘ったのは私だ。彼はコンビニで買った水色の柄の歯ブラシと一緒にやってきた。私が誘ったのだから、いつくようになってしまったのも、それはある程度仕方がないことだとは思う。

 だが、休みの日にシャワーを浴びようとしない彼の体が、毎日取り替える私のシーツに寝転がるのが耐えられなくて、風呂で身体を洗ってやった。私は昔飼っていた柴犬を洗っているような感覚に陥った。毛むくじゃらの彼の体は、面白いように石鹸を泡立てた。一度だけのつもりが、彼のほうはもうちょっとお楽しみの多いものだったらしい。週末、私が洗ってやろうとしない限り、絶対にシャワーを浴びなくなったのはちょっと思い上がりが過ぎる。


 女友達と二人で飲んでいた店で、彼のいたグループと出会った。意気投合して一緒に飲み、連絡先を交換したのは友達だった。

 次の休みの日も、私たち二人と、彼のグループ四人で飲んだ。

 何年彼女がいないかを競い合ってしまうような不毛な集団だったけれど、それは片方で出会いがなかっただけの遊び盛りともいえた。私たちだってとっくにいき遅れと呼ばれる年頃で、彼氏がいないのも同じだった。

 皆でカラオケにいった。

 皆に隠れて、一番ハンサムだった彼にキスをした。友達も、彼を狙っていたはず。どちらかといえば、彼は友達好みだ。

 抜け駆けして二人飲み。

 二度目のキスは、

「俺が守るから」という言葉をきちんと聞いた後だった。


「ヒロに、結婚しちゃえば? っていわれたよ」

 何度目かのスーパーの帰り、抜け駆けがばれてそういわれたと彼はいった。私はヒロという彼の友達が、背の高いほうだったか、色の白いほうだったか思い出せずにいた。

「なんでいきなりそういう話になるのよ」

 どっちだったか思い出そうとしながら、笑い混じりでそういうと、

「もう、いい歳だし、今後出会いもないかもってことかもね」

 と、彼も半分笑い混じりでいった。

「今後がないからなんて、失礼ね。遠慮させてもらうわ」

 そういったあと、背の高いほうがヒロだったことを思い出して、ちょっと後ろを歩いていた彼を見返した。彼は黙っていた。街灯で表情はよく見えなかったけれど、薄い唇は、初めてキスしたときと同じようにきゅっと結ばれていた。

 彼のことが好きだった。

 作り物のように、目の縁に一直線に並んだ睫も、通った鼻筋も美しいと思った。

 口数少なく、それでも作ってやった弁当を綺麗に食べてくるところも嬉しかった。

 痺れるような首筋から胸元に這ってくる唇も、毎回、

「中でいっていい?」と聞く声も、終わったあとにまるで私の頭の形を確かめるように頭を撫でる癖も好きだった。ご自慢の天然パーマの柔らかい髪も。


 めずらしく、できあいのおでんを買って来て晩酌をした。

「大根が固いよね」などといいながら、卵を食べた。硫黄の匂いが口の中に広がる。そのまま洗面所にいって吐き捨てた。

 驚いて私の後を追ってきた彼に、

「卵、悪くなってる」としかめっ面でいった。

「……つわりかと思った」

「そんなわけないじゃない」

 欠かさずピルを飲んでいる。だから、中でいくことを許しているのだ。

「なんだ、父親になれるかと思ったのに」

 冗談のようにそういう彼が部屋に向かう。その後ろをついていきながら、私も冗談で返した。

「できてたら生まなきゃだめ?」

「――もちろん」

 笑えない沈黙の後、彼は静かにそういった。

 翌朝、

「弁当はいらないよ」といった彼を見送った。


 彼のことが好きだった、はず。

 彼がでていったあと、掃除機をかけるとたくさんの体毛が落ちていることにイライラしていた。ご飯を食べるときに、左手で茶碗を持たないことも気になっていた。髪を整える右手に、嫉妬していたわけではなく疎ましく思っていた。

――どうしてあの時、キスしたんだろう。

 一番ハンサムだったから。

 友達も狙っていたから。

 抜け駆けするスリル。

 彼氏がいるというステイタス。

 それは彼も同じこと、と思っていた。

 妊娠しないとわかっていると思っていた。

 彼のことが好きだったはずなのに、今後に出会いがないかもしれないからという理由であっても、彼は私の子供の父親になりたいと思ってくれていたのに、私は彼を父親にしてやるつもりなどなかったのだ。

 いつからすれ違っていたのだろう。それとも、最初から見つめ合っていなかったのか。彼は私の姿見の中に未来を見つけていたのだろうか。いったい私のどこが好きだったのだろう。彼の大切な二分の間に、私は何を見つけたのだろう。少なくとも、運送屋さんの奥さんになっている自分は見えなかった。

 同じ快感におぼれていたはずなのに、彼は責任を持っていて、私は安全なセックスを楽しんでいた。抱き合った数だけ、私たちは違うものをみていた。


 いつものように掃除機をかけたあと、出勤までにまだ時間があった。

――床も拭こうかな。

 彼の落とした最後の体毛一本も残さないように。

 雑巾を絞りにいった洗面所には、彼が買ってきた歯ブラシがグラスに立ててあった。

――「結婚しちゃえば?」という言葉は、本当にヒロがいったのだろうか。

 浮かんだ疑問を振り払うように、頭を横に振った。そんなことはもうどうでもいいことになってしまった。ため息を一つだけついて、まだ新しい歯ブラシをゴミ箱に捨てた。

 姿見の前の床には、優しい手から零れ落ちた半分白くなった薄茶色の癖っ毛が一本、取り返しがつかないほど彼を傷つけてしまった私を責めるようにふわりと揺れていた。

 

 

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