7話
ドタドタドタ……と、遠くから、足音が聞こえて、わたしはうっすらと目を開けた。
誰かが廊下を走っているらしい。
カーテンから差し込む光はまだ弱く、太陽が昇り始めるかその直前くらいだと推測した。
……朝からこんなに元気な足音を立てるなんて、誰だろう。妹? 寝坊でもしたのかなー。にしてもうるさい。まったくもって迷惑千万。苦情を言わなくちゃ。
ま、今のわたしにはカンケーないし、苦情は後にしとこ。さて、もうひと寝入りでも――。
そう思ったところで、勢い良くドアが開いた。
「ハル! 朝だよ!」
「はぇっ?」
ドアが蹴り倒されたのかと思う勢いに続いて聞こえたのは、その音に負けず劣らず勢いのある声だった。
びっくりして起き上がり、周囲を見ると、部屋の入り口には茶髪の男の人が立っていた。目はらんらんで、朝からなんて元気な人だ。と思ったところで、それが誰だったか思い出す。
そうだ、ここは異世界で、エイハブさん家で、お風呂に入った後晩ご飯を食べて、そのまま部屋を準備してもらって、寝たんだった。
「え、エイハびゅ、っつー……」
「さあ早く!」
舌を噛んだ。
けれど、エイハブさんにはわたしの事情なんて、まったく関係ないらしい。まだベッドの上にいたわたしの腕を掴むと、問答無用で引っ張っていく。
そのまま、寝間着姿で部屋から連れ出されてしまう。あああーせめて靴くらい履かせてー!
「え、ちょ、」
「ヤーティンと交流を得るには、君が必要なんだよ! でも、さすがに寝ている君を起こすのは忍びないと思ってさ、朝が来るのを今か今かと待ってたんだ!」
「まっ、」
「そうそう、ヤーティンは僕の想像通り、とても美しい姿をしてたんだよ! 君も見るとびっくりするよ、あの美しさに!」
「だか、あのっ」
「きっと王国健在時代は、ヤーティンは守護者としてだけじゃなくて、いろいろと重用されてたんだね。じゃないと、番人にあんな綺麗な姿は必要ないからさ」
何よりわたしの話を聞いてー!
口を挟む隙なんてイチミリもなく、わたしはエイハブさんに引っ張られるままに、奥の部屋に足を踏み入れた。その部屋を見た瞬間、
「マ、マッドサイエンティストの部屋ー!」
「なにそれ? ここはただの研究室だよ」
「だだ、だってあの瓶詰め何ですか!? 中に奇怪な生物が入ってますけど何の呪いですか!? うわぁあれなんてフラスコじゃないですか! 入ってる液体が赤いし黄色いし、何あれ何あれー!」
「ああ、あれはミレニアル王朝時代の、魔法生物達さ。今はミイラだけど、稼働してた頃は、美しい姿をしてたんだろうね。瓶に入れてるのは、出来るだけ空気に触れさせないためだよ。痛んでしまうからね。近くで見てみる?」
「いいですいいです! それ持って来なくていいです!」
「そう? あ、そうだね。ヤーティンだよ! こっちこっち」
山積みされた本の隙間を縫い歩きつつ、手を引かれてさらに奥の部屋へ行く。
庭に出る大きな窓辺には、真っ白の毛並みを持った大きなヤーティンがいた。窓から入るそよ風に、白い毛がふわりと波打っていて、窓辺に座るヤーティンは気持ち良さそうに風を浴びているように見える。
昨日の夜は、真っ黒に汚れていたのを血の池地獄のお風呂で洗った。わたしがそばにいないとヤーティンは動けないからだ。そこで、赤い湯がかなり濁るほど洗って、ひと晩乾燥させるために庭にいてもらった。
あの時も、ああ、実はヤーティンの毛って白かったんだなあとは思ったけど。
それ以上に、今のヤーティンの姿は、とても綺麗。
外見はゴリラみたいなのに、そう思うのがとても不思議だ。でも、すごく綺麗だった。
「……ヤーティン?」
わたしが小さく呟くと、ヤーティンはぎこちない動きで首を巡らせる。その表情はとても穏やかで、眼差しはとても優しい。
口から流れていた循環液も、荒い息遣いもない。
太陽が本格的に姿を見せるようになって、光が溢れてくる。その光を背景に立つヤーティンの姿は、さながら神聖な生き物のようだ。
エイハブさんが、わたしの反応に満足そうに笑うのが、視界の隅っこに入る。
「すごく美しいだろう?」
「はい」
「早く傍に行ってあげるといいよ」
「あ、はい」
わたしが傍に近付くと、ヤーティンはぎこちない動きが少しだけ滑らかになったみたいに、身体ごとわたしへと振り向いた。
ええと、何を言おう。朝だから、まずはあいさつ?
「おはよう、ヤーティン」
返事はないけれど、ヤーティンは金色の瞳で、じっとわたしを見つめている。
その眼差しがとても優しかったので、わたしはぎゅっとヤーティンに抱きついた。ふわふわの毛が気持ち良くて顔をうずめると、背中を優しく撫でる感触があった。人の手より明らかに大きな感触に、ヤーティンが撫でてくれているのだと分かった。
可愛い。このヤーティンは、とても可愛い子だ。
「やっぱり、君はヤーティンの主なんだね。顔が全然違う」
「神様に言われてるからですよ。でも、そんなこと気にしません。わたし、この子のこと好きになりました! これからよろしくね、ヤーティン」
それから、とエイハブさんに向き直る。
「ヤーティンを治してくれて、ありがとうございます」
「はは、お礼を言われるのは悪くないね。ただ、治したと言っても、完全に、ではないんだ。循環液だけはどうしても用意できなくてね。あれは魔法の精製によって作られる特製品だから」
「でも、今のヤーティンは昨日みたいに苦しそうじゃないから、それだけでも治してもらえたのは、良かったと思います」
「そうだといいね。じゃあ次は君だ」
「わたし?」
「そうだよ。君のことを聞きたい。どこからどうやって来たのか、知りたい。それから、エレメンケルとはどういう関係?」
「エレメ?」
って、誰だったっけ?
「君が神様と言っていた声の主だよ。そう名乗っていたじゃないか」
「あー……そうでしたっけ? 覚えれませんでした。記憶力がいいんですね」
「まあね。一回聞けばだいたいのことは忘れないよ」
それはすごい。テスト直前には重宝する力だ。
「それから、あの時君は、話していいか分からない、と言っていたけど、もういいよね? 僕達はあれだけ事情を聞いたんだ。もう赤の他人ってわけでもないだろう? それとも、まだ信用できない?」
「……いいえ。これからやっていくには、エイハブさんの協力は必要になると思います」
わたしは首を横に振る。
確かに、もうエイハブさんは事情に片足どころか両手両足を突っ込んでいる。信じる信じない、と迷うより、協力してもらうために、お願いしなければならない人だろう。
わたしがこの先、この土地、もしくはこれから向かう先にある様々な国で動くために。
「僕は、協力を惜しむつもりはないよ。長年の夢だった魔法王国の謎を、解き明かすことが出来るかもしれないんだ。むしろ、嫌がっても協力するつもりだから」
「……あはは」
本当に、いろいろ正直な人だなぁ。
それが本音なのか、気遣っての台詞なのかは分からないけど、協力してくれると言ってくれているんだ。そこは、感謝しておいたほうがいいよね。
なので、わたしは深く頭を下げる。
「エイハブさん、こちらからもよろしくお願いします」
「もちろん! さあ、君のことを全部教えてくれ!」
さっきより内容が大きくなってる気がするけど、まあいいか。分かるところは正直に答えよう。……変な質問じゃないかぎり。
でも、その前に。
さっそく、と踵を返すエイハブさんの腕を、わたしは引きとめた。
「待ってください」
「なに?」
「……まずは着替えさせてください」
わたしの言葉に、エイハブさんは目をぱちくりと瞬かせて、わたしを上から下まで見た。そして、今初めて気付いたように、あ、と小さく呟いた。
この人、本当に夢中になると周りが見えなくなるんだな……。
服を着替えて研究室に戻ると、ディーンさんとフィオンさんもいた。
ちょうど4人揃ったところにバートさんが顔を出したので、話し合いは朝ご飯の後にということになる。
朝食の内容は、パンとベーコンとサラダにコンソメスープだった。名前は多分違うだろうけど。
昨日の夜に出た食事も、わたしの知る食材に味も形も似ているものが多かったし、味もおいしかった。それには大きく安心してる。食が合わないって、かなり辛いって聞いたことがあるからね。
「ディーン、フィオン。僕は、今日はハルから話を聞いて、その後は研究に戻るつもりだから、自由にしてていいよ」
「そうか? それじゃあオレもハルの話を聞くよ。守護者とか変なのに選ばれたみたいだしな。フィオンはどうする?」
「もちろん俺も参加するよ。情報は共有しておいたほうがいいからね」
2人の言葉に、食後すぐに研究室に集まることになる。
ヤーティンのいる窓辺に椅子を4つ揃えると、「まずは」とエイハブさんが切り出した。
「君はどこから来たの?」
「異世界からです」
その瞬間、3人の間に沈黙が下りた。うん、その反応は正しいと思います。
でも、本当にその反応をされると切ないな……自分がヘンな人になった気分になるから。
「あの、冗談でも嘘でもないですから。わたし、この世界とは別の世界から、神様に頼まれて仕事で来てるんです。内容は、壊死し始めている大陸の原因を突き止めて解決することです」
慌ててそう付け加える。
「……なるほど、話は矛盾はしてないね。エレメンケルも、魔力が遮断された大陸を救え、って言ってたし」
「オレには、どこからどう突っ込めばいいか分かんねぇ」
「じゃあ、俺とディーンを守護者に選んだって言ってたけど、それって一体何のためだい?」
「わたしは異世界の人間だから、加護が与えられなくて、代わりに護衛を与えるって。最初は、ヤーティンがその一人だったみたいですけど……」
ヤーティンは名前を呼ばれて、わたしに目を向けた。
「そういや、そんなことを言ってたな。オレとフィオンのことを、ナントカの末裔だからちょうどいい、って」
「アルリムとウバルだね。あの口調からすると、フィオンがアルリムで、ディーンがウバルといった感じかな。知っているかい?」
「オレは聞いたこともねぇな」
「俺も同じく。その二人については、調べる予定だよ。末裔というくらいだから、ご先祖のことだと思うけど」
「フィオン、僕もそれには興味深く思ってるから、ぜひ協力しよう。で、次。どうやってここに?」
「分かりません」
途端に、エイハブさんががっかりした顔になる。
分かりやす過ぎる。けれど、分からないものは分からないのだから、仕方がない。
「……覚えてないんです。気を失ってたから」
「光る模様から出てきた時、気を失っていたっけ。あれは驚いたよ。突然、女の子が壁の中から出てきたんだから」
それは確かに驚くよね。わたしなら即効逃げ出す。
ああでも、あの部屋は出口がなかったんだったか……。
「じゃあ、方法は……」
「分かりません。神様の力だってことしか」
「それじゃあ、大陸が壊死する原因は?」
「分かりません。神様が言うには、気付いたらそうなってたって。治したくても、世界との繋がりが断たれて手出しができないって。だから、わたしに解決してほしいと言われました」
「世界との繋がりが断たれた、か……その理由が分からなくては、どうしようもないね」
「でも、遺跡を動かせば、魔力を送り込んで大地は生き返るって。それでいいんじゃないですか?」
「んー……それは対処療法に過ぎないよ。原因は取り除かれていないから、本当の意味で大陸を救った事にはならないね」
ああ、そうか。
風邪をひいて熱を出したら、ただ冷やすだけじゃダメ。原因であるウイルスを殺さないと、風邪は治ったとは言えないのと同じなんだ。
「ねえハル、エレメンケルって何者だい?」
「ええと、神様だって、自分で言ってましたけど……」
「神様、ねぇ……」
「自分で自分のことを神様だ、って言う奴に、ロクなのはいねぇ気がするけど」
う。それを言われるとキツい。
「つまり、君は正体を知らないんだね? よくもまぁ、相手のことを何も知らずに仕事を引き受けたね」
「ま、まぁそれは……事情が、いろいろと」
そんな、呆れたように言わないでエイハブさん。
お金と願い事を叶えるよ、っていうエサに釣られた部分もあること、言えなくなるじゃないか。
「それに、どうして君なんだろう。君には腕力も体力も知力も、人並み程度しかないみたいだし」
そこまで言うか。しかし反論はできない。
「……異界を渡ることが出来る体質だそうです。千年も探して、ようやく見付けたのがわたしだって」
「異界を渡ることができる体質かぁ……でも何で、異世界の人間なんだろうね。自分の世界の問題なら、本来なら自分で解決すべきじゃないかな」
「さあ……何か理由でもあるんでしょうか」
「さあ、って……君、本っ当に何も知らないまま来たんだねぇ」
とうとう、エイハブさんの口調が、完全に呆れたものになった。
ああ、いたたまれない。
「そ、それはその……話が途中の段階で、こっちに来ちゃったから……」
「まあまあエイハブ、当面は遺跡巡りをしていく、ということでいいじゃないか? 大地の衰退はこの大陸に暮らす俺達には、切迫した危機なのだし。その解決に繋がるというのなら、まずは動いてみるのも一つの方法だと思うんだ」
ああ、ありがとうフィオンさん! 見事なフォローです!
フィオンさんのフォローが効いたのか、他の理由があるのか。エイハブさんは小さく肩を竦めて「そうだね」と答えた。
「謎は多ければ多いほど、解き明かす楽しみが増えるって思うことにするよ」
何も知らなくて、全力ですみません。
ってこれはわたしが悪いのだろうか……。