3話
ヤーティンはゆっくり、確実にわたし達の方へと近付いてくる。
金髪の人が、一歩前に踏み出した。わたしを背中に隠すように。守ってくれようとしているのだと分かった。
(初対面なのに……。こんないい人初めてみた)
感動しつつも近付いてくるヤーティンが怖いので、言われた通りに後ろへと下がる。
ヤーティンがゆっくりこちらへ手を伸ばしてくる。金髪の人は即座に剣でその腕に切り掛かった。でも、あっさりと剣は弾かれる。ヤーティンの腕も反動で揺れたけど、傷はついていなさそうだ。
もう一度、ヤーティンに向かって金髪の人が剣を振り下ろす。金属音が響く。ヤーティンはまるでハエを追い払うように両手を横になぎ払った。
その腕にぶつかって、金髪の人が吹き飛ばされた。
「ああっ!!」
少し離れたところに吹き飛ばされて倒れた金髪の人は、すぐに立ちあがった。
怪我もなさそうな感じにほっとするのもつかの間、ヤーティンがわたしの目の前まで近付いてきていた。
あんなのに殴られたら、絶対死ぬ! に、逃げなきゃ……!
でも、足が動いてくれなかった。どうしよう、どうしよう!
「逃げて!」
「お嬢ちゃん!」
金髪の人に続いて黒髪の人もそう叫んでくる。でも、無理だ。
完全に足がすくんで動けなかった。壁に背中を預けて立っているのが精いっぱい。もはや指一本動かせない。
ただひたすらに、近付いてくるヤーティンを見ているしかない。他の人は一切無視したかのように真っ直ぐに、わたしに向かってくるヤーティンを。
……え? わたしに向かって?
え。ええええっ。もしかして、ヤーティンの目当てはわたし!?
何で!? わたし、何かしたっけ!?
ヤーティンはとうとうわたしの目の前まで来て、止まった。荒い息遣いは変わらず、口から涎は垂れ流し。でも、ヤーティンはわたしをじっと見下ろしたまま、動かなくなった。機械仕掛けのように、ぴたりと。
両手を胸のところで交差させているけど、何か意味あるの?
「と、と、止まった……? 何で?」
わけが分からない。でもじっと見下ろされてるから、怖くて動くこともできない。
ヤーティンの後ろで、金髪の人と黒髪の人が剣を構えながら慎重に動いているのが見える。が、その2人の間に割り込むようにエイハブさんが顔を突き出してきた。
「ねえ君! ヤーティンの主なのかい!? 魔法使いなのかい!?」
「ちっ、違います! 違いますけど……あの、こういう場合、どうすればいいんですかっ?」
「どうって、ヤーティンは君の命令を待ってるんだろう? 命令を下せばいいんだよ、命令を。その手は服従の証なんだからさ!」
「命令!?」
「何でもいいから、何か言ってごらんよ。そうすれば分かるさ」
命令って何を言えばいいの? 命令、命令、何かさせる……。何かをさせる……。
「…………………………お、おすわり?」
うっかり語尾が上がっちゃったー! それ以前にそれは犬の芸だー!
でもヤーティンはそのまま膝を曲げて座った。しかも正座。ゴリラの正座ってなんかシュールな光景だなあ……。
というか。
「ほ、ほんとに座った……」
呆然としていると、エイハブさんが興奮いっぱいの表情でわたしのすぐ隣に来た。鼻息荒くまくしたてる。
「すごい! ヤーティンが命令を聞いたってことは、君、実は古代ミレニアル王朝の生き残りかい!?」
「い、生き残り……? 違います」
「そう? 君はこの遺跡に文様から出てきたんだ。見たことのない衣装に身を包み、ミレニアル王朝の印を引っ提げてね。そして、ヤーティンを従えることができる。これだけの条件が揃ってて、どうして違うと言えるんだい?」
「だってわたし、自分がどこから来たのか知ってます! それに、ミレニアの印……? そんなの引っ提げてない!」
「ミレニアル。あるじゃないか、ここに」
ほら、とエイハブさんが指差したのは、わたしの胸元だった。
アルバイトの面接のために、いつもよりはちょっとパリッとしたシャツと七分丈のスラックスパンツ。春のコート。それだけのはず……そう思ってエイハブさんの指先を辿る。
するとそこには、ペンダントが下がっていた。黒革の紐に下がったペンダントトップは、親指の爪くらいの大きさで、見たことのない模様が刻まれていた。
まったく気付かなかったけど、それはわたしの首に掛かっていたりする。いつの間に!?
「これですか……?」
「そう、これ」
ペンダントを指でつまんでみる。すると、ヤーティンの目線が動いた。
すーっと右に移動させる。ヤーティンの視線も追いかけるように動く。次は左に動かす。やっぱり視線は追いかけてくる。
これに、ヤーティンは反応している……?
「そうか、これに反応してるのかぁ。すごいな、貸してくれる?」
「はあ、どうぞ」
「ありがとう!」
エイハブさんは満面の笑顔を浮かべてペンダントを受け取った。すると、突然ヤーティンの首ががくりと垂れた。
エイハブさんがヤーティンに見えるようにペンダントを掲げるけれど、反応はなし。見向きどころか身動き一つしない。そういえば、荒い息遣いもダラダラの涎も止まっている?
「……○○△△、ディーン?」
と、急にエイハブさんの喋っている言葉がまったく知らない言葉になった。
何でいきなり!?
エイハブさんが何かを言うと、遠巻きでこちらを見ていた黒髪の人――ディーンというらしい――が、渋々といった表情でこちらに歩いてくる。この人も剣を片手に持っていた。
金髪の人はヤーティンを迂回して、わたしのそばに来てくれた。何事か声を掛けてくれるけど、意味はさっぱり通じない。とりあえずへらりと笑っておいた。
ペンダントはエイハブさんからディーンさんの手に渡ったけれど、ヤーティンが動く気配はない。
それにがっかりした様子を見せつつ、次にエイハブさんは「フィオン!」と叫んでから、わたしが渡したペンダントを、金髪の人――フィオンっていうのかな ――に放り投げる。フィオンさんは驚いた顔でキャッチして、何かを呟いた。意味はまったく分からないけど、エイハブさんに対して注意した、っていう感じかな。
ヤーティンはやっぱり動かない。
エイハブさんはさらにがっかりして、フィオンさんに何事かを言う。するとフィオンさんは申し訳なさそうにペンダントをわたしに差し出してきた。
わたしがペンダントを受け取った途端。ヤーティンの顔がむくりと上がった。
ヤーティンは顔を上げると、ペンダントへと視線を固定させる。荒い息遣いも涎もまた流れ出す。
「これは君が持つことで意味がある、といったところだね。やっぱり君は末裔なんじゃないか」
途端に、エイハブさんの言っている言葉の意味が分かるようになった。
このペンダント、翻訳機能がついてるんだ……すごい。絶対になくさないようにしなくちゃいけないな。大切に首にかけると、ペンダントはシャツの中に入れ込む。これで、簡単になくしたりしないとは思うけど。
「ねえ、本当のところはどうなんだい?」
「違います」
なおも聞いてくるエイハブさんに、わたしはきっぱり答える。
「ふーん……じゃあ、君は何者だい?」
「……」
途端に口籠るわたしに、ディーンさんがちゃきん、と剣を向けた。
ぎょっとして後ずさろうとしたら、横からフィオンさんがディーンさんの剣を叩き落とした。しかも剣で。何という危ないことを!
「ディーン! いきなり剣を向ける奴があるか!」
「うっせーよフィオン。おい、お嬢ちゃん。さっさと白状しとけ。どうせ逃げられねぇんだし」
「で、でも……」
ここで、さっさと説明しても良いの? だってわたし、この人達のことまったく知らない。
神様に頼まれて世界を救いに来ました、なんて言って――この人達はどういう反応をするんだろう。助けてくれる? それとも、敵になる?
まだ護衛の人とも合流できていないのに、そんな危ないことをやらかしてもいいんだろうか。
わたしはまだ何も知らない。この世界のことを。
知らないってことは、危険なことだ。ここは異世界で、彼らは異世界の人で、常識も何もかもが違う人達。
ああ、そう考えたら、今彼らとこうして一人で相対していることすら、実は怖いことなのかもしれない。
「僕はエイハブ。エイハブ・マッコルガン。レナリア王国の王立研究員だ。研究しているのは主に歴史。特に興味を持っているのは古代ミレニアル王朝だね。千年前に魔法を地上から消し去った謎の王朝だよ。知っている?」
「おい、エイハブ……」
突然始まった自己紹介に戸惑いつつも、知らないので、正直に首を横に振る。
ディーンさんが戸惑うように声を掛けようとするけれど、まるで無視。
「で、こっちの乱暴者はディーン・オーウェンね。傭兵で護衛役を頼んでる。口は悪いけど根はお人好しだから怖がらなくてもいいよ。それに、甘党だし」
ちょいちょい、と指さすのは黒髪の人だ。ディーンさんはものすごく嫌そうな顔をしたけど、何も言わなかった。
次に、とエイハブさんが指さしたのは金髪の人だ。
「彼はフィオン・デ・カディネット。騎兵だよ。知り合いのよしみで護衛と遺跡出入りの顔パス役として頼んでるんだ」
「顔パス役、って酷いなあ」
「その通りだろう? 君がいればだいたいの施設は立ち入り自由だ。何せ王族である上に聖騎兵隊に所属しているんだからね」
苦笑気味のフィオンさんに、まるで悪びれる様子のないエイハブは、で、と言ってわたしを見た。
「こちらの自己紹介はしたよ。君は?」
「……えっ?」
「君が自分の正体を話したがらないのは、僕等が何者か分からないからだろう? だから、僕は名前と大雑把だけど身分を明かしたんだ。どう? 話してくれるかい?」
「おいおいエイハブ、何悠長なことを」
「いいんだよ。力づくで物事を推し進めれば、返ってくるのは拒絶だけさ」
そんなことをあっさり答えるエイハブさんは、いい人なのかもしれない。
でもそれは、信用できる人であることにはイコールしないと、わたしは思ってる。疑いすぎなのかもしれないけど……。
「……」
「それとも、ますます話せなくなった?」
「分かりません……あの、わたし、ここの事、何も知らないから。本当なら護衛の人がついてくれるんだけど、その人達と出会えていなくて。だから、詳しく話すことが、いい事になるのか悪い事になるのか……分からないんです」
「へえ、君はずいぶんと慎重派だ。悪いことじゃないよ。それなら、今は引いておこうかな。本音を言えば、ものすごく知りたいんだけど」
「ごめんなさい」
「いいよいいよ。できたら、護衛の人と会えた後で、僕のところに来てくれると嬉しいんだけどね。僕の名前を出してくれればすぐ繋がるようにしとくから。あ、そうだ君の名前は? それも駄目かい?」
うーん……それくらいなら、いいだろうか……?
向こうは名前を名乗ってくれたのに、こっちは名乗らないままっていうのはやはり気が引けるし。
「それくらいなら、大丈夫……かな? わたし、須美遥っていいます」
「スミハル、カ? 聞いたことのない発音の名前だね」
「あ、ハルカが名前でスミは苗字……姓です。だから、名前だけならハルカっていいます」
「ふーん、ハルカ、ハルカね……よし分かった」
口の中で転がすように、何度かわたしの名前を呟いた後で。ふと思いついたようにこちらを向く。
「あ、一応聞いておくけど、パルフィスの人間ではないよね?」
「パルフィス?」
「……知らない? パルフィスを?」
「知らないです」
「おいおい、マジかよ」
ディーンさんが呆れたように腰に手を当てた。剣はもう鞘に仕舞われたようで、手には持っていない。
フィオンさんも驚いたようにわたしを見ていた。
「じゃあ、アトラニティスは?」
それも知らないので首を横に振る。何の名前だろう。
「そうか……君はもしかして、この大陸の人間じゃない? ああでも、言葉は通じるよね?」
「ペンダントが翻訳してくれてます」
「へー、すごいな。持っているだけで翻訳してくれてるんだ。ああ、大丈夫、奪ったりはしないよ。君の信用を失ったら、貴重な古代王朝への道が閉ざされてしまうからね」
さらっと笑顔で言うエイハブさんって、いい人なのか、自分の欲望に正直なだけなのか、分からない人だな……。
でも、何も喋れないわたしに無理強いはしないでくれているから、悪い人ではないのだろう。多分。
「あーところで」
ディーンさんが、呆れを滲ませた口調で言った。
「オレ達はいつまでここで足止め食らえばいいんだ? ヤーティン目の前にして気を緩めてんなよな」
「ああ、そっか。まずは研究室に戻らなくてはね。こんなに保存状態のいいヤーティンを見つけられるなんて、ものすごく幸運だよ! はやく人を呼んで運んでもらわなくちゃ」
「そうじゃなくてな?」
「いやぁ、やっとヤーティンの仕組みが解明される! 戻るのが楽しみだ! あ、ハルカ、お願いだからヤーティンが暴れないように命令しといてくれるかい? ああ、解剖はしないから大丈夫! これは魔法生物だけど、生き物でもあるんだからね! 僕はすぐに解剖するような無駄なことはしないよ」
そう言って、エイハブさんはからりと笑った。
ディーンさんががっくりと肩を落とす。フィオンさんも苦笑するけど何も突っ込まない。どうやらエイハブさんは、既にこちらの事は眼中から消えているみたい。
なるほど、夢中になると周りが見えなくなる、と他人事のように言うわけだ。自分のことは本当に見えていないんだろう。
「さあ、早くこの部屋を出なくてはね!」
この状況でそういうことを笑顔で言えるこの人、大物かもしれないなぁ、なんて思った。