1話
「なあ須美、アルバイトしない? お代は弾むよ~」
おかしな言い回しをしながら満面の笑みで目の前のイスに座ったのは、同じ学部の賀川くんだった。
お気楽極楽ニワトリ頭で有名な賀川くんは、しかし成績は悪くないし顔もわりかし整っている部類に入る。だが、いかんせん性格はパー。あっぱっぱーのパー。残念なイケメン、ともっぱら溜め息をつかれているが、当の本人はどこ吹く風。今日も元気にキャンパスライフを満喫しているようだ。
ちなみに、”須美”とはわたしの苗字だ。フルネームは”須美 遥”。
断じて目の前の男とは下の名前で呼び合うような仲ではない。
けど、高校からの知り合いだし、彼はおバカだけれど悪い人間ではないのは確かだと言える程度の付き合いはある。根っこからのお笑い体質で、実は高校時代に彼の好きな子とお近づきになれるように、恋のキューピッド役もしてあげたことがある。あえなく撃沈してたけど。まぁそりゃ、「俺のこと叱ってくれる肝っ玉な彼女になってほしい」などという、どんなMですかアンタという告白をすれば、よほどのSな女の子じゃないと頷くことはないだろう。
それから、友達はとても大切にする。不良に絡まれてた友達を助けて、あやうく退学になりかけたことがあるほどに。
そんな賀川くんだから、アルバイトどう? と言われてわたしはあっさりと「いいよ」と頷いたのだった。
それがこんな事態になるなんて。
誰が予想しようか。
目の前に広がるのは、真っ白い世界。床も壁も天井も全部白。
そんな白い世界の真ん中で、愛を叫ぶでもなく白いテーブルの傍らでわたしに満面の笑みを向けている、真っ白い服を着た白髪のお兄さんがいた。ちなみにそのお兄さん、目も銀色に近い白だ。おまけに肌も白人並みに白い。
外見は二十歳後半くらいに見えるけど、頭髪は見事なほどに真っ白い。よっぽど苦労してるんだなぁ……と同情が湧きおこる一方で。
さて、どうしてわたしはこんなところで突っ立っているんでしょうか。
と、首を傾げた。
賀川くんに、ちょっとした修理のアルバイトをしてほしいと言われた。知識はなくてもいい、とのことで気楽な気分で指定されたビルのドアを開けた。
そして――目の前にはこの真っ白い世界が広がっていたわけなんだけど。
(開けるドア間違えた?)
くるりと身体の向きを変える。が、背後にあったはずのドアはそこになかった。右を向く。そこにもない。左を向く。そこにもない。もう一度身体をくるりと回す。やはりそこにもドアはない。真っ白い世界が広がっているだけ。
何これ。どうなってるの。
「出口は塞ぎました。大丈夫、あなたに危害を加えることはありません、まずは面接をしようじゃありませんか」
心臓がばくばくし始めた頃になって、真っ白い男の人が口を開いた。
耳に心地よいテノールの響きが、とても気持ちよく感じられて、わたしは視線を男の人へと固定させる。男の人は目元に笑い皺を刻んで柔らかく微笑んだ。
その微笑みが心をほわりと暖かくさせて、わたしの心臓は急速に落ち着きを取り戻していく。
同時に、わたしの頭も中も落ち着いて行く。
「……面接、ですか」
「はい。あなたが今日ここに来たのは、アルバイトを頼まれたからでしょう? 私としては、その境界線を通ることのできたあなたを即刻採用したい次第なのですが、そのためにはまず、あなた自身の承諾を得る必要があるんですよ。なので、まずは面接、というわけなのです」
何だかよく分からないけれど、無理強いされそうな気配はなさそう、かな?
わたしは白いお兄さんが座る白いテーブルへと近付いた。
テーブルの上には白いティーカップが2つ。1つは空っぽだった。その空っぽのティーカップへ、お兄さんは白い液体を注ぐ。
「さあ、座ってください。まずは、私の自己紹介からといきましょうかね」
どうぞ、と勧められるままに白いイスに座って、同じく勧められるままにティーカップを手に取った。
少しだけ口につけると、中身は牛乳だった。周囲の景色も白、お兄さんも白、テーブルやイスも白。とりあえず白い液体なら何でも良かったのかな、と不思議な気分でわたしはお兄さんの自己紹介を聞くことにする。
牛乳の何がそんなにいいのか、お兄さんは紅茶愛好家のように香りを楽しみ味に舌鼓を打ってから、こう切り出した。
「実は私、あなたの住む世界とは別の世界の神様をやっている者なんです」
これはもしや、わたしは即効にこの場所から逃げるべきなのでは、と思える切り出し方だった。
出口、出口……はないんだったか!
わたしの動揺など露とも気付かず、目の前の自称神様のお兄さんはうっとりとした表情で説明を続けた。
「私が愛する世界は生まれて間もない幼い世界でしてね、よくよく注意していないとすぐに壊れてしまいそうな、そんな儚さがあるんですよ。おまけに、この上なく愛くるしくて、ふわふわで、ぷにぷにで」
それはまるっきり赤ん坊を褒める親の台詞ですが。ええと、世界の話だよね?
が、うっとりした表情は唐突に消える。代わりに彼の表情に現れたのは、心配でたまらないというものだった。
何この変貌っぷり。
「ところが最近、一部が壊死を始めていることに気付きました」
壊死……えし? って、体が腐るとか言う、あの壊死!?
「原因を調べようにも、その場所は世界とのつながりを断たれた場所。私には近付くことができないのです。我々神は、世界を循環する存在。流れが堰き止められてしまうと、もはや手出しが叶わない」
「……まるで血液ですね」
確か、壊死というのは火傷とか毒によって血液の流れがおかしくなって細胞だけが死んでいくことだった気がする。
わたしの言葉に、自称神様のお兄さんはなるほど、という顔をした。
「血液……そうですね、働きとしては似たようなものでしょうね。ただ、我々は世界のほんの一部とはいえこのまま大陸を死なせるわけにはいきません。直接手出しができないのなら、手出しができる誰かをその場所につかわし、原因解明と解決を依頼することにしたのです」
「……」
ん……? 手出しできる誰かをその場所につかわし? 原因解明と解決を依頼?
なんだろう、今、すごく嫌な予感がした。ものすごく嫌な予感がした。
この場所にいるのが、すごく危険な気がしてきた!
出口ないか、出口!
「そして、我々は異なる世界各地に散らばり、こうして条件を満たす者の出現を待っていたところ……」
自称神様のお兄さんは、そこで一度言葉を区切ると、じっとわたしを見つめた。
それはそれは嬉しそうな眼差しで。
「あなたが、現れてくれました」
「無理です」
「……まだ何も言っていませんが?」
「この流れで分からないわけないですよ。アルバイトの面接なんですよねこれ? 自分が直接手出しできない場所に行って、世界が壊死し始めている原因を突き止めて、颯爽と解決しろってことなんですよねこのバイト内容は!」
「はい、その通りです。頭の回転が速いんですね、助かります」
そりゃそうだろう。
ここまできて理解できないわけがない。てゆーか、理解できるように話してるでしょアンタ!
「無理です」
「ちなみに、今承諾していただけるなら、アルバイト代は現金で1億ほどとなっているのですが……」
「無理です」
「仕方がありません、プラスして、自然の理に反することでない限りの、どんな願いだって叶えます、というサービスも付けるのはどうでしょう?」
「……無理です」
「あ、一瞬迷いましたね?」
「まま、迷ってません! だって、そんなのすごく危険そうじゃないですか。どんなにお給料が良くても死んじゃったら意味がありません。なので、そういうのはもっと筋肉隆々とした強い人に頼んでください」
「ああ、それなら安心してください。あなたには鉄壁の守りを用意していますから」
「それでも無理です!」
「護衛を二人、ご用意します」
さらっとわたしの言葉を無理したね今!
というか、鉄壁の守りが護衛二人って少なすぎない!? どんなスーパーマンなのさその二人!
「本当はあなた自身に加護を与えられれば良いのですが……残念ながら、異世界人のあなたは、私の加護は受け付けないのです」
「いえ、そういう話じゃなくて」
「けれど、大丈夫です。私が用意する護衛は、かの大陸において誰よりも強く気高い者達。多少、性格に難はありますが、まあそれは愛嬌というものです」
なんですかそれ。
いやそれよりも、わたしの話を聞いてください。
「でも、やっぱりわたしには無理です。そんな重い話、とてもじゃないけれど――」
「千年、待ちました」
「え?」
「あなたが現れるのを、千年、待ったのです。異界を渡る力を持つ者は本当に数が少ない。ましてや、魔力なき世界で生きることが出来る者は、さらに少ない。どちらの素質も兼ねる者の出現を、私は千年待ちました。今、あなたに断られては、再び千年の時を待たねばならないのかもしれない。それとも、永遠に現れないかもしれない。それは――かの大陸の死を意味するのです」
自称神様のお兄さんは、そっと胸元を両手で抑えた。目じりにはうっすらと涙すら浮かばせて。
わたしは言葉に詰まった。この人はよっぽど切羽詰まっているのだろう、というのがひしひしと伝わってくる。
わたしといえば、将来の目的もなく適当に日々を過ごしているだけの大学生。このアルバイトだって、頼まれたからまあいいかと軽い気持ちで頷いただけ。
(どうしよう……)
わたしの気持ちはぐらついた。こんなに一生懸命の人の願いを、簡単に蹴ってしまって良いのだろうか。
目の前の人は、彼の愛する大陸は、今も刻々と壊死が進んでいるというのに。
それが、わたしにしかできないことで。
これを断ったら、わたしはまた適当な日々を過ごすだけ。けれど彼の愛する大陸は、死へと進んで行く。
わたしが断って、他の条件に当てはまる人が現れなければ――本当に、その大陸は死んでしまう。
それで、本当にいいの?
「あの、それは本当に、わたしにも出来るんでしょうか……」
おそるおそると尋ねた私に、自称神様のお兄さんは僅かな希望を見出したように顔を上げた。
「もちろんです。行き詰った時は私を始めとする多くの神々がサポートします。直接の手出しは出来ませんが、お助けすることはできますから」
「危険は……」
「護衛の二人は、絶対にあなたを守るでしょう」
「報酬は……」
「もちろん、サービスを含めて全額をお支払いいたしますよ」
安全が保障されて、代金もちゃんともらえるのなら。
こんなわたしでも誰かの役に立つことができるのなら。
「……分かりました。頑張ってみます」
気付くとわたしは、そう答えていた。
その瞬間。
わたしの目の前は真っ白になった。咄嗟に両腕で顔を覆うけれど、瞼の裏にはチカチカとした光の残像が残った。
「契約は成立しました。汝は我らの願いを聞き届けなければなりません」
耳に自称神様のお兄さんの声がする。
「異界の者よ。汝に我らの加護を与えることは叶いません。しかし、我らは常に願っています。我らの愛しき子らが救われることを。その救い手である汝もまた、幸いに満たされることを」
お兄さんの声はとても優しかった。だからわたしは、「はい、ありがとうございます」と小さく呟いた。
視界はまったく効かないけれど、お兄さんが微笑んだような、気がした。
「苦労をかけることと思います。どうか……我らの愛しき子らを、お願いします」
そして、光は閉じた瞼すら浸食し始めた。
痛みすら伴うほどのそのあまりに強い光に、わたしはとうとう意識を手放すことにした。