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龍馬のしっぽ

作者: 柿田博和

     龍馬のしっぽ












      柿田博和







    高知大学人文学部卒 

社団法人日本心理学会認定心理士


















「それでは三学期を控えて学年会を行います」荒川昌美は張り切っていた。       面談室に一年生の正副担任が集まった。皆一日の授業後で疲れていた。       (はあー。今日も長引きそうだは)                         伊藤由紀奈は憂鬱になった。                          「一年生の三学期は特別なことが行われます。学級委員の選任です。これは保護者も特に関心を持っているので、慎重に取り扱うように、頼みますよ」昌美は周囲を見渡した。 (学級委員ぐらい主任にとやかく言われないで自分で決めたいは……)        「選考基準は担任に任せるけど、逐次、私に相談すること。分かったはね」       それから三学期の行事について念入りに確認がされた。会議は六時過ぎまで続いた。                                          由紀奈は、学級委員の選考基準を何にするか迷った。何分、一年生なのだ。学力をもって選ぶのも一つの選択肢だ。一年生の学力といってもその水準は低く、優劣をつけるのは難しいので、これを基準するのには、少し無理があった。               学力で選ぶのは保護者に対して、説明がつきやすかったのも事実だ。学力を学習に対する態度で見るとか、学習に真剣に臨んでいるかどうかや、学習を生活の一環として組み入れているとかを総合して判断するとき、適任者は自ずと決まるものだと由紀奈は思っていた。                                       熟慮の結果、藤原信行が最適だと結論づけた。                   信行は、学級委員に選ばれたのが意外だった。正直言って、戸惑った。彼は、それほど勉強ができるタイプではなかった。担任が、唐突に選らんだのだ。           信行が学級委員に選ばれた夜、母の緑はうれしくてたまらなかった。息子を誇らしいと思った。早速、お祝いの宴を親子二人で開いた。                  (ゆき、ありがとう)                              「学級委員になって、うれしい?」                        「何か緊張する。うまくできるか心配だよ」                    「信ならきっと立派にできるはよ。頑張って」                    信行は勇気付けられた。その日の夜はなかなか寝付けなかった。色々考えると目がさえた。自分が学級委員として振る舞っている姿を想像すると、興奮してしてしまう。    信行は明かりをつけ、鞄から教科書を取り出して、明日やるところを予習した。こうでもしないと落ち着かなかった。その後、信行が床についたのは、0時をまわっていた。  この学級委員の選考が、保護者から納得がいかないと抗議がでた。信行は離別した母子家庭の子であった。                                母子家庭には、偏見があり、離別した母子家庭の子には、父親が不在だから、性格形成上に問題があるので、生徒の上に立つ学級委員には選ばれない方がいいと殆どの保護者は思った。保護者は信行を選んだ由紀奈の考えを知りたいと思った。           由紀奈も信行と同じで母子家庭で育った。ただ、信行と違うのは、由紀奈の場合は離別でなく、死別であった。                              由紀奈が中一のとき、父親は胃癌で亡くなった。                  その日は、ベッドに朝の薄日が当たっていた。薄いピンク色の壁に白いベッドの色は、死を感じさせず、見舞う人を安らいだ優しい気持ちにさせる。             由紀奈は母に連れられて、父の寝ている五0二号室の相部屋に入った。       「父さんを励ましてね」由紀奈は素直に頷いた。                  「あなた、大丈夫?ゆきが来たわよ」母の声は震えていた。              ああ」父は薄目で娘を見た。                          「目が覚めた?」                                「お父さん!」由紀奈は、その場に不釣り合いな大きな声を出してしまった。その声の大きさに彼女は恥ずかしくなった。                         「父さん、分かっているはよ」                           由紀奈は一筋の涙が出てきた。自分ができることの少なさを呪った。         由紀奈は目を開いた。しばらくあたりがぼやけて見えた。疲れているのだろう。少し居眠りをしてしまったらしい。由紀奈は、採点の続きをした。                                                      密かに学級委員に選ばれるかもしれないと期待をしていた加藤翔の母親登紀子は、保護者の中でも取り分け、学級委員の選考に納得がいかず、直接、由紀奈に会わせてもらい、学級委員を選んだ経緯を説明するように校長に求めた。岩崎雄二校長は、由紀奈を校長室に呼びだした。                                 「一体、どうなっているのかい?保護者からクレームがつくなんて……」雄二は、事なかれ主義の権化のような校長で、定年まであと一年、何事もなく、その日を迎えようとしていた。髪がほとんどなくなり、かろうじて頭の後ろに白髪がある。高血圧なのだろうかいつも顔が真っ赤で、風呂に長く入りすぎて、のぼせているような顔をしている。    「私の選んだ学級委員がご不満なら、いつでも担任をやめる覚悟ができています」由紀奈は緊張した表情で勇気を出して雄二に言った。本当は担任するのは初めてで、学級経営の難しさを肌で感じてはいたが、やりがいも感じていた。               「何も私は事を荒げるつもりはないのだよ。穏やかに学級経営が進めばそれでいい」雄二は由紀奈を宥めた。校長の声を聞きながら由紀奈は窓の外を眺めた。          今日は、小雪が舞っている。山陰地方もこれから雪が降る日が増えるのかと思うと、少しさびしい気持がした。自分の立場を理解してくれない管理職に嫌気がさした。腹が立っても、その矛先を校長に向けるのは、流石に憚れた。                「君は、この小学校に来て何年になるのかね?」雄二は、異動を仄めかす言葉を敢えて吐いて、由紀奈の心を揺さぶった。                         由紀奈は自己申告書で残留を希望していた。もう少しこの小学校で教鞭をとりたいと思っていた。そんな由紀奈の気持ちに小波が立った。                  (卑怯だ)                                    由紀奈は、悔しくて堪らなかった。いつも校長は、真綿で首を絞めるようなやり方をする。パワーハラスメントが気にならない教育界の独裁者だ。             「君はまだここにいたいんだろ?どうすればそれができるのか、よく考えてみるんだね」 雄二はなぜか好々爺の顔をして、由紀奈に優しく諭した。彼女にとって、それは、身の毛もよだつ顔と声だった。                             由紀奈はそそくさと校長室から退室した。校長室から出て教員室に向かって歩いていると、事務員が「先生お電話です」と言いに来た。                  (こんな時間の電話何てろくな電話じゃないは)                   由紀奈が電話にでると相手は登紀子だった。                   「伊藤先生、校長先生から聞かれました?」開口一番、登紀子はヒステリックで、甲高い声で言った。                                  「ええ、聞きました」由紀奈は腰を低くして応えた。                「校長先生から先ほど電話がありました。まずは電話で話すように言われましたの。先生、今回の学級委員の選考、ちょっとおかしいんじゃありません?どういう基準で選べば今回のような人選になるのか教えてください」登紀子の鼻息は荒かった。         「正しい評価の下で選んだつもりです。特定の子に配慮した訳では、決してありません」由紀奈は平然と応えた。その顔は緊張のため小刻みに震えていた。          「先生、何でも今回選ばれた子は、母子家庭の子だそうではありませんか。そんな環境の子が学級委員になるなんて、少しおかしいんじゃないかしら?」登紀子は合点がいかず、きちんと説明をして欲しかった。                         「母子家庭の子がどうのということは、私は考えていません。適任を選んだつもりです」「母子家庭の子は性格が歪むと言うじゃありませんか。父親がいて夫婦二人揃って初めて子供にとって相応しい環境が整うのです。一人じゃだめです。母親だけで育てるなんて、考えられません。何でも信行君のお父さんは、隣町にいるそうじゃありませんか。そんな環境の子を学級委員にするなって、言語道断です。決し許されるものではありません」登紀子の息はますます荒くなった。                         「今度、PTAの役員の方と一緒に話にまいります。よろしいはね」登紀子は有無を言わせぬ声で言いきった。                              「わかりました」                                「日程はこちらで決めさせていただきます。それじゃ」登紀子は一方的に電話をきった。由紀奈は、フーと息を吐いた。いつの間にか、傍には校長の顔があった。       「すごい剣幕だっただろう?わしもあの調子でやられたんだ。ありゃ、典型的なモンスターペアレントだな」校長は、自分が標的にならないと分かると生き生きとしていた。でも、その顔には疲れが浮き出ていた。                          由紀奈はそんな校長を置き去りにして、教員室に向かった。            「ああら、由紀奈さん、どうかなさったの?顔色が随分悪くてよ?」昌美の意地悪な声が、由紀奈の背後から聞こえた。彼女は由紀奈を「伊藤先生」とは、呼ばず、「由紀奈さん」と呼ぶ。上から目線の主任先輩教師だ。由紀奈は昌美の言うことが胸にぐさりとくることが多くて、苦手にしていた。無視するわけにもいかず、精一杯のにこやかな笑顔で応えた。「先生まだ、お帰りじゃありませんの?」                     「採点していて遅くなったのよ」昌美は三十代後半。未婚である。教育に命を捧げると誓ったので、結婚なんてできないといつも言っていて、そういう自分を誇りに思っているナルシシストだ。、周囲にもそう言って憚らなかった。                 由紀奈は新婚だったので、居心地の悪い相手だ。                 「あなた、何か問題を抱えているそうじゃないの?」昌美は事情を十分知ったうえで意地悪く言った。由紀奈はそれに応えることができなかった。              「教師たるもの、結婚したからといって、教育とは何か?生徒をどのようにして立派な大人になるように導くか?それを教える責務は変わらないのよ。甘いは。私からすれば甘すぎる。そんなんだから、適切な判断ができず、今回のような失態をするようになるのよ」昌美は自分の声に興奮し、鼻息を荒げた。                      由紀奈は直ぐ帰りたかったので、先輩に頭を下げ、自席についた。帰り支度も程々にして家路についた。教員駐車場から軽自動車を校門へと進ませると、二人の男の子の姿が目についた。それは信行と翔の姿だった。                      (こんなところで、遅くまで何をしているんだろう?)                由紀奈は不審に思って車窓から首を出して、「何をしているの?もう遅いから帰りなさい」と言った。                                 「分かりました。先生」信行は素直に応えたが、翔は素知ぬ顔で横を向いていた。   (この子はいつもそうだ。まともに返事をしたことがない)              由紀奈は信行の返事で自分を納得させて、車のアクセルを踏み込んだ。二人はその車が遠ざかるのを無言で見つめた。                           由紀奈は、帰宅して、夫、和夫に言った。「今日、学級委員の選び方について校長に厳しいこと言われちゃった」                            「何を言われたんだい?」和夫は優しい目で妻の顔を見た。             「私が特定の児童を依怙贔屓したと言われたの」                  「そんなことしてないんだろ?」                         「ええ……まあ」由紀奈は言葉を濁した。                      夫は妻の言動を不思議に思った。妻の姿に動揺を感じた。                                                      三学期が始まる前だった。                           「ねえ、三学期は、学級委員を選らぶことになるんでしょ。誰か決めてる?」緑は聞いた。「いいえ、まだ決めていないは。候補を三人程絞り込んだけど」           「そのなかに、信は入っているの?」                       「入っているは。だって、親友の子供なんだもの。公正に選ばなくてはいけないと思っている」                                     「期待していいのかしら?」                           「それは……」                                 「いいはよ。無理しないで」                            由紀奈はその時の会話を思い出していた。                                                            「お邪魔します」                                「おや?誰かと思えば一年のPTA役員の加藤さん」                「お久しぶりです。先生」                            「今日は何事かね」                               「実は、学級委員のことで、頭に来ていることがありますの」            「何だね」                                   「母子家庭の子が学級委員に選ばれたんです」                   「ほう、それはそれは」三島俊夫は、眉根の皺をことさら寄せてみせた。彼の政治力を表す仕草だ。                                   「こんなこと許せます、先生」登喜子は、俊夫が興味を示したと思い、口調を早めた。 「母子家庭か。あまり良い選考だとは思わないな」                 「そうでしょう。どうにかして、この学級委員を取り消したいんです」        「引きずり下ろすのか?」                            「何か良い方法あります?」                            俊夫は思案顔で天井を見上げた。天井は浸みが付いていた。ここに事務所を開いてから随分となる。                                  「ないでもないが」                               「どうするんです?」                              「罠をしかけるんじゃ」                             「えっ、罠ですか?」                              「そうだ、罠だ。一つ二つ、考えがあるじゃ。私に任せなさい。それと登喜子さんが学校に行くときはわしも一緒に行ってやろう」登紀子は少し安堵した。           やっぱり先生の所に相談に来て良かった。彼女は外に出た。冬晴れに、日が沈みかけていて眩しい。登紀子は宍道湖の夕暮れを思い出す。                   宍道湖は、日本の黄昏百選に選ばれるほど有名な観光スポットである。夕景を見に、毎年一千万人訪れる。                               僅かだが波がたつ湖面にオレンジ色の夕日が滲んで、段々辺りが静かに暗くなっていく。 夕日を湖面から見たい人が乗り込んだ白鳥遊覧船が、トントントンと小気味よい音を響かせて、陽光で茜色に染まる波を立てて進む。                    宍道湖は汽水湖で、ここで取れる魚介物で作られる「宍道湖八珍」は、島根県の名物料理である。東の湖畔に架かる宍道湖大橋から日暮れを眺める人たちは、しばしの寛ぎを感じ、一日の終わりをしみじみと実感する。                      宍道湖には嫁が島が浮かんでおり、この島と太陽が織りなす薄暮のショーは見所一杯で、見ていると時間を忘れてしまう。ここの夕日は、橙色が幾重にも連なるグラデーションで、何色もの色を染め込む織物になる。                         夕暮れの色合いは、刻一刻と変化するので、カメラをかまえて、その夕焼けを自分の シャッターチャンスで切り取るのに忙しい人もいる。そんな夕暮れを感じ彼女の気持ちは和らいだ。                                                                            その日の夕方、昌美が俊夫の家を訪ねた。                    「叔様、ちょっと聞いてください。私は一年の学年主任をしているの。一年担任の中で私が最年長だから決まったんだけど。私の言うことをちっとも聞かない先生がいるのよね。その人の取り扱いが難しくて、悩んでいるのよ」俊夫の書斎で昌美は相談した。    「ほー、教師の資質に問題があるのかもしれないな。ちょっと今度校長に言ってやろう」「ありがとう、叔父様。議員の言うことなら、いくら由紀奈先生も言うことをきくようになるわ」                                    「ほうー、そのは先生は由紀奈と言うのかい。名字はなって言うんだ?」       「伊藤。結婚しているから旧姓は田中よ」                     「田中由紀奈……?。思い出したぞ。わしはその子の世話をしたことがあるんじゃ。田中家は貧しかったが家柄は良かった。票の取りまとめをしてもらったもんじゃ」     「叔父様。よろしくお願いします」                        「ああ、分かった」言いたいことを言い終えると昌美は帰り支度を始めた。      「叔様、これで失礼するは」                           「ああ、気をつけてな」俊夫という厄介者が、古い記憶を掘り起こしていた「由紀奈か……」。                                                                            「緑、遊ぼ」いつも、決まって、ゆきが誘いに来る。朝早く来ることは緑にとって、ありがた迷惑の所もあったが、規則正しい生活を高校最後の夏休みに過ごすには助かった。  緑の家も由紀奈の家も松江市で牡丹を栽培する農家であった。春、大輪の花が咲く。観光客が多く来た。そんな農家ではあったが生活はさほど豊かではなかった。       由紀奈は高校を卒業して、大学で教員になるために勉強をしたいと父母に言ったが、無理だと言われた。彼女は、一度は諦めようとしたが、やはり教員になる夢を捨て去ることは出来なかった。                                「父さん、私、どうしても大学に行きたい」由紀奈は父に嘆願した。          父は、娘の願いを叶えるため、学費を工面しようとした。松江市議員の俊夫に頼った。彼は本人を見てから決めたいと言った。                       数日後、由紀奈は近くの居酒屋に呼び出された。二十歳になっていない自分が来る所ではないと思ったが、俊夫の言うとおりにするしかなかった。座敷に通されると、既に出来上がっている俊夫がいた。                            「まあ、ここに座りなさい」俊夫は自分の側の席を勧めた。             「いえ、私はここに」由紀奈は俊夫の間迎えに座った。               「なんじゃ、それでは話が遠すぎる。もっと近くに来なさい」命令口調であるが、呂律が回らなくなっていた。由紀奈が遅刻したので、その間、飲み続けたのだろう。だらしない顔が赤くなって、パプリカのようになっていた。                  「こちらから、行かないといけないのかね」そう言うと俊夫はくさい息を吐いて、由紀奈の側に躙り寄った。                               「ああ、近くで見るとべっぴんじゃないか」俊夫はいやらしい目で由紀奈を眺めた。その目は太ももに注がれて、じっと凝視した。                     「いい太さじゃな。しまりがあって、弾力がある」そう言いながら、太ももを触りだした。由紀奈は「いや」と言うと立ち上がって部屋の隅に逃げた。              流石に俊夫はそこまで追いすがろうとはしないで、「何だね、立ち上がって。まだ、話はこれからだぞ」俊夫は平然と言った。                      「先生、お願いします。私を大学に行かせてください」由紀奈は必死に俊夫に頼んだ。  俊夫は直ぐには応えずに、由紀奈の顔を眺めた。「金を出すか出さないかは、わしの勝手じゃ。誠意を見せてもらおうか。もう大人なんだから、わしの言うことが分かるだろう?」                                      由紀奈はこんな事を言われるような気がしてここに来るのがいやであった。どこまで許せば俊夫は満足するのだろうか?酔っ払いに節度を求めるのは無理がある。       この場をどうすれば逃れられるのか由紀奈は考えた。良い考えは浮かばなかった。すると、「お客様が見えられました」と仲居の声がした。部屋に入って来たのは緑だった。 「えっ、なぜ、ここにいるの?」緑はこの場の状況が直ぐには分からなかった。    「先生にお願いがあって、ここでお話をしていたの」由紀奈はこう言うしかなかった。俊夫は、由紀奈の次に緑を呼んでいたのをすっかり忘れていた。            (同じ案件なので、まとめて時間をとってしまった)                 俊夫は平然として言った。「さあ、知り合いなら、好都合だ、一緒に話をしてしまおう」                                         緑には年子の妹、皐がいた。藤原家も貧しかった。姉の緑は勉強が嫌いで進学する気がなかったが、皐は勉強が出来、進学を希望していた。歯科医になりたいと思っていたのだ。 大学に行く費用を借りるため、俊夫に頼った。彼は皐にも一人で来るように言ったが、皐は俊夫の酒癖の悪さを噂で聞いていたので、姉に行かせることにした。        緑は、そんな妹の考えも知らずに出かけた。店について、部屋に通されると、そこには由紀奈がいた。                                                                          登紀子が三島市議を訪ねてからしばらくして、放課後、彼女から校長に電話があった。「どういうことです?学級委員が何もしていない生徒に水をかけるなんて」相変わらず登紀子の剣幕に、校長はたじろいだ。                        「一体、どういうことですか?」                         「学級委員の藤原君が内の子に水をかけたそうではありませんか」          「えっ」校長は返答に窮し、うまい言葉がでなかった。校長が困っていると、登紀子が業を煮やして言い寄った。「校長先生聞いていますの。私は学級委員の資質のことを言いたいんです」                                   「少し時間をください。事実関係を調べてご報告します」校長は直ぐに由紀奈を校長室に呼びだした。                                  「例の学級委員。生徒に水道の水をかけたそうじゃないか。君も知っているんだろうね」「初耳です」由紀奈は水をかけるくらい一年生は、すると思っていた。些細なことで大人が子供の軽い、悪意のない悪戯を咎めることはないと思っていた。          「翔君のお母さんからの苦情だ。信行君が翔君に掃除中に水道の水をかけて、服がびしょびしょになったそうだ。これは悪戯にしては度を越していると思うが、君はどう思うかね?」                                     「そんなにひどいんですか?」由紀奈は信じられなかった。あの信行がそんなことをするなんて。何か理由があるはずだ。まず二人から話を聞こうと彼女は思った。       朝礼の後、二人を呼び出した。                         「加藤君、藤原君に水をかけられたのはいつのことなの?間違いないの?」由紀奈は二人の表情をそれぞれ直視した。「僕がふざけて翔君に水道の水をかけました」信行の声は低く、抑揚のないものだった。それが本当のことを言っている声かどうか、直ぐに由紀奈には分かった。翔は下を向いて、表情が分からないようにしていた。          「分かりました。今後は注意するように」由紀奈は二人を解放した。直ぐに校長室に出向いた。                                     「校長先生、今二人に会って来ました。信行君が悪意を持って水道の水をかけたのは事実ではありません。二人の様子から分かりました」                  「そうですか」雄二の声は素気なかった。「明日、PTA会長の三島さんがお見えになる。四時だそうだ。忙しい方だから時間厳守で校長室に来るように」           「えっ、三島先生が……」由紀奈は、狼狽した。                   登紀子が言っていたPTA役員というのは、PTA会長の三島市議であったのだ。まさか会長が直々来るなんて。由紀奈は動揺を隠すことが出来なかった。          学級委員の選考とその学級委員の今回の悪戯。三島は説明を求めてくるだろう。うまく説明ができるだろうか?由紀奈は不安になった。騒動の渦中に自分の身を置くと初めて、事の重大さが見えてきた。思ったより事態は深刻なのかもしれない。         (どうしよう)                                  由紀奈は肝を据え明日に備えることにした。                   「いやー、校長。久しぶりに来たが、学校はいいもんだね」              上機嫌の俊夫は、校長室のソファの中央にどっしりと腰を落とした。直ぐ、煙草に火をつけようとして、テーブルに灰皿がないのに気が付き、雄二に鋭い目で睨んだ。「ここは禁煙かね」                                   「そんなことは、ございません」雄二はすぐに事務職員に灰皿を持ってこさせた。    俊夫は由紀奈を一瞥後、校長を見て、言葉に威光が宿らせた。「時に、校長、最近この学校はちと問題があるようだな?どうかね」                    「学級委員の件でしょうか?確かに改めることはあると思います。担任にもそのことを言っているところです」雄二は俊夫の来校が、学級委員の件であることを知っていてわざと由紀奈にプレッシャーをかけるため言った。                     由紀奈はじっとして、校長の話を聞いていた。彼女は時より俊夫の顔をのぞき見た。相変わらず髭を伸ばして、居丈高に威厳を漂わせていた。               「担任のすることに、いちいち注文をつけることはしておりません。学年主任に対してもそのように申しております。でも、今回の件はそうはいかないと思っています。明らかに学級委員の選考ミスです。初歩的な誤りをしております。学年主任にも相談していないと言うことです。ですが、本人は十分反省していると思います。」俊夫は、雄二が話を進めるのを遮って、由紀奈の方を見て言った。「伊藤先生、久しぶりじゃな」由紀奈は何も言えなかった。                                  「お知り合いですか?先生」雄二は間延びした声で言った。             「まあ、昔を知っているだけじゃが……」由紀奈は俊夫が何を言い出すか気が気でなかった。                                      「どうでしょう、学級委員をもう一度選びなおしたら」登紀子は話を元に戻すため、背筋を伸ばして由紀奈を横目で見た。                          俊夫は言った。「選挙はどうじゃろう。民主主義の原点を教えるのに、早すぎることはない」                                     「それはいい。どうだろう伊藤先生。選挙にしたら。学級委員になりたいものを人気投票で選ぶんだ」雄二は俊夫に首を大きく縦に振って見せた。              「一年生に選挙は……」由紀奈は自分の意見を述べようとしたがうまく口に出来なかった。「あら、そうかしら、小学一年生もしっかり自分の意見を持ていますわよ。選挙にしたっていいわよね」登紀子は、由紀奈の言葉を遮って、校長に、管理職として彼女に同意させるように求めた。                                「よし、決まりだ。選挙だ。人気投票で決めてください。これは職務命令です。伊藤先生、よろしくお願いしますよ」由紀奈は俊夫の思わぬ出現で言いたいことも言えずに、なす術もなく黙認せざるを得なかった。                         「良かった。短時間で終わって。わしは今からまた会合があるんだ」俊夫は由紀奈に一瞥を投げた。彼は、そそくさと校長室を出て行った。後から登紀子は俊夫の背中に向かって、「ありがとうございました」と言った。それほど俊夫の身のこなしは早かった。    「やれやれ、これで落ち着いて、ここの椅子に座ることができると言うもんだよ」校長は、一件落着した学級委員の選考方法に安堵感を持った。                「新しい学級委員を選ぶのは少し時間をいただけませんか?」由紀奈は雄二に頼み込んだ。「なぜだね?」校長は訝しんだ。                          信行君に反省の期間をあげたいのです」                     「どれくらいだ?」                               「一週間はどうでしょう?」                           「確かに、それくらいは猶予を与える必要があるかもしれないな」校長にしては珍しく温和な言葉を吐いた。                                学級委員の投票は、一週間後になった。                                                              登紀子は帰宅する道すがら三島の自宅に寄った。                 「先生。うまくいきました。信行君を学級委員から引きずり下ろすことに成功しました」登喜子は嬉々として俊夫の顔を見た。                       「次は、選挙対策じゃ。わしの得意分野だ。まあ、任せておきなさい」登喜子は俊夫を頼もしく思った。                                  学級委員を選挙で決めることが決まった次の日、信行が翔に水を掛けたので、学級委員のバッジを外させる必要があった。由紀奈は重い心を引きずって、教室には入った。  「信行君、朝礼が終わったら先生のところまで来てちょうだい」よわよわしい先生の声だが、きっぱりした意思を感じさせ、信行はくるべきものがきたと思った。       「伊藤先生!」信行が教員室に向かって走ってきた。由紀奈は信行の目を見た。その目は一心に由紀奈の表情の変化を逃すまいとしていた。                 「先生、僕は、学級委員になんかならない方が、よかったんだよね?」信行は、漆黒の穴の淵から、その穴を覗き込むような表情をしていた。                 由紀奈はその生徒のまじめな眼差しを真っすぐに受け止めることができなかった。居心地の悪い、針の筵に座って、じっと我慢する自分の姿を想像した。彼女は、きっと、保護者には、落ち着かない眼をした自分を、自信のない教師に見えたことだろうと思うと、情けなくなった。                                  由紀奈は声を潜めた。「新しい学級委員が決まるまで、学級委員のバッジを机の引き出しの中に入れておきなさい」                           「でも先生、今すぐですか?」                          「そうよ。校長先生に言われたの。ごめんね」信行はそれ以上何も言えなかった。ただ、学級委員のバッジを直ぐ外すことになって、悔しい思いがあふれた。         (あの夜言われたことを今言ようか?)                       それをすると母さんの悲しい顔を見ることになる。決してそんなことはできない。   信行は揺れる心の置き場所に惑った。伊藤先生はそれだけ言うと、ゆっくり教員室の中に入って行った。信行は、その後を追いかけたい衝動を抑えるのが辛かった。彼の学級委員の在任期間は数日だった。                            翌日の朝礼のとき、由紀奈は生徒達の前で学級委員を選び直すことを告げた。生徒たちは思わぬ先生の言動に戸惑い、狼狽した様子だった。                「どうして、藤原君ではいけないのですか?」当然の疑問の声を上げる者がいた。青森和美だ。女子の学級委員だった。                          「先生は、こう考えたの。皆の学級委員は皆で決めるのがいいんじゃないかって」翔は机の下の先生が見えないところで、ガッツポーズをした。               (これで俺が学級委員になるチャンスがきたぞ)                                                           学級委員投票の前日、加藤家には多数の生徒が集まった。翔の誕生会だ。学級で呼べる生徒はみんな招待した。この日に集まったのは半数以上だった。誕生日ケーキの蝋燭を吹き消し、ジュースで乾杯した。                          「皆さん、うち翔は学級ではどうかしら。人気あるの?」登紀子が意味慎重な目で周囲を見渡した。                                   「ないと思います」水盛慎太郎は先陣を切った。                  「そうなの?」                                 「誕生会で言わなければいけないことなんですか?」                (小生意気な子供。いやに挑発的だは?)                     「一つの話題にしたまでよ。他意はないのよ」登紀子は明日の学級委員の投票で翔を選んでもらうために用意した文房具セットの渡し方を思案することになった。       (聞き方がまずかったのかしら?もっと遠回しに言わないといけなかったんだは)    登紀子は慎太郎がじゃまだった。この子がこんな事を言い出すから、周りの雰囲気が変わってしまった。                                (あの子を帰らせる方法はないかしら……)                    「やあ、遅れてすまん」三島市議がやってきた。                  「もう話は終わったのかね」                           「今ちょうど、その話をしようとしているところでした」               俊夫の絶妙なタイミングに登紀子は、感謝した。                  三島市議が居間に入ると慎太郎がいた。「おや、君は水盛さんのご子息じゃないか。お父さんは元気かね?」                              「あら、お知り合いですの?」                          「今度大阪から来られた弁護士のご子息だ」                    「あら、そうなんですか」登紀子は、大げさな声を出した。             「先生ちょっと」登紀子は三島を台所に呼び出した。                「先生に教えていただいた方法で事を進めようとしたら、慎太郎君が邪魔なのよ。文房具セットを手渡すタイミングがなくなってしまって」                 「慎太郎を先に帰せばいいんだろ?私に任せなさい。うまくやるから」俊夫は鞄から封筒を取り出し、自分の議会報告書を入れて居間に引きかえした。            「ところで慎太郎君。お父さんに手渡してもらいたいものがあるんだ。急いで届けてくれないか?」                                   「何ですか?」                                 「大事な書類だ。お父さんに頼まれていたんだよ」                 「急ぎなんですね」                               「そうだ。お楽しみのところすまないが、頼むよ。お父さんによろしくと言ってくれないか」                                      「分かりました」慎太郎は、封筒を三島市議からもらい、そそくさと帰っていった。  「さあこれでいいだろう。登紀子さん始めようか」                  登紀子は、少し緊張した面持ちで言った。「みなさん、翔が日頃からお世話になっています。私は皆さんに感謝しているのよ。その感謝の意味を込めて、贈り物をしたいと思います。快く受け取ってね。これからも翔をよろしく」登紀子は暗に明日の投票のことを頼んだ。それがどのくらい通じたか分からないが……。                 慎太郎は三島市議から浮けとった書類を父親の健太郎に手渡した。「何だ、議会報告書じゃないか。なぜこの時期にこれを渡すのだろうか?意味がわからん」         健太郎は不審に思った。「でも、大事な書類って言ってたよ」           「これが大事な書類とは思えないがな。お前を家の帰すために手渡したのではないか?」「でも、なんで僕を帰そうと思ったんだろう?」                  「お前にいては困ることがあったのかも知れないな」                 自分がいては困ることか。誕生会で僕は途中から招かれざる客になったのかもしれない。 翔が人気があるかどうかをいやに気にしていた。                 「僕が帰ってから何かあったのかも知れない」                   「誕生日の途中から三島さんが来たんだろう?市議が誕生会に来るなんて、ちょっと考えられないことだぞ」                               「何があったか、和美さんに聞いてみよう」                     翌日、慎太郎は放課後、和美を校舎裏に呼び出した」               「なあに、こんな所に呼び出して」                        「翔君の誕生会があったじゃない。僕は途中で帰ったけど、その後何かなかった?」  「えっ」和美は狼狽した。次の言葉が中々出なかった。               「別に何もなかったはよ」和美は平常心を装った。                  慎太郎は和美の顔色の変化を見逃さなかった。ここはかわいそうだけど、問い詰めるしかないなと思った。                               「あったはずだよ。三島市議が来たくらいだから。三島市議は何の用で来たんだい?」 「翔君の家と親しいらしいはよ。近くに来たから翔君の誕生日のお祝いに来たんじゃないかしら」和美は中々口をわろうとはしなかた。                    慎太郎は和美に真相を言えない理由があるのではないかと思った。                                                  和美の父、太郎は俊夫の秘書だった。彼は常々俊夫のあくどい仕事のやり方を見てきた。 流石に表立ってこのことを言うのは憚れたが、あまりのきたないやり方に辟易していた。 家で晩酌をすると、ついこのことを思い出し、愚痴を妻、幸子に言うこともあった。  そんな会話をそれとはなしに和美は聞いてきた。子供ながらに俊夫に悪いイメージを自分の心に植え付け、彼を嫌悪した。                        「うちの和美が翔君の誕生会に行ってプレゼントをもらって帰ったと言いました。先生、賄賂とは言えませんが、誕生会に来た人にプレゼントを渡すのはおかしくありませんか?うち娘も当惑しています。このままプレゼントをもらったままで良いのか悩んでいます。この状況だと学級委員の選挙に影響すると思います。それでも良いのでしょうか?」   和美の父は俊夫の目を見ないようにして言った。                 「なーに、大丈夫じゃよ。所詮、小学校の学級委員。賄賂性は全くない」        俊夫は自信たっぷりと言った。                         「でも、先生。子供がプレゼントを持って帰って、保護者が不審に思わないでしょうか?」「そんなことを気にしているのか?たかが文房具だ。そこまで思う者はいないだろう」  俊夫は全く気にしなかった。実際選挙でも賄賂を使う俊夫にとって、それは日常茶飯事のことであった。                                                                        「みなさん、今から配る紙に学級委員になって欲しい人を男子一名、書いてください。正直な気持ちで書いてくださいね」                          学級委員を選ぶ日が来た。由紀奈は生徒がどんな判定を下すか、興味を持っていた。  自分は信行が適任だと思った。生徒はどうだろう。所謂、人気者を学級委員に選ぶのか?それとも彼らにはまだ分からないリーダーとしての資質を持つ生徒を選ぶことができるのか?由紀奈は不安を感じた。                            生徒に任せてだいじょうぶなのか?由紀奈は徒労に終わることを祈った。      「開票します」 慎太郎はませた言葉を使ったので由紀奈は驚いた。          投開票の役目を慎太郎がした。彼が投票箱から投票用紙を机に出した。黒板に名前と得票数を正の字で書いていった。                          「加藤君十八票、藤原君十八票、僕が、九票。加藤君と藤原君が同じ票です」周囲がざわついた。                                    「静かに」先生の声にも効果はなかった。                      意外に翔の票が多いので、不思議に思う生徒もいたが、なるほどと納得する生徒もいた。「加藤君と藤原君とで決選投票するはね。水森君と書いた人は加藤君か藤原君に投票しなさい」生徒達は騒ぎ立てた。                            由紀奈も動揺を隠せなかった。投票の結果は、加藤二十七票、藤原十八票となった。由紀奈は予想したより翔の票が多いのが不思議だった。                「学級委員は、加藤君に決まりました」慎太郎は訥々と言った。            彼はなぜ翔が学級委員に選ばれらたのか不思議だった。翔と行動をともにすることの多い山本修次に今回の学級委員選挙について聞いてみた。               「修次君。今回、学級委員に翔君がなったの、どう思う?」             「えっ、何かおかしいことでもあるのかい」                    「投票で翔君があんなに票をもらうのが不思議なんだ。翔君、何を考えているか分からない生徒だし、自分から意見を言うタイプでもないから、みんなを引っ張っていくことができるかな?」                                  「大丈夫だよ。先生もついていることだし」                    「学級委員、信行君じゃいけなっかたのかな?」                  「何ともいえないね。僕これから塾なんだ。じゃ」                  修次はそそくさと昇降口向かった。                        慎太郎は和美と修次の挙動を思いかえしてみた。何か隠しているように思えた。   「あなたが学級委員よ、みんなの手本になるように頑張って」選挙が終わって、由紀奈は、翔を励ました。                                 「うん」翔は相変わらず目を伏せていた。彼は辛うじて、それだけを言うのが精一杯だった。                                                                               修次の母、博子は俊夫の愛人だった。彼女はクラブでは働いていて、そこに客としてやって来たのが俊夫だった。                             最初は単なる客とホステスとの関係だったが、博子が勉強の出来ない息子の相談をしているうちに、親しくなった。同伴もしてくれるようになった。博子はホステスとしてぎりぎりの年齢だったので、俊夫が贔屓にしてくれるのが嬉しかった。若いホステスが俊夫の周りを囲むと嫉妬の虫が沸いてきて、その日は焦れったい気分を味わった。      「ねえ、今度また、大阪に連れて行ってくれない?」博子は甘えた声で言った。    「そうだな。スケジュールで空いた日があれば連れて行ってやろう」俊夫は片手を博子の太ももにあてて、摩りながら言った。                                                                翔は家に帰り、母にその日、学級委員になったことを報告した。          「やったはね!三島先生に相談してよかったは。先生のアドバイスが効いたのね。あなた、あの日ちゃんと信行君に言ったでしょうね」                    「ああ、言ったよ。」翔は鼻の下を擦った。「おまえの母さんが離婚したのは、お父さんに彼女ができたからだろう」翔は厳しい眼差しで信行を見た。            「そうよくやったは」登美子は喜々として息子の顔を直視した。           「部活が終わった後、僕は信行君を呼び出したんだ」                「いったい何だい」と信行は言った。                       「おまえの母ちゃんが離婚したのは父さんが彼女を作ったからだそうじゃないか。うちの母さんが言っていたから確かだぞ」                        「えっ?」信行は言葉を失った。                         「有名な話だそうじゃないか」翔は追い打ちを掛けた。               「この話クラスのみんなに言ってもいいかい?」翔は信行の心を弄んだ。       「それだけはみんなに言わないでくれ」信行は哀願した。              「それなら僕に水をかけられたことにして、由紀奈先生に本当かどうか聞かれたら『本当です』と答えるんだ」翔はニヤリと笑った。                    「あいつ、納得できない顔をしていたけど母親の秘密をみんなに知られたくないので渋々僕に水をかけたことにすることを承諾したんだ」翔は喜々として母親にそのときの様子を細説した。                                   (人の弱みにつけいるなんて。なんて卑怯なんだろう。)               信行は、翔の顔を見て憎しみを感じた。彼は翔の話をそれ以上聞きたくなかった。  (うちの父さんに彼女ができて母さんと父さんが別れたなんて……)         「おまえはそんな男の子供なんだぞ。学級委員には相応しくないだろう」 翔の声は冷淡なだった。                                    信行は、「そうかもしれない」とポツリと呟いた。                 信行は、学校から帰って母親に学級委員について事の顛末を話した。        「かあさん、話があるんだ」                           「なんだい」緑は洗濯物をたたみながら答えた。                  「母さんと父さんの離婚の原因は、父さんがよそに女の人ができたからなの?」     緑は言葉を失った。                              (誰がそんな大人の話をしたのだろうか?許せないプライバシーの侵害だ)       緑は憤りを感じ「誰から聞いたの」と言うのが精一杯だった。           「翔君が言ったんだ。僕はショックだった。気持ちが離れたから、しばらく離れて暮らすと言ったよね?それは嘘だったの?」                       「大人の話よ。子供には理解できないは」緑の目は潤んでいた。            その顔を見て、信行はそれ以上追求することはやめにした。緑の夫、泰行が離婚を言い出したのは、緑が信行を身ごもっているときだった。実家に帰っている間に、関係をもつ相手ができた。                                  それは緑の妹の皐だった。皐は歯科医だった。泰行は歯が痛くなり、皐の歯科医院で受診した。義理の兄を間近に見ることが今まであまりなかったが、こうして何度も見ると、自分のタイプだと思った。姉が実家にいることを良いことにして、二人は食事を一緒にする仲になった。                                 「泰之さん。姉が実家に帰って、何かと不便じゃない?」              「そうだね。洗濯、掃除、炊事。大変と言えば大変だね」              「私の家に来ない?」                              「えっ、行っていいの?」                            「いいわよ。でも部屋片づいていないはよ」                    「そんなことどうでも良いよ。助かる」泰行も皐を意識している自分を感じていたので、この話に乗ってしまった。それから二人は深い関係になった。泰行が緑に離婚を切り出すのは、信行が生まれて直ぐだった。                                                                 信行は、二年生になっても学級委員になれなかった。由紀奈が信行を学級委員にすることを躊躇しただけではなく、学年主任の昌美の影響もあった。彼女の厳しい管理の中で自分の主張を言うことは憚れた。                           三年生になって、組み替えがあり、信行は昌美の受け持つクラスになった。受け持ちが昌美になって、緑は信行の評価がどうなるか気になった。               二年生の時、クラスの主立った生徒が学級委員になる中で、自分の息子だけが、なれないので緑は不満を持っていた。                          「みなさん。一番最初にしないといけないことは、何かしら?」            三年生になった初めての朝礼で昌美は唐突に言った。生徒は互いに目を見つめ合いながら、「きっとあのことだ」と昌美の言葉の真意を推し量った。            「みなさん、もう分かっていると思うけど、学級委員を決めないといけないの。どうやって選ぼうかしら」昌美の言葉が終わるか終わらないときに、慎太郎が言った。     「選挙でしょ。先生」したり顔の慎太郎だった。                  (本当に生意気な子)                              「選挙で決めるのはいいけど、今まで学級委員になったことがある人は、遠慮してもらえないかしら」                                  「賛成」大きな声を出して直ぐに賛成したのは、修次だった。彼は努力が報われないタイプで、塾に通っているが成績はふるわなかった。                  (そうね。あなたは、学級委員には縁がないものね)                「みんなはどうかしら?」                            「先生が学級委員に相応しい生徒をあげて、立候補させてはどうですか」慎太郎が進言した。                                      「そうね。それもいいかもね」昌美は、学級委員なっていない生徒で、学級委員になってもいい者を頭の中で考えた。                           「男子は、信行君。慎太郎君、それに、修次君でどうかしら?」           「ええ?修次?」みんなの不満の声がクラス中に響いた。              「そうよ。彼は努力家なの。そこを見込んで、選んだは」              (ひとりぐらい、外れをいれた方がおもしろいは)                 「僕でいいんですか?」信行は学級委員にいい印象を持っていないので、不安そうに昌美に尋ねた。                                   「そうよ。あなたはそろそろ学級委員になってもいい頃よ」昌美の言葉をそのまま素直に受け取っていいのか信行は悩んだ。                        「先生。僕を選んでいただいてありがとうございます」慎太郎は慇懃に礼を言った。  「先生、信行君は一年の三学期に学級委員をやっています」              修次は、学級委員の候補になって気が大きくなったのか、尊大なことを言い出した。 「信行君は、途中で学級委員を辞めさせられたけど、十分本人は反省しているのよ。もう許してあげてもいいんじゃない。みなさん、どう思う?」               和美は「いいんじゃ、ないかしら。あれからずいぶん経っているもの」と言った。  「一回不適正とされた人を学級委員の候補にするのはいけないことだと思います」修次は候補が少ないほど自分が学級委員になる可能性が増えるのではないかと姑息なことを言った。                                      「外の皆さんはどう思うかしら?」                        「僕も候補に入れてください」翔は、気怠そうに言った。              「あなた、一年の三学期にしたじゃないの」                    「あれは途中からです。初めからはやっていないのだから、学級委員の候補になる資格があると思います」                                (あつかましいのね)                              「それでは、翔君も入れて四人で投票しましょう」昌美は学級委員の候補が決まって安堵した。「和美さん、開票の係、お願いね」                      和美は黙礼した。                                開票の結果、信行が過半数を占めた。                      (あら、簡単に決まっちゃたのね)                         昌美は拍子抜けした。慎太郎の票が伸びないのが不思議であった。勉強は信行より出来るし、リーダーシップもあると昌美は思っていた。何か生徒の間に蟠りがあるのかもしれない。                                     「それじゃ、三年生一学期の学級委員は信行君にしてもらうは。今度はいたずらをして学級委員のバッジを取り上げられないようにしてください」              (こんどこそ、何事にも屈しないぞ)                        信行は決意を新たにした。帰宅した信行は、学級委員になったことを母に報告した。 「よかったね。でも気を許しちゃいけないよ。また、誰かに学級委員のバッジを持って行かれないようにしなくちゃ」                           「わかってる」                                  信行が学級委員になってから、昌美の態度が変わった。何かに付け信行の方を持つようになった。                                   「いいこと。信行君は内のクラスのリーダーなんだから、信行君の言うことをよく聞いてチームワークで頑張りましょうね」                        (何だよ。いつも、いつも、信行君、信行君。耳にタコができる)           修次はおもしろくなかった。学級委員の投票もだんとつの最下位で、彼の面目は見事につぶれた。彼に面目があるとするならば……。                    慎太郎は勉強が出来て小生意気なので、昌美は好きにはなれなかった。その点、信行は勉強は慎太郎ほどではないが、素直な性格だった。昌美はいつしか信行を溺愛するようになった。                                     元来、昌美は子供が好きだった。良縁に恵まれず、独身だが、本当は結婚を夢見ていた。 三十路を過ぎ独身なのは、教師に過大な価値を見いだすことによって、自分の年齢を正当化しようとしていた。                              算数の時間に修次が中々答えが分からないので、昌美はイライラしてきた。     「こんな問題が直ぐ分からないようでは、島根大学附属中学校には入れないはよ」   「そんな」密かに附中に入りたいと思っていた修次は血相を変えた。         「うそよ」昌美はオーバーに言って、胸を張り下目使いで、修次を見た。       「誰か、修次君に教えてあげられる人いないかしら?」クラス中、自分のことが忙しくて、修次に教える時間はなかった。                          「慎太郎君、どう、やってくれない?」                      「僕は教えることが出来ません」                         「どうして?」                                 「教えたことがありません。教えるのは先生の仕事でしょ」相変わらずの慎太郎の言い方に昌美はうんざりした。                             「分かったは。誰も教える人はいないのね?でも教える経験は将来役立つと先生は思うのよ。残念だは。このことが伝わらなくて……」                   「先生、僕が教えても良いですよ」満を持して信行が言った。            「信行君ありがとう。でも無理をしているようなら、いいはよ」昌美は、今になってこの子はなぜ教える役を引き受ける気になったのか疑問に思った。             信行は、担任に気に入られ、自分が学級委員として適任であると思ってもらいたかった。最初から手を上げると露骨に先生に取り入るように見えるので、様子を伺っていた。  「大丈夫です。先生の話を聞いて、頑張ってみようかなっていう気持ちになりました」 彼は白々しいことを言った。                           「そう、がんばってね。先生は期待してます」昌美は、自分の言葉が信行に受け入れられてテンションが上がった。                            「みなさん、信行さんは立派な行動を今ここでしようとしています。流石、学級委員ね。見習うようにね」昌美に鼻息が荒くなって、興奮してきた。鼓動が早くなる。      クラス中で「なんでだよ」という気持ちが渦巻いた。そんな空気をよそに昌美は優しい目で修次に算数を教えている信行を見ていた。                    一日の仕事を終えて昌美は叔父に電話をした。                  「叔父様、附属中学校に入れたい子がいるんだけど、いつ頃から受験勉強させたらいいのかしら?」                                   「早いほうがいいな。一年あれば十分だろう」                   「六年生からでいいわけ?」                           「ああすまん。附属小学校からの場合だった」                   「附属小学校から附属中学校はエスカレーター式で、誰でも入学できるんじゃないの?」「昔は、そうだった。今はきちんと入試をするそうだ」               「じゃあ、うちのような小さい田舎の小学校はいつから勉強したらいいのかしら?」  「えらい、意気込みじゃな。附中に入れたい何か特別な子でもいるのか?」      「そうなの」昌美はなぜ信行が気に入ったのか冷静に考えてみた。先輩を敬う気のない生意気な由紀奈が最初に選んだ学級委員の信行。なぜ私は母子家庭の子の見方になっているのか?出来ることがあるなら進んでしようとしているのか?考えれば考えるほど自分の考えがまとまらなかった。                             「そう、叔父様の知っている子よ。たいしたことではないけど。母親に相談されて困ってしまって」昌美は嘘をついた。                          「誰じゃ」厳しい叔父の言葉に昌美は信行のことを語った。              俊夫も母子家庭の子に偏見をもっていた。                    「私も最初はそう思ったのよ。でも、実際、彼の行動を見ていると、素直さがとてもすばらしいの。私、感心しちゃった。だから、何とかして附属中学校に入れたいのよ」   「熱心なことだな。まあ、小さな小学校から合格するには、受験勉強は早く始めないとな」「いつからが良いのかしら」                           「五年生までに六年生までの勉強を終えて、六年生の一年間は受験勉強にあてるんじゃ。附属小学校もそうしているそうだ」                        「そんなことしているの?」                           「確かな筋の情報じゃよ」俊夫は得意げに髭をさすった。               翌日の放課後、昌美は信行を教員室に呼び出した。                「あなた?附属中学校に行く気ないの?進学校よ。将来、お医者さんになりたいと『将来の夢』という作文で書いていたでしょう?」                    「僕の家の隣が病院だから、医者に淡い憧れを持っていただけです」         「でも、実現するといいわよね」                         「それはそうですけど。夢は夢です」                       「医者になる近道は附中に入ることよ。考えておいてね。うちの叔父、議員しているの。相談にきっと乗ってくれるは」                          「どこの議員をしているんですか?」                       「松江市よ。三島俊夫っていうのよ。お母さんもきっと知っているは」         そこに、突然、「先生。僕には勧めないんですか?」と言う声が昌美の背後から聞こえた。先ほどからそこに立って二人の会話を聞いていたのだ。慎太郎だった。       昌美は「しまった」と思った。聞かれてはいけない依怙贔屓の現場を見られてしまったのだ。そこはベテランの教師、昌美だった。対処の仕方が絶妙だった。        「あら、水盛君。何かご用?」                          「僕には附中、勧めないんですか?」                       「順番よ。水盛君は勉強が出来るから、信行君の後に話をしようと思っていたのよ」  「ふーん。そうですか。僕は勉強できますからね」                  そこは、勉強が出来ても三年生である。昌美のいい加減な説明で納得してしまった。 (何よ、この子。勉強ができることを自慢にするんじゃないはよ)          「ええっと、先生、掃除終わりました」                      「あら、掃除の時間、もう終わったの」                       慎太郎は何も言わずにその場を離れた。教員室から廊下を出てクラスに向かうとき、修次に会った。                                  「お前こんなところで何をしているんだ?」                    「荒川先生に掃除が終わった報告をしに行くんだ」修次は当たり前の事を言う慎太郎の顔をのぞき込んだ。                                「先生は、信行と附中の話をしていたぞ」                     「附中?」                                   「附中に行くことを勧めていたんだ」                       「お前も勧められたのか?」                           「いや、俺は勧められていない」                         「なぜ、信行は勧められるんだ?勉強の出来る君が勧められなくて」         「あいつはお気に入りだからな。特別なんだよ」                  「くそ、面白くない」修次は顔を歪めた。それを見た慎太郎は、軽蔑の表情をした。  (俺には関係ない。先生勧められなくても、附中に行くことを決めているんだから)                                          「今日は信行さんに先生の代わりをしてもらいます」                「何でですか?」クラス中が苦情の声を出した?                  「信行さんの教えかたがすばらしいの。みんな見本にして欲しいの」         「また、信行か」修次は不満の声を漏らした。                    彼は、隣の席の翔に小声で言った。「信行の奴、むかつくな」           「本当だよ。むかつく」翔は修次に応えた。                    「それをそうと、最近テレビ何見てる?」翔は、教壇に立つ信行を忌ましそうに見ながら言った。                                    「コント55号」                                「ああ、『あんたなんか、無視』か」                       「あれ面白いな」                                「そうだな。確かにおもしろい」                          彼らは、一緒に「あんたなんか、無視」と少し大きめの声で言ってみた。      「気持ちいいな。修次」                             「ほんとだ気持ちいい」修次は日頃から信行の先生役に嫌気がさし、卑屈な生活を強いられているので、ストレスをため込んでいた。それは少なからず、信行の修次に対する学習指導の性だった。                                 翔と修次は同じ団地に住んでいるので幼稚園からの友達だった。だから、気があった。 後ろの席から慎太郎が、「コント55号って、おもしろいか?」と、軽蔑するように言った。                                     「何が好きか自由だろう」翔は、慎一郎を睨んだ。                 「おいこれ、信行に向かってやらないか?」修次は言った。             「おおいいな、やろうぜ。『あんたなんか、無視』」翔は大きな声を出した。     「ほらそこ、大きな声を出さない。信行さんが説明する黒板を見なさい」昌美は大きな声で忌々しそうに注意した。                             翔と修次の悪ふざけが始まった。わざわざ、信行の所まで来て、「あんたなんか、無視」とやって見せるのである。初めは気にしていない信行であったが、度重なると、不快な気分になった。                                   もっとやっかいなことは、それがクラス中の男子に蔓延したことであった。みんなで唱和されると流石に堪えられなくなった。                       最後には一部の女子まで一緒に言う始末であった。そういうときは、和美が「かわいそうじゃない」と言ってくれた。それで「あんたなんか、無視」が終わるとは思えなかった。 翔と修次は信行へのいじめをエスカレートさせていった。信行はじっと耐えた。心の支えは和美と慎太郎だけだった。                          「気にするなよ。気にするともっと言われるぞ」                  「そうよ、気にしちゃだめ」二人の慰めの言葉も耳には入らなかった。         いつ終わるともしれないいじめは陰湿になった。言葉によるいじめだけでなく、椅子の上に押しピンを置いたり、給食の時間に自分たちが当番のとき、わざと信行の給食のおかずをよそわなかったりした。                            信行は夜眠れなくなった。その日に学校で受けたいじめの記憶が頭の中でグルグル回って信行を眠らさないようにした。いじめは集団からの疎外感を感じさせた。先生役が重荷になった。夜が眠れなくなると、昼の間眠くなり、隙が出来るののかいじめの機会を増やすことになった。                                 いじめがいじめを増幅させ、信行の思考能力を麻痺させた。生きるのがいやになった。どうしたら死ねるか本当に考えるようになるまで、追い込まれた。髪の毛に白髪ができた。 そんな時、和美が誕生日のお祝いをするので家に来ないかと誘ってくれた。信行は喜んで行くことにした。慎太郎も行くそうだ。二人でプレゼントの相談をした。女の子も好みがあるので、無難な花束にした。                         「来てくれて、ありがとう」和美は一張羅の洋服を着ていた。            「おめでとう」二人は言葉を揃えて言った。慎太郎がプレゼントを和美に渡した。信行はそれが自分のプレゼントでもあると思っていた。                   和美は信行も別にプレゼントがあると思った。いくら待っても信行はプレゼントを出す気配がなかった。和美は信行がプレゼントを忘れてきたと思った。          「今日は従姉妹の百合恵ちゃんが来ているの」                   「初めまして、和田百合恵です。よろしく」 背の高く、年齢の割には、コケティシュな感じの女の子だった。                              「百合恵ちゃんは、附小の四年生なの」                      「学校の勉強難しい?」慎太郎は興味を持って聞いてきた。             「ううん、そうでもないわよ」                          「そうなんだ」慎太郎は言葉通りにはとらなかったが、優しい表情の彼女が一目で好きになった。                                     昼御飯は、にぎり鮨だった。信行は初めて山葵入りのにぎりを食べた。ツンと来る辛みに大人の味を感じた。誕生日会はあっという間に終わった。             「先生には、まいったよ。また、あくどいことを企み始めたんだ」           太郎は、和美の誕生会がまだ終わっていないのを知らずに大きな声で妻に言った。  「ちょっと。今、和美のお友達が来ているの。静かにしゃべって」          「まだ、終わっていなかったな。昼飯、まだなんだ」                 太郎は、頭を掻いて、自分の軽率さを恥じた。                  「市議、また何かやり出したの?」                        「そうなんだ。あの人は、あれから離れないね。病気だよ」              秘書は、ほとほと参った顔をして、苦笑した。                  「また、賄賂攻撃さ。附属小学校で学級委員の選挙があって、誕生会を利用して、プレゼントを渡したんだ。全くいつものやり方さ。進歩がないよ。まんねりだ」        太郎はハーと息を吐いた。トイレの方からカチリという音がした。二人が気づかないトイレ口で慎太郎がこの話を聞いていたのだ。                    (賄賂って、あのとき翔の家でもあたんだ。すると、あの選挙、もしかしすると全て市議が企てたものではないか?信行君が翔に水をかけたのも本当のことではなかったかもしれない)                                      慎太郎はなぜ翔が学級委員になったのか分かった気がした。でもなぜ伊藤先生は不正を許したのか疑問だった。何か市議に弱みを握られていたのではないか?慎太郎は正義感から由紀奈を問い詰めようと思った。                        「あら、トイレだったの」幸子は驚いて言った。                  (まさか、聞かれたんじゃないかしら)                       慎太郎は平然として、二人の前を通り過ぎた。別に変わった様子はなかった。    (大丈夫ね)                                   幸子は太郎に目配せした。                           「口は災いの元。注意しなくては」太郎はしばし反省する顔をして見せた。彼は場の雰囲気を読むのが下手だった。市議に度々注意されていた。それでも秘書として勤まるのは、彼の持ち前の誠実さと実直さの性である。                      二つとも俊夫には持ち合わせていなかった。それで、太郎を重宝し、長年仕えさせた。「今日はありがとうね」和美は信行の方を見ていった。               「楽しい時間になったよ」慎太郎は和美を一瞥してから、百合恵の方を向いて言った。  二人が帰った言った後、幸子は言った。「あなたが好きなのはどっちなの?」    「プレゼント忘れた方」                             「変わった子ね。でも、和が好きになるのが、分かる気がする。彼、あなたのこと信頼しているは。目を見るとよく分かる」                        「そうね、信行君、真面目で一途な所があるから好きなの。でも、みんなにいじめられているんだよ。かわいそうで」                           「そう」                                    「附属のいじめは悪質よ。見てられないは」百合恵は附中も地方の小学校と同じだと思った。                                      「あら、そうなの」幸子は驚いた。附属にもいじめがあるのが不思議だった。                                              数日後、慎太郎は教員室に由紀奈を訪ねた。                   「先生、お話があります。ちょっと来てもらえませんか」慎太郎真剣な顔を見て、由紀奈はただならぬ気配を感じた。                           (なんだろう、担任を外れてから、随分経つのに)                  帰宅して誰もいなくなった昇降口で慎太郎は言った。「先生、一年三学期に選挙をしましたよね。あれ不正があったんじゃありませんか?」                「選挙?あーあれ、不正なんかありませんよ。今頃になって何を言い出すと思ったら」 「翔が信行君に水をかけたの嘘ではないんですか?」                「そんなことありません。誰がそんなこと言っているの?」             「三島先生が僕に教えてくれました」慎太郎は由紀奈に罠をかけた。少し良心の呵責を感じながら。                                    由紀奈は顔色を変えた。「三島市議が?どうして、今頃?」            「やっぱり、そうなんですね。でも何故です。不正な選挙を許すなんて。先生らしくない」 由紀奈は言葉を失った。俊夫との関係を小学生に説明するのは難しかった。     「先生と三島先生は古くからの付き合いなのよ。いろいろあって、先生は三島先生の言うことを守らなければいけなくなったの。これで許してくれない?」          「小学生には理解できないことですか?」                     「大人の話よ。君が成人したら話してあげるは」                   由紀奈の言葉に慎太郎は嵌められた気がしたが、これ以上責めるのも気が引けた。  「翔君のお母さんはそこまでして、学級委員にさせたかったんですね」        「あの人、学級委員に翔君をすることに執念を持っていたから」           「何故、そこまでして、学級委員に拘っていたんですか?」             「登紀子さん学級委員どころか委員とつくものに無縁だったそうよ。だから、息子を学級委員にしたかったのよ」                             「なんか身につまされる話ですね」                        「そうよね。もう昔のこと。忘れてくれない?」                   由紀奈は慎太郎に虫の良いことを言った。                    (成人したら、話してくれると言ったくせに)                   慎太郎はこれ以上追求するのは止めようと思った。追求しても誰も幸せにならないこと感じた。彼の寛容な部分が顔を覗かせた。                       いじめは五年生なるまで続いた。五年生のときクラス替えがあり、信行は翔と修次とは別のクラスになった。                               五年生の担任は、前の学校で不祥事を起こした先生だった。彼の名は橋本正樹と言った。 短気なことで有名で、平田小学校で言うことを聞かないガキ大将の頬を叩いたのだ。  直ぐ教育委員会で取り上げられ、二ヶ月の謹慎となった。正樹は流石に自分を振り返り、落ち度がなかったか問いかけたが、悪いところを見つけることはできなかった。 外か見ると暴力だが、教育の一環でやっているので、咎められることはないと思った。 初めてクラスの生徒全員に「『私は噛めば噛むほど味がでる』教師である」と言った。生徒にはうまく伝わらなかったが、子供からその話を聞いた保護者は、それが鯣であると分かり、中々魅力のある先生であると思った。 五月に、修学旅行があった。行き先は広島。宮島と原爆ドームに行った。班編制して、バスに乗り込んで出かけたが、信行の班はいつまでも集合できなくて、規律が守れなかった。業を煮やした正樹は、班長の信行に「早くみんなを集まらせて」と厳しい声で注意した。それでも一向に、集まる気配がなかった。「信行、ちょっと来い」正樹は信行を呼んだ。「お前の言うことをちっとも奴らは聞かないが、何故だ?」                                    正樹は信行がいじめの対象になっていることをそれほど重大だと思っていなかった。ただ単にふざけていると思っていた。今回の様子を見ると、事態は重大な状況であると言えた。正樹は集まろうとしない連中に大声を出した。                 「おまえら、いい加減にしろ。みんな出発しようと待っているんだ」正樹の剣幕に今まで言うことを聞かなかった者が集まりだした。                    「信行、お前が班長とか、みんなを仕切るときは、先生に相談しろ。分かったな」   「ありがとうございます」信行は、正樹は頼りになる先生だと思った。         保護者にはそれほど頼りにならない出来事がが知れ渡った。「私は噛めば噛むほど苦くなる、教師」であったはずだ。それは正露丸になった。掃除の時間のときだった。   「修次、おまえ、わざと窓ガラスを割ったそうだな。本当か?」           「翔君とふざけていて割れてしまいました」修次はそう言うが早いか下を向いてぺろりと舌をだした。                                  「おまえ、反省してないな」正樹は修次の顔を凝視し、顔を強張らせた。「ぴしゃ」と大きな音がした。正樹は修次の頬を叩いた。やられたと、みんなは思った。        日頃から悪ふざけの多い修次なので叩かれても仕方ないと思った。しばらくすると、修次が鼻血を出した。カッターシャツに血が付いた。正樹は事も無げに周囲の生徒に言った。「さあ、みんな、席について」                          正樹は、生徒を席につかすと、修次にカッターシャツを脱ぐように言った。もうふざけて窓ガラスを割るようなことはしないと約束しなさい」そう言いながら、正樹は血の付いた箇所を水道の水で洗った。                                                                    「あら早いのね。ちょっと、カッターシャツ汚れているじゃない」           修次が帰宅すると、博子は息子の様子が変だと思って、見回した。         「学校で何かあったの?」                            「別に」                                    「じゃあ、何でシャツ汚れているのよ」とうとう、本当の事を言うしかない状況に追い込まれた。先生が一方的に悪くなく、そもそも自分たちが悪戯して、叱られたのだ。    先生も暴力を使いたくて使った訳ではないことを修次は分かっていた。でも事実は事実として話す必要があった。                            「悪戯して、殴られたんだ」修次は叩かれたと言うべき所を敢えて殴られたと言った。自分にも責任があるのだが、そこまでしなくてもいいと思ったので、殴ったと言った。  「えっ、拳で殴られたの?何をして殴られたの?よっぽど酷いことをしたのね?」   「翔君とふざけていて、窓ガラスが割れたんだ」                  「えっ、そんなことで、殴ったの?本当なら許せないは。やり過ぎよ。」博子は頭にきて、このことを誰かに相談したいと思った。                      (今日は同伴がない日で時間の余裕があるので、ゆっくり話をしよう)         博子は三島事務所に俊夫を訪ねた。夕方にここに来ることは滅多にない。俊夫と会うのはクラブかホテルのバーが多かった。                       「こんばんは、俊夫さんいらっしゃる?」太郎が奥からやってきた。         「ああ、山本様。お珍しい、どうかされましたか?」                「俊夫さんは外出中なの?」                           「奥で、書類に目を通しております。どうぞ、奥へ」                 おお、博子、どうしたことだ」俊夫は老眼鏡の上から博子を見た。         「ちょっと、聞いてよ。酷いのよ」                        「どうしたんだ、忙しいことだな」                        「担任がうちの子を殴ったのよ」                         「ほお、暴力教師か。まだそんな先生はいたのか」俊夫は関心を示した。        何を暢気に言っているのよ。教育に暴力は厳禁でしょ」博子は怒りを俊夫にぶつけた。「確かにそうだ。で、教師の名前は?」                      「橋本正樹っ言うの。前任校でも同じような不始末をやっているそうよ」       「あいつか。あいつなら知っている。わしが松江市教育委員会と平田市教育委員会の間に入って、辞めなくても良いようにしてやったんだ。また、同じことをするとはな。困ったものだ」「あんなやつ、辞めさせれば良かったのよ。何で辞めさせなかったの?」   「実は、正樹の父親は、有限会社佐藤農機の代表取締役社長でな、まとまった選挙の票が取れるんじゃ。だから、正樹の父親が息子の不祥事を何とかしてくれと言われて、わしが動いたんだ」                                  「そういうことだったんだ。じゃ、今回も先生の暴力見逃すしかないわけ?」     「それがな人生、何が起こるか分からないもので、昨今の農業離れで農機具の売り上げが伸びなくなったそうじゃ。負債が大きく経営に響いて、大手の株式会社住友農機に吸収合併することになったんだ」                            「じゃあ、もう用なしなの?」                          「正樹の父親には用はないな」俊夫は冷淡に笑った。                「なら、橋本先生、何とかしてやっつけてよ。あなたなら出来るでしょう?あなたの政治力で」博子は科を作って俊夫に媚びた。                      「分かった。やってみよう」俊夫は余裕で胸をトンと叩いて見せた。          それからの俊夫の仕事は早かった。直ぐに松江市教育委員会に出向いて、正樹の行いを処分するように直訴した。松江市教育委員会の職員は市議の言うことに逆割らず、正樹の処分を検討した。流石に免職にするには処分が厳しすぎるので、僻地に赴任させることにした。                                      この異動で正樹の暴力行動は過大に保護者に伝わり、異動先の小学校は教育委員会に異議を申し立てた。受け入れを拒否したのだ。仕方がなく、松江市教育委員会は正樹を教育委員会付けの事務職員とした。彼の仕事は、教員とは無縁の事務職員の事務補助となった。                                         翔と修次とクラスが別れ、信行に対するいじめはなくなると思ったが、五年生になっても、いじめは引き続いて行われた。                         執拗ないじめに信行は嫌気が差した。信行は、地元の校区にある東出雲中学校にみんなと一緒に進学する気がなくなった。                        いじめは続いていたし、なにより、東出雲中学校は坊主頭にする必要があった。坊主にするのは抵抗があったので、松江市にあるる附属中学校を受験することにした。      それから、信行の受験勉強が始まった。六年生の二学期からの試験勉強なので、時間がなかった。昌美の言うとおり早くから附属中学の受験を考えるべきであったと後悔した。 午前一時。                                  「まだ、やるの?体、大丈夫?」緑は心配そうに息子の頑張りを励ました。そんな時、電話があった。                                  (こんな夜中に誰からだろう。また、やっかいな用事ではないのかしら)        電話は三島市議からだった。要件は信行の受験のことだ。             (どこから聞きつけたのだろう)                          緑は不安になった。俊夫には生活が苦しいとき、お金を工面してもらったことがあったが、もう全て返済していた。                           「息子さんが附属中学に入りたいと言っているそうだが、ほんとかね?」俊夫は間延びしたた声でだるそうに言った。随分酔っている様子だ。                 ええ、受験させようと思っています」緑はきっぱり言った。俊夫の用件がはっきりしないうちは軽々しくこちらの事情を言うのは憚れた。                 「受験勉強の方は順調かね?」遅く勉強を始めたので、一抹の不安が頭をもたげた。  「ええ何とか。頑張っています。でも、なにぶん、勉強を始めたのが遅かったので、合格するか不安です」つい、正直に近況を言ってしまった。               「そうだろう、附中に入るのは大変なんだ」                    「そうなんですね。認識が甘かったは、本当にこのまま受験勉強をさせて良いのかしら。無駄なことをさせているのではないかと思っています」               「そこでじゃ、相談したいことがあるのだが。事務所の方に来ないかね」       「えっ、相談って、何ですの?」                         「電話では言えない。緑さん、信行君にとって大事な話なんだ。かまわんだろう」   (はあ、大事な話なんですね?)                          緑は少し躊躇したが、信行の受験のことで頭が一杯になっていたので、つい俊夫の言うことに従うことにした。                             「分かりました。伺います。いつがよろしいですか?」               「明日の五時はどうじゃ。それならわしも体が空いている」             「分かりました。五時ですね」                           電話が終わったら、手のひらに汗をかいていた。相談の内容に見当がつかなかった。  信行にとって大事な話だと俊夫は言った。行って話を聞かなければ。緑は憂鬱になりながらも、ここはしっかりしなければと思った。                     次の日の昼、由紀奈から電話があった。「どうしてる?」            「ゆき、ちょうど良かったは。信の受験のことで、三島さんに会わなればならなくなったの」                                      「三島さんに会うつもりなの?どう言うつもり?」                  由紀奈は緑の真意を計りかねていた。                      (三島がどう言う男か知っているはずだ。息子の受験で自分を見失っているのに違いない。どうしたら目を覚ませることが出来るのか?)                   「今度は私が一緒に行ってあげる。あのときは、あなたが後から来てくれて、助かったもの」                                       由紀奈は俊夫に太ももを触れたのを思い出し、身震した。             「なんだ、二人で来たのか?」俊夫は不機嫌そうに言った。             「お久しぶりです。先生」 由紀奈は緑が側にいて、心強かったので、強い調子で言えた。 藤原さん。本気で息子を附中に入れたいのなら、一人で来るべきだったよ。残念だな」俊夫はそそくさと奥の書斎に行ってしまった。                   「すみません。先生はあんな性格ですから」 太郎は頭を下げた。           由紀奈は緑を守れたが、それが良かったのか疑問に思った。            (俊夫は何か良い考えがあったのかもしれない。それを聞けなくした自分は正しかったのか?)                                      由紀奈は戸惑いを感じ、「緑、ごめんね」と由紀奈。               「ううん。いいのよ。きっとこの方がいいは。私はそう思う」由紀奈は救われた。帰りは二人とも沈黙して歩いた。                                                                    「もしもし、青森さんのお宅ですか?」電話には太郎がでた。            「先日は、お誕生日に招待していただいてありがとうございます。息子も喜んでいます。でも、誕生日のプレゼントを持っていかせませんでした。大変失礼しました」     「そんな。気にしないでください。子供の誕生会です。一緒に祝っていただけるだけでいいんです。それより、信行君は附中を受験するんですか?私は和美も附中に入れたいんです。和美は信行君のことが好きみたいです。仲良くしてやってください」       「先日、三島先生を訪ねたんですが、先生を怒らせてしまいました。あれで良かったのか今でも苦悶しています先生が言われた大事な話って何だったんだろうと考えると夜も眠れなくて」                                    「それは附中の件です。先生には附中にコネがあるんですよ。それをちらつかせて、保護者から裏金を取るんです」                            「でも、コネは確かなんですか?」                        「さあ、どうですか?秘書の私が言うのも何ですが、三島はああいう性格ですから」  「あんまり、あてにならないのかしら?」                     「まあ、全然役に立たないと言うことではありませんが……」            「溺れる者は藁をも掴むじゃないけど、頼っても良さそうですね」          「まあ、そうですね」                               太郎は受話器を持つ手を変えて微苦笑を浮かべた。和美は父親が珍しく電話をしているので、不思議に思って二階から下を伺っていた。                   どうも、信行の母からの電話だと分かった。三島の名前と附中のことが聞こえた。何か不穏な空気を感じた。和美は学校で信行に「あなたのお母さん、三島に騙されているかもしれない」と言った。                              「えっ。どういうこと?」                            「三島に附中に入る方法を教えてもらおうと思っているのよ」            「そんな方法あるの?」                             「分からない。でもパパの話の様子だと満更嘘でもないみたいだし」         「僕、荒川先生に聞いてみるよ。先生なら何か知っているかもしれない。前、附中に入るには、三島市議に相談すると良いと言っていたんだ」                「そう。でも、深入りしないでね。大人の世界って怖いはよ。パパ、三島の秘書をしているんだけど、随分汚いことをさせられているって言っていた」             信行は、昌美に相談することにした。放課後教員室に昌美を訪ねた。        「あら、めずらしい。元気だったの?あなた附中に行くことを決めたそうね。もっと早く決めれば良かったのに。ちょっと、残念ね。でも君なら合格できるは頑張って」    「うちの母が三島先生に附中に入るためのアドバイスをしてもらうって言っているんですけど、三島先生、附中について、よくご存じなんですか?」              信行は昌美に探りを入れた。                          「そうよ。熟知しているは」                           「三島先生、信用して大丈夫なんですか?」                    「何よ、私の叔父を馬鹿にするの?許せないは」                   昌美は折角信行を好きになったのに、それが無駄に終わるのかと意気消沈するとともに怒りをあらわにした。                              「いや、そういう意味でなく、先生の持つ情報が今でも正しいかと思って」      「それなら、大丈夫よ。叔父は常に最新の情報を仕入れているは」信行は、昌美の俊夫の評価が高いのに驚いた。                             「今日、教え子に、叔父様の悪口言われちゃった。頭に来る」            「ほう、誰じゃ、そいつは?」                          「信行よ」                                    叔父様が信用できるか聞いてくるの」                      「まあ、そういう奴は、ほっとっけば良い」                    「太郎、わしが附中の情報を持っていることを多言していないだろうな?」      「もちろんです。先生の金づるを引き抜くようなことは絶対しません」太郎は口の中で舌を出した。                                                                          「ねえ、二人で大阪の来るの久しぶりね」                     「そうだな。中々時間がとれないんじゃ。俊夫は自慢の髭を撫でた。ホテル屋上階のバーのクラシック音楽は、頭から足下にかけて流れるように触れ、響いて行った。      大きなスピーカーがカウンターの天井の左右にあった。酔いが心地よく回る。薄暗い場所で音楽とカクテルを楽しむと、ただ二人、生身の男と女に変わる。         「こうしていると疲れがとれるな」                        「そうね」                                    博子は珍しく和服を着ている。さっきわざわざ着替えに行った。しばらくしてから俊夫の元に返ってきた和服姿の博子を見て、俊夫は惚れ直した。             「それはそうと、うちの子、附中に入れたいんだけど、何とかならない?」      (また、附中か、もう辟易だ)                          「どうして、誰も附中に子供を入らせたいと思うんじゃ。わしは理解できん」     「附中って、魅力よ。入ってしまえば、高校、大学と無試験で入れるもの」      「何を寝言言っているんだ。高校も大学もちゃんと試験があるぞ」          「えっ、そうなの?知らなかった。でも中学からだと有利なんでしょ」        「まあそうだが、結構、勘違いしている奴がいるんじゃ。まあ、それでこっちも色々あるんだが」                                    「何よ、色々って?」                              「まあ、政治的なことじゃ」俊夫はバーテンダーの方を見て、ダイキリのお代わりをした。「修次をお願いするは」                             「分かった。何とかしてみよう。とあえず五十万、用意しておけ」          「えっ、随分かかるのね」                            「安いもんだよ。中学入試としては。まだ、高い私立中学もあるぞ」         「うん、用意する」                      松江小学校からは信行、慎太郎、翔、修次、和美が附中を受験した。                                                  二月上旬、受験日は大雪警報が出ていた「こんな日に受験なんて、ついてないはね」緑は受験生の保護者の控え室から窓越しに空を見上げながら言った。雪は大降りになっていた。「ほんとそうよね」                              試験は全科目、個人面接、親子面談があり、親子総動員の試験だった。        三月上旬、試験結果が発表された。信行は帰宅するために、踏切を渡ろうとするとき、電車の警報機の音が「ゴウカク、ゴウカク」と言っているように聞こえた。玄関の郵便ポストに「合格おめでとう」という紙が貼ってあった。                 試験の結果、信行、慎太郎、和美が合格。翔、修次は不合格だった。         その日は合格を祝った。                            「三島先生、どう言うこと。博子は取り乱して事務所にやってきた。太郎の制止を聞かずに奥の間に入って来た。                              まあまあ、落ちついて、私の話を聞きなさい。試験というものは、時の運でも合格、不合格が決まるものなんじゃ。今回修次君が不合格になったのも運がなかったからじゃ。決して実力がなかった訳ではないんだよ」                      「私の五十万円はどうなりますの?返していただけるのかしら?」          「それは、無理じゃ。全て附中の理事長に渡してしまっておる。もう、手元にはないんじゃ」                                      「返してただけないんじゃ、このことを公にしてもよろしいんですね?」        博子は、鋭い眼光で松江市議を睨んだ。これには俊夫もたじろいで、「何とかする。少し時間をくれ」と空々しいいい訳をした。                     「数日は、待つけど、もしそのときまでに五十万円、耳を揃えて返してくれないなら、新聞社に投稿するわよ。分かった」言いたいことを言い終わると直ぐに博子は帰って行った。「やれやれ、疲れることだ。合格しそうな子の親から、裏金をもらうのは良いが、受かりそうもない子の親からもらうと後が大変だ 今回ももらった裏金全額を金庫に入れていたから無事に済んだものの、親しいからと油断して理事長に口利きすると不合格になったときとんでもない目にあってしまう。これからは控えた方が良いかもしれない」俊夫は独りごちた。                                    「先生、お茶が入りました」                           「君の子供はどうだったのだね」                         「はあ、何とか合格できました」                         「誰かに口利きしてもらったのかね?」                       いいえ、そんな……」                             「良い口利き先があれば教えてくれ。小者でも良いからな」俊夫の口調は厳しいものだった。                                      。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  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