入れ替えの村
帰るな。思い出すな。振り返るな。
その年の春、関東高校サッカー大会で優勝した霧ヶ丘高校サッカー部は、一夜にしてサッカー界の寵児となった。
特に、大地翔と柘植隼斗の名は全国に轟いた。しかし、隼斗だけは異様にその栄光を拒んだ。
インタビューを避け、写真を嫌い、表彰式の舞台ですら顔を伏せていた。事情を尋ねる翔に、彼は静かに語った。
「俺は、有名になってはいけない人間なんだ」
隼斗の故郷は、岐阜の山奥にひっそりと残る集落だった。
かつて村の中心部は巨大ダムに沈み、残された者たちは古い因習を守りながら細々と生きているという。
彼は「顔と名を売らない」ことを絶対条件に、村を出てサッカーを学んだのだと言った。
村には禁忌がある。禁忌に触れた者は「静養舎」と呼ばれる施設に送られ、再教育を受ける。
そこで元の人間は消え、別の「人間」が代わりに戻ってくる。村人たちは何事もなかったかのようにその「新しい」者を迎え入れ、生活を続ける。
「だから俺は、もう二度とこの場所には戻れない。」
そう言い残し、隼斗は一人で故郷へ帰ろうとした。だが翔はそれを許さなかった。
「馬鹿な話だ。お前は村の英雄だろ。一緒に行くよ」
隼斗は頑なに拒んだが、親友の熱意にわずかに揺れた。もしかしたら――
そんな淡い期待を抱き、二人は山深い集落へと向かった。
夕暮れの集落は、霧に包まれ、まるで水底から這い上がってきたように湿っていた。
隼斗の実家は、古びた木造の平屋だった。彼は震える手で引き戸を開け、掠れた声で言った。
「ただいま」
玄関に現れたのは、彼の両親だった。母は涙を浮かべ、父は穏やかな笑みを浮かべて隼斗を抱きしめた。
隼斗はバッグを落とした。腕の中で、無表情のまま、ゆっくりと翔の方を向いた。
「…送ってくれてありがとう。お前はもう、帰れ」
「どうしたんだ、隼斗?」
隼斗は笑った。
だがその笑みは、まるで別の誰かが無理やり浮かべたような、不自然な形だった。
「親父、母さん。翔を村はずれまで送ってくるよ。」
「ああ、それがいい。」
両親は揃って頷いた。隼斗は翔を連れ、集落の外れまで歩いた。
途中、何度も「今までありがとう」と繰り返した。別れの言葉のように――
翔は笑いながら言った。
「なんだよ、優しそうな両親じゃないか。お前の思い違いだろ」
その瞬間、隼斗の顔から一切の表情が消えた。
「お前、ここから走れ」
「…は?」
「バスは二時間に一本だ。追いつかれる。ひたすら走って、県境まで行け」
翔が呆然としていると、隼斗は低い、押し殺した声で続けた。
「あの二人は、俺の親じゃない。見たこともない人間だ」
霧が濃くなり、集落の灯りが遠くでぼんやりと揺れた。
「いいか、全部忘れろ。俺のことも、村のことも、何もかも忘れて、二度と思い出せないようにしてくれ」
隼斗はそう言い、踵を返した。背中が闇に溶けていく。それが、柘植隼斗との最後の別れだった。
大地翔は必死に走った。背後から、誰かの足音が近づいてくる気がして、何度も振り返った。
振り返るたび、集落の灯りは一つずつ消え、まるで村そのものが水底に沈んでいくように見えた。
彼は県境のバス停に辿り着き、息を切らして座り込んだ。だが、その夜から不思議なことが起こり始めた。
新聞やネットの記事から、柘植隼斗の名前が徐々に消えていった。大会の記録写真では、隼斗の顔がぼやけ、名前が読み取れなくなっていた。
チームメイトたちも「そんな奴、いたっけ?」と首を傾げるようになった。
そして時折、深夜の電話に、知らない番号から声がかかる。
『…ひさしぶり』
それは、確かに隼斗の声だった。しかし、どこか違う。静養舎で磨かれたような、滑らかで、感情の欠落した声。
翔は今も走り続けている。忘れようとすればするほど、記憶は鮮明になり、背後に足音を感じる。
村はまだ、彼を待っているのかもしれない。新しい「大地翔」として、迎え入れるために。
読んで頂き有り難う御座います。




