3 父の思い
家の小さな庭には朝日が射し込み、冷え込んだ草花を少しずつながらも暖かく包んでいる。そんなおだやかな一日の始まりを感じる鳴沢家。
「夏帆、キャッチボールでもやるか?」
そう言いながらリビングに入って来た父。
「えっ? 今日土曜日だよ。コーチしに行かなくていいの?」
満天の星の下、大和、猛と話をしてから一週間。いつもなら野球部の練習へ行く父なのに、この日は夏帆のグローブと自分用のキャッチャーミット、そして硬式ボールを手にしながら朝日のような笑顔を見せていた。
父の思惑はこうだ。
野球に対して距離を置くようになってそれなりの時間がたった。しばらくぶりに硬式ボールを見た夏帆の気持は高ぶるか否か。
大和や猛始め野球部員たちの思いは、夏帆の気持ちをどちらに向かせるのか。今後の夏帆の野球人生を決める賭けのような思いだ。
「うん、いいよ」
以外にもあっさりと返事をして笑顔を見せる夏帆に、逆に拍子抜けさえ感じる父だったけれど、まずはひと安心。
「そ、そうか。それじゃ、行くか」
そして、小さいころからボクと夏帆と父の三人でキャッチボールをやっていた公園に来た。ついこの前、大和、猛と話しをした公園だ。
「久し振りだな、こうしてキャッチボールするのは」
「うん」
「寒いからな、しっかりウォーミングアップしろよ」
「うん」
公園の端に沿って植えてある数本の高い木々。その脇でいつものように一球一球を丁寧に投げて、徐々に勢いをつけていく夏帆。
そして充分に時間をかけたウォーミングアップを終え、昔、父が勝手に付けた十八、四四メートルの印の所まで距離を縮めた。
ピッチングの勘をとりもどせているかと心配する父をよそに、夏帆は平然と投球練習に入っていく。
そして夏帆の本気のピッチング、低いサイドスローからのジャイロボール。
バシッ!
「オーケー!」
そして得意のフレる球。
バシッ!
「ナイスボール!」
今の夏帆のピッチングに対して父はホッとしている。数週間ボールを握らなかった時間はあったけれども以前の夏帆の球筋にもどっているからだ。つまり、夏帆の気持ちは落ち着いているということになる。
それを確信した父は、勢いに乗じて突っ込んだ言葉を放ってみた。
「アイツらの気持ちに応えてやらなくていいのか?」
夏帆の投球は変わらず、コントロール抜群の変幻自在に放られる変化球。
バシッ!
「よーし、いいブレーキだ!」
父からの問いにも投球が乱れることはない、いつもの夏帆だ。
「いろいろあるようだけど、みんな、夏帆と一緒に野球がやりたいんだよ。みんなを信じてみたら?」
父の言葉を聞いているのかいないのか、父としては前向きな答えを期待したいところだけれど、ここでせかしては逆効果になってしまうのも怖い。
これ以上突っ込むような話はやめて、無難な言葉をかけながら、それでも一時間ほど続いたキャッチボール。夏帆の肩や背中からは、白い湯気となって熱気が舞い上がっている。
父の心配とはうらはらに、何のしがらみもなく、ただ純粋に好きな自分の野球を、本当に楽しいだけの時間を過ごせた気がしている夏帆だ。
「だいぶ投げたな。そろそろ上がるか」
「うん」
この状況に父は、第一関門を突破したような心持ちになり、とりあえず満足している。そして夏帆は、とても爽やかな表情で家に帰って来た。
「ただいまぁ」
「おかえり、楽しかった?」
奥の部屋からは、家事仕事にいそしむ母の声が届く。
「うん。かなり久々って感じ。もう何ヶ月もボールを握ってなかったみたい」
「そう。楽しかったみたいでよかったわ」
「汗、流してくるね」
夏帆はシャワーを浴び、父は家の庭の植え込みの枝切り作業を始めた。滝岡高校野球部のコーチを引き受けてからは、なかなか手をかけられなくてボサボサに伸びている庭木の剪定、父の役割りである。
「あーー、気持ちよかった。たまにはキャッチボールもいいもんだね」
誰かに話しかけているのか独り言なのか、汗を流してさっぱりした夏帆は上下白のスエット姿でリビングに入り、腕まくりをしながらソファーに腰を下ろした。
「もう、お父さんったら、ミット置きっぱなしで!」
ソファーの端に置かれたキャッチャーミット。洗い髪をバスタオルで拭きながら公園でのキャッチボールを思い出している夏帆は、またもや独り言のようにつぶやいている。
「お兄ちゃん、今ね、お父さんとキャッチボールしてきたよ、公園で」
夏帆はボクを見るわけでもなく、ボクからの返事を期待するわけでもなく、いつものように僕に語りかける独り言だ。
「あー、楽しかったぁー」
バスタオルを首にかけ、ソファーに背をもたれてリラックスする夏帆。
「今度お兄ちゃんも公園に行こうよ、キャッチボールしよう」
自分のセリフを話し終えるタイミングで、何の気なしにボクに目を向けた夏帆。
「えっ? お兄ちゃん!」
身を乗り出しながら二重まぶたで切れ長の目を真ん丸に見開く先には、最近では見ることのなくなっていたボクの姿が!
「お父さんお母さん、お兄ちゃんが!」
突然の大きな声に、奥の部屋から母がリビングを覗き、庭からは吐き出しの窓を大きく開けて父が顔を見せた。
「お兄ちゃんがどうした?」
父母が、そして改めて見る夏帆の目に映るボクの姿は、テレビの前に座るいつもの姿だった。
「あれっ……」
「どうしたの、夏帆?」
「今、お兄ちゃん、ボールを握ってて!」
「光輝がボールを? 見間違いじゃないのか?」
「そんなことないよお父さん。だって、ほら!」
夏帆の指差す先には、確かにボクの手からこぼれ落ちたようにも見える硬式ボール。フローシングの床の上に無造作に転がっていた。
「いやいや……さっき帰って来てソファーにキャッチャーミットを置いたときに、たまたまこぼれ落ちてそこに転がったんだよ」
そっけない、というよりは違っていたときのショックを考えて出た父の言葉かもしれない。
「見間違いなんかじゃないよ。お兄ちゃんの症状回復は、やっぱり野球なんだよ。ねっ、お兄ちゃん!」
いや、そう言われても。ボクも、今そこに転がるボールを握っていたのかはわからないんだ……ゴメン夏帆。
そのころ、滝岡高校野球部は秋晴れの続く天候を見越して、少しずつ練習試合を行うようになっていた。夏帆のことは良きにつけ悪きにつけ話題の中心にはあったけれど、相手チームには適当な理由を付けて夏帆の出場はなしにしていた。
それが功を奏したのか、不安だった投手陣も父の指導と選手の努力とが噛み合い、良い成果を期待することができつつある。
「コーチ、自分の蹴り足の膝に力が入っていないような気がするんです……」
「オマエは今までむりに膝を入れていた。それが足を置くつま先を少し前側にしたことで、自然に膝が入るようになったんだ。その分余計な力がいらなくなったってことだ。それが物足りなく感じているんだろう」
「なるほどです。ということは今の膝の使い方でいいということですね?」
「そうだ。その証に球の走りが違うだろう? ピッチャーとしてのキーポイントになる、低目のストレートの伸びがよくなっている」
「ハイ!」
父は基礎練習を重要視した指導をする。
「基本なくして応用なし。応用を正しく行うためには基本を徹底すること。今、自分を評価したときに、基礎がうまくできているか!」
父の口癖である。
そしてこのころ、父は投手バッテリーコーチから、総合アドバイザーという立場で指導をするようになっていた。
「コーチ、自分のバッティングなのですが、ダウンスイングを意識して後ろにバットを残すよりも、教えてもらったように打点ポイントまで素早くバットを出してから体全体でフルスイングしていく。その意識で打つとスムーズにバットが出ますし飛距離も伸びました!」
「そうだな。見てわかるくらいに打球速度が上がっている。後ろは小さく前を思い切り。それが、むだな力が抜けてスイングの速さとパワーにつながることを、体が理解してきたんだ!」
「ハイ!」
確かに、選手たちに父流野球が身に付いてきたことにより、個々の能力が上がったと同時にチーム全体のミスも減り、安定した成績が出せるようになっていた。そのことは、翔子マネージャーからの報告でも確認されている。
そんなこととはつゆ知らず、授業が終わるとさっさと帰宅している夏帆は、家に帰るとボクに話しかけるのがただいま代わり。
そしてあのとき以来、鳴沢家のテレビの前には硬式ボールとグラブが置いてあり、それらの位置が変わっていないかを確認するのも夏帆の役割のようになっていた。
「今日もボールの動きはなし」
そう言いながら、わざとボクの目の前でグラブをはめ、ボクの脳に話しかけるようにボールをいじくる夏帆。
「お兄ちゃんもキャッチボールしようよ。これがカーブのにぎり、これはチェンジアップ、そしてこれが……」
そんなある土曜日、気持ちのいい日が差し込むわりに肌寒く感じる朝。なので、この日は暖をとりながらの朝ごはんだ。
「ところで夏帆」
「何、お父さん?」
「見せたいものがあるんだ」
食事を済ませると白いスエット姿の夏帆を車の後部座席に乗せて、父もジャージ姿という軽装のまま車を走らせた。
「学校? もしかしてグラウンドに行くの?」
「大丈夫。みんなからは見えない場所に停めるから」
「いや、そういうことじゃなくて……」
突然のことに動揺を見せる夏帆だったけれど、それでも父は車を走らせて約二十五分間。
父の思惑、第二関門だ。
滝岡高校から少し離れたコンビニの駐車場に車を止めると、運転席側の窓の先、田んぼの向こう側に見える野球部グラウンドに目を向けた。
「見てごらん、ブルペン」
ここからは一塁側からのグランドが見える。そして防球ネットの外側に設置された四つのピッチャープレートを有する、屋根付きブルペンがはっきりと見えていた。
父の言葉に促され、申し訳なさそうな目でブルペンを見る夏帆。
「一番外側のプレート、空いてるだろう?」
「……」
「いつも夏帆が使っていたプレートだよ」
こだわっていたわけではないけれど、確かに夏帆が使っていた一番外側のピッチャープレート。
「あいつら、誰も使おうとしないんだ」
「……」
「夏帆の場所だからって、必ず帰って来るからって」
「……」
ほんの一、二分、それだけだった。父は車を出そうとオートマチックのレバーをリバースに入れた。
「ちょっと待って……」
すっかり稲の乾燥も後片付けも終わった田んぼの向こうに目をうばわれ、何かを感じている様子の夏帆。久し振りに見る野球部、大和と猛の言葉から知ったみんなの思い。
夏帆の「待って」の言葉に、父は動き出そうとして入れたレバーをパーキングにもどすと、おもむろに車を降りてコンビニから缶コーヒーを買ってきた。一応、夏帆にもレモンティーを買ってはきたけれど、田んぼの向こうに集中する夏帆の邪魔をしないようにと自分の上着のポケットにしまった。
そして、思ったより熱かった缶コーヒーを上着の袖を引き伸ばして手におおうように持ちなおし、夏帆の視界に入らないように、わざと車の外で飲み始めた。
十分くらいたっただろうか、冷めてしまった缶コーヒーを飲み干した父は、夏帆にレモンティーを差し出しながら車に乗り込み、何事もなかったかかのように帰路に着いた。
二人とも無言のままの二十数分間。そろそろ家が近くなってきて近所の公園の脇を通るときに、父はひと言だけ伝えた。
「みんな、待ってるよ」
ルームミラー越しに見える夏帆の反応は何も示さず、ただ窓の外の公園を見つめているだけだった。でも、そこには父とキャッチボールをしたときのこと、大和や猛から思いやりのある言葉をもらったときのこと、さらにボクがまだ元気だったときのことなど、夏帆にとってはとても大切な野球が見えていたのかもしれない。
公園を過ぎるとすぐに家。父は車に乗ったまま「コーチしに行ってくる」と夏帆を降ろすと再度出かけて行った。母はパート仕事のために出かけていて、家にいるのはボクだけ。
「ただいまぁ」
リビングに入った夏帆はいつものようにボクに話をかけてくる。
「お兄ちゃん今ね、学校のグランドに行って来てって…………えっ、お兄ちゃん!」
夏帆の全身が固まった!
ボクの手には硬式ボールが握られ、そのボールをじっと見つめながらあぐらをかいているのだ。今のボクを見る夏帆の心は震えながら舞い上っている!
「わかる? わかるの? お兄ちゃん? ボールだよ! 硬式ボール!」
ゴトッ!
ゴロゴロゴロゴロ…………
ボクはこのボールに何かを感じ、何かを思い出し、何かを考えようとするけれど、強く思えば思うほど頭の中も身体中もモヤモヤしてしまう。最近そのようなことがときどきあるのだ。
そしてボクの手から力が抜けると同時に、ボールは床に転げ落ちて無造作に止まり、それが合図のようにボクはいつもの無気力な姿に変わった。
野球なんだよね!
お兄ちゃんの病気が治るのは!
やっぱり、野球なんだよね!
そう、なのかなぁ…………




