35、旦那様のことが大好きだからですわ
その後――
王都から帰還して以来、侯爵家には穏やかな日々が流れていた。
カルベスとミアは以前と変わらない日常を過ごしている。
ただ違うのは、ふたりが早朝にそろって散歩をしていることだ。
朝食が準備される頃、手を繋いで戻ってくるふたりの様子を使用人たちはたびたび目にした。
「最近は本当に仲がよろしいわ」
「ちょっと前までどうなるかと思っていたもの」
「これでようやく落ち着きそうね」
使用人たちは心から安堵し、ふたりを祝福した。
「本日の昼食はどちらで取られますか?」
執事のハンスは最近そんなことをカルベスに問う。
以前までカルベスは昼食を抜くか、もしくは簡素に執務室でサンドイッチをかじる程度だったが、最近は違う。
「ああ、今日はよく晴れそうだから庭で食べようかな。ねえ、ミア?」
「はい。ちょうど植えたお花も咲き始めて見頃ですわ」
ハンスは丁寧に一礼すると「かしこまりました」と微笑んだ。
カルベスはミアと昼食をともにすることが多くなった。
執務室で一緒に仕事をすることが多くなったので自然とそうなっているが、彼はいつだってミアと一緒にいたかった。
しかし、ミアはひとりの時間も大切にする性格だ。
もしかすると、自分だけが一方的に一緒にいたいのではないかと、そんな疑念が胸をよぎることもあった。
だから、たまに訊ねることもある。
「ずっと一緒にいると君が疲れてしまうのではないか? 俺が邪魔なときは遠慮なく言ってほしい」
「大丈夫です。邪魔なときは邪魔だと言いますから」
「まあ、そうだよな。君は」
カルベスは複雑な表情で苦笑する。
ミアが空気を読んで遠慮するような性格でないことは百も承知だ。
「てことは、少しでも俺と長く一緒にいたいってこと……?」
ミアに聞こえるか聞こえないかくらいの声でぼそぼそと話す。
しかしその直後、ミアがぱっと明るい笑みを浮かべ、言い放った。
「あ、午後からはリリーとふたりで手芸をすることになっています。旦那様は邪魔なので私の部屋に来ないでくださいね」
「ちょっ……言い方っ!」
「それでは晩餐でお会いしましょう」
ミアはカルベスに与えられた仕事を片付けると、さっさと執務室を出ていってしまった。
その日カルベスはひさしぶりにひとりで昼食を取った。
やはり、ひとりきりの食事は多少寂しさがある。
これまでまったく気にしたことはなかったのに、それだけミアとの時間を共有しすぎているのかもしれない。
(両想い、のはずなんだが……ミアと俺の温度差がすごいな)
カルベスは切なげな表情でサンドイッチを口にする。
すると、傍らに控えていたハンスが優しく声をかけた。
「旦那様、奥様は今、大切なことをなさっているようです。そっと見守りましょう」
「大切なこと? それはいったい……」
「私も内容までは存じませんが、奥様はたいそう嬉しそうにしているそうですよ」
「そうか。いつかミアは俺に話してくれるだろうか?」
「はい。きっと」
カルベスは小さく嘆息し、それ以上考え込むのをやめた。
ある日、ミアはカルベスを近くの森へピクニックに誘った。
川辺で釣りをしながら、バスケットに詰めた弁当を広げてのんびりと過ごす。
今日はふたりきりだ。
「今日はなかなか釣れないな」
「お魚さんはお昼寝中かもしれませんね」
「……そうだな」
カルベスとミアはぴくりともしない釣竿を見つめてぼうっと座っていた。
しばらくすると、ミアが思い出したように手を叩いた。
「実は旦那様に贈り物があるのです」
「え?」
半分うとうとしていたカルベスは、ぱっと目を開けて振り向いた。
「こちらを受けとっていただけますか?」
ミアが差し出したのは一枚のハンカチだった。
そこには侯爵家の紋章が丁寧に刺繍されている。
「ああ、ありがとう」
カルベスはハンカチを受けとると、思い出したように訊ねた。
「もしかして、俺に内緒で何かしていたのは、これだったのか?」
「はい、そうです。旦那様を驚かせたかったので、内緒にしていました」
「そうか。そんな事情が……そっか。安心した」
「え?」
「いや、何でもないよ。ありがとう。大切にする」
カルベスは照れくさそうに頬を赤らめながら、ハンカチの紋章をじっと見つめた。
とても緻密で丁寧な刺繍だが、ほんのわずかに糸が絡まっているところがある。
ミアがからりとした口調で言った。
「刺繍は苦手なので完璧ではなくて申し訳ございません」
「いや、謝ることはないよ。それに、充分すぎるほど綺麗にできてる」
「リリーが裁縫上手なので教えていただきました」
「へえ、ミアにも苦手なことがあるんだな。ちょっと親近感」
カルベスは本当に安堵したように顔をほころばせた。
ミアは特に気にするでもなく続ける。
「裁縫は本当に苦手で、何度やっても上手くいかないのです。以前に伯母様の布製のバッグを椅子で引きずって破ってしまったので、こっそり縫って補修したらバッグの開き口を塞いでしまいました」
「いやいや、それは上手い下手の問題じゃないだろ!」
「怒られました」
「そりゃそうだよ!」
カルベスは思わず噴き出した。
ミアは眉をへの字にして、心外そうな顔で首を傾げている。
カルベスは涙が滲むほど声を出して笑ったあと、ふたたびハンカチを見つめた。
貴族の女性が男性に刺繍入りのハンカチを渡すのは愛の告白を意味することを、カルベスは当然知っている。
しかも、贈る相手の家の紋章を刺繍するというのは、より深い愛情の証だ。
まさかミアからその贈り物をもらえる日が来るとは、カルベスは思いもしなかった。
だが、近年は妻から夫へ贈る場合、それは慣習として形だけおこなう者もいると聞く。
カルベスはあえて冷静を装って訊いた。
「えっと、これはやっぱり、妻としての役割だから?」
「ええ、そうですね」
カルベスは途端にがっくり肩をうなだれた。
そんな質問をするのではなかったとすぐさま後悔する。
しかしミアは穏やかに続けた。
「妻の役割と、あとは旦那様のことが大好きだからですわ!」
「ええっ!?」
カルベスが声を上げた瞬間――
ぱしゃっと音がして竿がしなった。
「旦那様、来ましたわ! 結構大きいです」
ミアが竿を持ったまま立ち上がると、カルベスは慌てて自分もミアの竿を握った。
ふたりで踏ん張って釣り上げると、艶やかな銀の魚が川から跳ね上がり、太陽の光にぎらりとまぶしく輝いた。
その頃、侯爵家の庭園では、王都から休暇でやって来たマーサをカルベスの父が茶会でもてなしていた。
ふたりの再会はカルベスとミアの結婚式以来だ。
「体調が落ち着いているようで何より」
「ああ、ミアのおかげですっかり元気だ。あの子は不思議だ。まわりを笑顔にしてくれる。やはり君の読み通りだったな」
「愚息の目を覚まさせてほしい。あなたの頼みだ。これで昔の借りは返したつもりだ」
マデリーンの評判は、知っている者のあいだでは芳しくなかった。
カルベスはマデリーンに押し切られる形で恋仲になり、そのままずるずると彼女の思惑にはまっていった。
困った父がミアの伯母に相談すると、彼女はミアとの縁談話を持ちかけたのだった。
貴族の娘はいずれ家同士の縁談で嫁ぐことになる。
ミアもそれを承知していた。
「あなたの息子は心優しく誠実だ。目が覚めれば何が大切なものか判断できるだろうと思った」
それでもカルベスの目が覚めないときは離婚することになっていた。
ミア自身はすべてを知らず、彼女はただ令嬢の役目として嫁いだだけだった。
「スミス令嬢も最近は落ち着いたと聞く。ミアの影響力は素晴らしいものだな」
「あの子は無意識だがな」
マーサは小さく笑みを浮かべながら紅茶を飲む。
そして、ふと目線を遠くへ向けて言った。
「しかし、ミアが一生離婚はしないと言ったときは、本当に驚いたな」
「愚息を好いてくれたのだ。ありがたいな」
「うーむ……あの子にそんな感情があるとは……いまだに信じられないのだが」
「人の気持ちは他人が測れるものではないよ。最近そう思うんだ」
ふたりが視線を向けた先には、カルベスとミアが服に泥をつけた格好で、釣竿とバスケットを持ち、笑いながら帰ってくる光景があった。
「確かにそうかもしれん」
とマーサが穏やかな口調で言った。
ミアがこちらを向き、無邪気に手を振った。
その弾けるような笑顔に、ふたりは安堵の表情を浮かべる。
ミアのとなりに立つカルベスもまた、心から嬉しそうに微笑んでいた。
ちょうど夕暮れどきで。
空も、庭園の花々も、まばゆいほどの黄金色に染まっていた。
< 完 >
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