30、一生離れられなくなりますわ
薔薇園にはミアとカルベスだけが残された。
他に誰もおらず、異様なほどしんと静けさが広がっている。
ふたりは顔を見合わせて、淡々と言葉を交わす。
「旦那様、よろしいのですか? マデリーン様が死ぬと言っています」
「いや、彼女はそんなことしないよ」
「では嘘をついたのでしょうか」
「俺を脅しただけだ。今までもそうだった。パーティで会えないと返事をすると、死んでやると何度も手紙に書かれた。本当に死なれると困るから、今までマデリーンのご機嫌取りをしていたんだ」
「そうですか」
「でも、それは間違っていた。俺が彼女に抱いていたのは愛情ではなく、同情と哀れみだったと気づいたんだ」
「なるほど。マデリーン様はいわゆる男女の駆け引きをおこない、旦那様はその策にまんまと引っかかったわけですね」
「うっ……相変わらず容赦ないな」
「失礼しました。悪気はありません」
「わかってるよ」
カルベスは苦笑したあと、穏やかな表情を向けた。
「君といると本当にすべての悩みがどうでもよくなるよ」
「それはよかったです。解決しないことを悩んでも時間の無駄ですから」
「……ああ。まったくそうだな」
「誤解なきよう補足しますと、解決すべきことは熟考する必要がございます」
「わかってる」
カルベスはそれ以上このことについて触れなかった。
代わりに彼はミアの手に視線を落とし、わずかに目を細めた。
ミアの手は赤く腫れている。
「怪我をしたのか?」
「あ、さっき叩いてしまった衝撃ですね。平気ですわ」
するとカルベスはミアの手をそっと握り、ゆっくりと持ち上げてその指先にキスをした。
ミアは驚いた顔でカルベスを見つめる。
カルベスは頬を赤らめて、気まずそうに視線をそらしたあと、ふたたびミアに向き直った。
手を握ったまま、慎重に、静かに訊ねる。
「キスを、してもいい?」
「え?」
「嫌なら拒んでくれて構わない」
「嫌ではありません」
ミアはカルベスを見つめたまま、さらりと答えた。
カルベスはわずかに微笑んで、ミアの肩を掴んで引き寄せると軽い口づけをした。
ちょうど月が真上にあり、月光の影響で女神像が白く輝く。
その光がふたりを包み込むようにまばゆく照らした。
一瞬だけお互いの顔が離れ、少しのあいだ見つめ合う。
カルベスは、今度はミアの背中に腕をまわしてそっと腰を抱いた。
そしてふたたび唇を重ねる。
月光のきらめきと、甘い薔薇の香りが、ふたりを包み込む。
ミアが素直に身を委ねて応じているのもあり、カルベスは勢いづいて何度もキスを繰り返した。
しばらく経ってカルベスが名残惜しそうに唇を離すと、そこには頬を赤らめたミアの顔があった。
蕩けるような表情をするミアに、カルベスは一気に熱を帯びたように赤面した。
その勢いでミアを抱きしめようとしたカルベスに、突如ミアが「あっ」と声を上げた。
「ここで口づけを交わすと、一生離れられなくなりますわ」
「そうらしいね」
「旦那様、それを知ってて……」
「そうだよ」
ミアは目を丸くしたあと、急に不機嫌な顔になって目をそらす。
「卑怯です。せめて他の場所でしてくださればよかったのに」
「他の場所ならいいの?」
ふっと笑うカルベスを、ミアは半眼で見つめる。
「夫婦ですから当然ですわ。けれど、この場所だと……私たちは離婚できなくなってしまいます」
「ミアはその話を信じるのか?」
「たとえ信じなくても、そのような逸話のある場所でおこなえば記憶に刻まれてしまいます。そうなると離婚するときに躊躇してしまう可能性がありますわ」
「ミアは記憶力がいいからね」
声に出して笑うカルベスを、ミアは膨れっ面で見つめる。
「旦那様、すべてわかっていてなさったのですね? お優しい方だと思っていましたが、わりと強かなんですね」
「ああ、そうだよ。でないと君の夫は務まらないからな」
「まあ、私のせいだとおっしゃりたいのですか!」
ますます膨れっ面になるミアを見て、カルベスはさらに笑った。
「何がおかしいのですか?」
「いや、ごめん。嬉しくてつい……」
「何が嬉しいのですか?」
本当に意味がわからないというふうに、ミアは険しい顔のまま首を傾げる。
カルベスは柔らかい笑みを浮かべながらミアに話す。
「君はいつ何が起こっても、常に平静で淡々としているのに、今日は俺の前で感情を素直にぶつけてくる。それがたまらなく嬉しいんだ」
そう言われて、ミアは目を丸くすると、少し考える素振りを見せながら小さく頷いた。
「確かにおかしいですね。私は他人に何を言われようが、まったく気にすることはないのですが、旦那様がお相手だとなんだか反発したくなってしまいます」
「それ、どういうこと?」
カルベスが苦笑しながら訊ねると、ミアは唇を尖らせて答えた。
「よくわからない感情ですわ。旦那様にしか反応しません」
「ねえ。それって、俺のことを意識しているってことだよね?」
「……少なくともそうですわ」
「そっか。嬉しいな」
カルベスはふたたびミアの腰に手をまわし、そっと抱き寄せる。
ミアは特に拒絶することもなく、すんなりカルベスの懐に収まる。
そして、ミアはそっと呟いた。
「今日の旦那様は少し変ですね」
「そうだろうね。でも、それはお互い様だ。君も自分のことがおかしいと思っているのだろう?」
「はい、そうです。感情の波が激しいです。口づけのせいかもしれません」
カルベスはミアを抱きしめたまま、そっとその髪を優しく撫でた。
そして、耳もとで静かに問いかける。
「キスをしてみてどうだった?」
「気持ちいいです」
カルベスは真っ赤になり、慌ててミアから離れる。
「い、言い方……!」
「露骨すぎましたか。では言い換えます。とても胸が熱くなって頭の中がふわふわして、それから……」
ミアが言葉に詰まったので、カルベスはわずかに首を傾げた。
「それから?」
「旦那様がいつも以上に素敵に見えます」
「それ本当?」
「はい。旦那様はとても整った顔立ちをしていらっしゃいますが、今日はまぶしいくらい輝いて見えます。キスの効果でしょうか」
「それはすごい効果だ」
カルベスは赤面しながら頭をかいた。
ひゅっと冷たい夜風がふたりのあいだを通り抜ける。
その瞬間、ミアの表情がわずかに強張った。
「寒い?」
「はい、少し」
「そろそろ部屋へ戻ろうか」
「そうですね」
薔薇園を出る途中、一組の男女とすれ違った。
ミアはそちらへ目を向けて、しばらくじっと見つめたあと、ふいにカルベスへぴたりと身を寄せた。
その仕草にカルベスはぴくりと肩を揺らし、頬を赤く染めて視線を落とす。
だが、間近でじっと見上げるミアの視線と絡んで、思わず顔をそらした。
「……ミア」
「すみません。なんだか急にこうしたくなったのです」
「いや、いいよ」
ぎこちない動きになるカルベスと違って、ミアは安心したように静かに身を寄せる。
「旦那様はいい匂いがします」
「え? そんなこと言われたことないけど」
「不思議ですね。私も殿方の匂いをいいと思ったことはございません」
「そっか……それは、もしかしたら相性が……」
「え?」
「なんでもないよ」
「旦那様……なんだかすごく、お体が熱いようですが」
「それは君のせいだよ」
いつもの淡々としたやりとりではなく、お互いに少し遠慮がちな、わずかに感情のこもった会話だった。
カルベスはミアの手をそっと握る。
するとミアが控えめに握り返したので、その勢いで彼は指を絡ませてぎゅっと繋いだ。
夜風が吹き抜けて、薔薇の花びらが舞う。
逸話のある女神像は、まるでふたりを祝福するように静かに佇んでいた。
◇
翌日、宮殿の回廊で遅い食事を終えたカルベスとミアが部屋へ戻っているときだった。
ばったり出くわしたディルクがふたりの様子を見て、驚いた顔で訊ねたのだ。
「え、何? ふたりに何があったの?」
「特に変わったことはない。俺たちはいつも通りだ」
飄々とした顔で答えるカルベスに、ディルクがすかさず返す。
「いやいや、どう見てもあっただろ」
カルベスはミアと手を繋ぎ、平静を保っているわりに頬を赤く染めている。
となりにいるミアはいつも通りけろりとしているが、カルベスにぴったり寄り添っている。
「どうした? ディルク。俺とミアが手を繋いでいるのがそんなにおかしいか?」
「いや別に、夫婦だからおかしくないよ。しかし、一晩でずいぶん変わったなと」
するとカルベスはミアに顔を向けてそっと問いかける。
「ミア、俺たちは変わったのだろうか?」
「いいえ。いつも通りですわ」
「だよな。俺たちはいたって普通の新婚夫婦だ」
わざとらしく語気を強めるカルベスに、ディルクは苦笑する。
「まあ、いいけどね。僕の知ったことじゃないし」
ミアはそっと離れると、カルベスに告げる。
「旦那様、午後から令嬢たちのお茶会に招かれていますわ」
「ああ、いっておいで」
「はい。では、また晩餐でお会いしましょう」
ミアはにっこり微笑むと、ディルクにも笑顔を向けて会釈をした。
「ではディルク様もご機嫌よう」
そう言って、ミアはふわっとドレスを翻し、ゆっくりと立ち去った。
それを見送ったあと、ディルクがカルベスに声をかけた。
「奥さん、ずいぶん表情が豊かになったな。なんというか、笑顔がすごい」
「失礼だな。ミアはいつも笑顔だ」
「いやー、でも、以前はもっと乾いた笑顔というか、なんかよそよそしい感じだったんだが」
するとカルベスはふっと笑みを浮かべて言った。
「それはきっと、幸せだからだろう」
その言葉にディルクは呆気にとられ、思わず笑いが洩れる。
「はははっ……嬉しそうだなあ」
「ああ、嬉しいよ。ついでに、俺も幸せだ」
「わかった。もういい。言わなくても顔に出てる」
「それじゃ、俺も用事があるからまたな」
カルベスは満面の笑みで手を振って立ち去る。
その背中を見つめながら、ディルクはぼそりと呟く。
「人は変わるものだと言うが……変わりすぎだろ、あのふたりは」
ディルクはふたたび苦笑いし、肩をすくめる。
「これでもう、僕の立ち入る隙はなくなったわけだ。ま、いいけど」
そう呟くと、彼はカルベスに背を向けてその場をあとにした。




