28、二度と妻に近づくな
カルベスが去ったあと、ミアは気分転換に庭園を散策することにした。
まだ伯爵家にいた頃、パーティに何度か参加したがいまいち馴染めず、だいたいこうして夜の庭園で時間を潰すことが多かった。
今回はカルベスの妻としての役割があるのでひと通りこなしたが、結構疲れていた。
「ふう、やっぱりひとりでのんびりするほうが落ち着くわ」
夜風はひんやりと心地よく、外灯に淡く照らされた薔薇が幻想的に浮かび上がっている。
甘やかな香りに誘われながら歩いていると、男女数組とすれ違った。
夫婦なのか、恋人同士なのか、あるいはこの一夜のためだけにめぐり会った者たちなのか。
誰もが肩を寄せて談笑しながら薔薇園の向こうへ消えていく。
だが、ミアにとってそんなことはどうでもよかった。
ただひとりで気軽に薔薇の香りを楽しんで、静かに心を癒やしたいだけ。
幾重にも連なる薔薇のアーチをくぐり抜けると、その奥に白亜の小さな建物と女神像が静かに佇んでいた。月光を浴びて、淡く白く輝いている。
その手前には、抱擁したりキスを交わしたりする男女の姿がある。
ミアはそっと足を止め、静かに一歩引いた。
(邪魔をしてはいけないわね)
そろりそろりと後ずさったそのとき、背後にとんっと何かが当たった。
振り返るとそこには、先ほどダンスをした男が立っていた。
「おや、侯爵夫人。こんなところでお会いするとは……これは運命ですか」
ミアは「ん?」と首を傾げたが、男は構わず続けた。
「私はあなたのことを考えながらこの場所へ来たのです。すると、あなたがおひとりでここにいた。これはもう出会うべくして出会ったのでしょう」
「私はひとりで散歩をしていただけですよ」
「恥ずかしがることはありません。まさかこの場所の意味を知らないわけはないでしょう?」
「知りません。何か意味があるのですか?」
男は頬を紅潮させて、にんまりと笑みを浮かべる。
「ここで口づけを交わした男女は永遠に結ばれるという言い伝えがあるのです」
「へえ、そうなんですか」
あまりに淡泊な返答だった。
ミアにとって恋だの運命だのといった話題は興味を引くものではないので、ここが何を意味するかなどどうでもいいのだ。
「私にはそのような願望はございませんので、これで失礼しますね。あなたはどなたか素敵な方と出会われるのでしょう。お邪魔してしまいましたね」
ミアが淡々とそう言って立ち去ろうとすると、男が腕をぐっと掴んで引っ張った。
男は切なげに眉を寄せて、悲劇の演者にでもなったつもりで振る舞う。
「私はあなたを見ていると胸が締めつけられるようだ」
「はい?」
「あなたは夫から酷い扱いを受けているのでしょう?」
「いいえ、まったく」
「隠す必要はありません。僕にはわかっています。だいたい公の場で妻よりも愛人を優先するなど、貴族の男として分別がないと思うのです」
「そうですか?」
「私なら、たとえ愛人がいてもあなたを放置したりしませんから」
「はぁ……」
ミアはどう答えるべきかわからず困惑した。
男は自分に酔いしれるようにうっとりした表情で語る。
「あんな男とは別れて、私と再婚しましょう。私はあなたを一番に愛して差し上げますよ」
「大丈夫です。興味ありません」
「お可哀想に。あの男に束縛されているのですね。さぞや酷い目に遭っているのでしょう」
「いいえ。毎日快適に暮らしておりますし、自由です」
「女性は家庭で辛いことがあると必死に明るく努める傾向があると書物で読みました。あなたはまさにそのようだ」
「んー、その本はあまり信用しないほうが……」
「ご婦人!」
男はがしっとミアの両手を掴んだ。
そのまま、ゆっくりと顔を近づけてくる。
「私はあなたを永遠に愛すると誓います」
「ええっと……」
「さあ、口づけを」
上気した顔に、額から滲み出る汗。そして荒々しい呼吸。
その男の姿は情熱的というよりも、獲物を捕らえた獣のように、ミアの目に映っていた。
◇
一方その頃、カルベスはマデリーンに手を引かれてミアのすぐ近くまで来ていた。
美しい薔薇のアーチを通り抜けながら、カルベスは眉をひそめる。
「どこに行くんだ? マデリーン。俺は話がしたいだけなんだ」
「あたしたちにとって大事な話はきちんとした場所でしなきゃだめよ」
マデリーンの一方的な主張にカルベスは戸惑う。
最初にマデリーンから話し合いの場所として個室を提案されたが、カルベスはそれを断った。
ふたりきりになるのは避けたかったからだ。
そこで、庭園に行きたいと言う彼女の要望を受け入れた。
庭園なら他人の目もあるし、密室になることはないだろう。
とはいえ、別れ話をするなら人に聞かれないほうがいい。
そう考えていると、マデリーンが薔薇園の明るい場所で話したいと言い出したのだ。
その場所は月光が降り注ぎ、周囲は照明の光で淡く輝いていた。
赤やピンクの薔薇が咲き乱れ、妖艶な雰囲気を漂わせている。
途中、数組の男女とすれ違った。
その誰もが腕を組んで肩を寄せ合い、すれ違いざまに愛の言葉を囁く声まで聞こえた。
「見て、カルベス。ここは愛の場所なのよ。あたしたちにピッタリでしょう?」
「たしかに綺麗だが、ここで話すのはちょっと……」
「ほら、早く来て。ちょうど月がいい感じに女神を照らしているわ」
女神像が月光の下に光り輝く瞬間、カルベスの視線は別のところにあった。
その視線の先で、ミアが男に手を掴まれ接近されていたのだ。
カルベスは驚愕し、足が固まった。
マデリーンもとなりで「あら」と甲高い声を上げた。
「いやだわ。奥様ったらもう恋人を見つけたみたいよ」
「恋人だって?」
「そうよ。だってここはそういう場所だもの。カルベスは知らないの?」
「何を?」
「ここで口づけを交わした男女は一生結ばれるというジンクスよ」
「なっ……!」
「特に女神像が月光の真下にあるときは、その効力が数百倍とか……」
カルベスはすでにマデリーンの声など聞こえていなかった。
彼の視線はミアにあり、まさに男がミアの唇を奪う寸前だった。
「ミア……っ!」
カルベスは到底間に合わないことがわかっていた。
ミアが別の男と口づけを交わす。
それを阻止するには、彼はあまりに遠すぎた。
カルベスはひどく動揺し、怒りと焦りを全面に出しながら、必死にミアへ手を伸ばす。
次の瞬間——
ばしんっと乾いた音が薔薇園に響きわたった。
「えっ……」
驚愕の表情で手を伸ばしたまま凍りつくカルベス。
そのとなりで、マデリーンは呆気にとられて口をあんぐり開けている。
そして、ミアに迫っていた男は頬を赤く腫らし、そのまま地面に尻餅をついた。
手を振り上げたミアはハッと我に返り慌て出す。
「あら、ごめんなさい。急に顔を近づけてこられたので、つい手が出てしまいましたわ」
悪気のない声であっけらかんと返すミアに、カルベスもマデリーンも言葉を失う。
一方、ぶたれた男は憤慨し、ミアに向かって怒号を放った。
「なんだこの暴力女は! こっちが下手に出てりゃいい気になりやがって!」
「ええっと、いい気になってはいませんが、叩いてしまってごめんなさい」
「謝って済む問題か! 暴力を振るわれたんだ! 慰謝料を払え!」
「まあ、いくら必要ですか?」
まったく悪びれた様子もないミアに、男はさらに激高する。
「あんた頭がおかしいんじゃないか? 侯爵もおかしいが、その妻も同じくらいおかしいな!」
その男の言葉にはマデリーンがすぐさま反応した。
男とミアに聞こえるように声を張り上げる。
「ちょっと、奥様はともかくカルベスを悪く言わないでちょうだい」
「な、なんだお前たちは?」
狼狽える男の前に、カルベスがすっと歩み出る。
その表情は怒りすら感じさせないほどに静かだ。
「慰謝料を請求するというなら応じよう。いくらでも払う。だが、俺の目には君が妻に無理やり迫っているようにしか見えなかった」
空気がひやりとする。
目を見開いたまま固まる男に、カルベスは圧のある声で告げる。
「妻が反射的に手を上げたということは、拒絶の意思表示だ。同意のない行為を暴力と見なして、こちらも君に慰謝料を請求することにしよう。家門を名乗れ」
「なっ……」
「どうした? 早く名乗れよ。まあ、調べればわかるけどな」
「くそっ……」
舌打ちする男に、カルベスは叩き込むように言い放つ。
「二度と妻に近づくな」
男は怯み、わずかに後ろによろめく。
「こ、こんな変な女……誰が二度と……うわっ」
男は慌て過ぎたのか立ち去るときに足がもつれ、びたんっと地面に転んだ。
派手に顔を打ったらしく、鼻の頭を擦りむいて赤くしている。
だがそれ以上に彼は赤面して、そそくさと逃げ去ってしまった。
呆気にとられて目を丸くしているミアに、カルベスがそっと話しかける。
「ひとりにしてすまなかった」
「いいえ。私が勝手に庭を散歩していただけですので」
「だが、俺が一緒にいれば妙な男に絡まれることはなかっただろう」
「まあ、そうですね」
ミアがさらりと肯定すると、カルベスは安堵と苦笑の入り混じった表情を浮かべた。
そのとき、ふたりの会話を遮るようにマデリーンが口を挟んだ。
「ちょっと、あたしを無視しないでちょうだいよ!」
カルベスとミアは同時にマデリーンへ顔を向けた。




