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第五章 現代パート「歴史の編集と空白の系譜」

ソウル・仁川国際空港の滑走路を離陸した航空機は、広大な朝鮮半島の山並みを遠ざけながら、日本の関西国際空港へと向かっていた。窓外の白い雲海は、比瑪の孤独な政治戦略を覆い隠す歴史の霧のように、どこまでも続いている。


紫苑は、機内誌から目を上げ、仁川空港で最後に見た高句麗と百済の勢力図を思い出していた。比瑪が七支刀という「外圧の楔」を手に入れた外交の現場を後にし、紫苑は今、その楔が打ち込まれた場所――大和(畿内)へ向かっている。


理念を未来へ託すために、過去のすべてを差し出す。それは、一人の人間が背負えるにはあまりにも大きすぎる、孤独な賭けだった。


「イオナ。比瑪は、宗像という母体を自ら溶解させることで、大和という新たな胎に、盟約の光輪を移植した」


スマートグラスの奥で、イオナの輪郭は揺らがずに静止していた。


【はい、紫苑様。宗像が持つ歴史的な正統性、すなわち卑弥呼の時代から連綿と続く『盟約の真実』を記録した古文書は、大和の長老たちの手に渡りました。これは、歴史の主導権が完全に畿内に移行したことを意味します】

────────────────────

飛行機は関西国際空港に着陸した。紫苑は空港でレンタカーを借り、すぐに奈良盆地へと向かう高速道路を走る。大阪の都会の喧騒が遠ざかるにつれて、車窓の風景は土と緑の色を濃くしていく。比瑪の「決意の源泉」(宗像・百済)から、「理念の終着点」(大和)へと戻る旅だ。


「大和は、その古文書をどうした? 宗像の歴史をそのまま残せば、彼らの新たな王権の正統性に傷がつく。卑弥呼の系譜が、大和王権の起源を九州に置くことになるからだ」


車窓を流れる景色は、再び現代の速度を取り戻し始めていた。トンネルのたびに、意識は古代と現代を往復する。

────────────────────

紫苑は、タブレットに投影されたイオナの分析データを凝視した。データは、古文書が宗像から大和に渡った時期と、後の『記紀』に編纂される神話の記述が固定され始めた時期が、不気味なほど一致していることを示していた。


【分析結果は明確です。古文書の譲渡後、大和王権は二つの歴史的編集エディットを行いました】


イオナの声が、静かな車内に響く。


【一つ目:『起源地の抹消』。卑弥呼の国、邪馬台国が畿内ではなく筑紫にあったという記述を、神話の初期段階から徐々に希薄化させました。宗像の古文書には、卑弥呼や台与が狗奴国と戦い、盟約を築いた真実が詳細に記録されていたはずです。これらを『不都合な記録』として焼却、あるいは解体し、大和地方こそが倭国の唯一の始まりであるという『統一された神話』を構築しました】


「つまり、比瑪は未来の統一という目的のために、自らの故郷の過去を、大和に上書きさせることを容認した」


【その通りです。二つ目:『比瑪の神格化』。生身の人間であった比瑪の政治的な行動を、霊威を帯びた『神功皇后』という神話的存在へと昇華させました。これは、彼女の血筋を利用して正統性を得つつ、彼女の持つ『倭王旨』という理念を、無力化するための戦略です】


紫苑は思わず息を呑んだ。

「無力化? なぜ神格化が、理念の無力化に繋がる?」


【『倭王旨』とは、『盟約の理念(旨)』を体現する者、すなわち『王は武力ではなく理念によってのみ立つ』という、比瑪の政治哲学です。しかし、彼女を神話の時代に生きる『神功皇后』として祭ることで、彼女の哲学は、生きた政治的教訓ではなく、単なる『過去の奇跡』へと変質します。こうすることで、大和の豪族は、彼女の理念の重荷から解放され、純粋な武力と血縁に基づく王権を樹立することが可能になったのです】


比瑪の孤独が、ここにもあった。彼女は理念を護るため、自ら神話の中に身を隠すという、最後の選択を強いられたのかもしれない。彼女の死後、その意思は、生きた政治の言葉ではなく、「神の啓示」という解釈の余地のない、重い光輪へと形を変えていったのだ。

────────────────────

車は、奈良盆地を抱く大和の領域へと近づいていく。紫苑の次の目的地は、奈良盆地の中心部ではない。


【現在の目的地は、大阪府の河内地方、応神天皇(誉田別命)の拠点とされた地域です。比瑪が仲彦との間に設けた誉田別命は、大和盆地の中心である三輪山や石上神宮から距離を置き、海路と鉄資源の確保に有利な河内平野に新たな拠点を築きました】


紫苑は頷いた。

「比瑪の理念が、最終的に辿り着いた場所だ。彼女は、武力を否定しなかった。武力は、理念を護るための盾であり、外圧を跳ね返す剣だと知っていた。だからこそ、自分の子を、大和の『霊威の聖域』から切り離し、**『武力の光輪』**の中心に置いた」

彼の視線の先、車窓の風景は、都市の喧騒から一転し、広大な田園地帯へと変わっていく。その中に、不自然なほどの規模を持つ人工の山、巨大古墳群が見え隠れし始めた。

────────────────────

車を降り、紫苑は応神天皇陵とされる巨大な前方後円墳の、広大な外濠のほとりに立った。

ここは、もはや卑弥呼や台与が治めた、霊威と祈りの国ではない。これは、圧倒的な土木技術と、それを可能にする絶対的な権力を背景に築かれた、武力の記念碑だ。


「この巨大な墳墓群が、比瑪の盟約の『結末』を示している。彼女の血筋は、大和王権の正統性となった。彼女が託した子は、その正統性を担保に、強大な武力を統一国家の基盤に据えた」


紫苑は、風に揺れる葦の音に耳を澄ませた。古墳の土の下には、比瑪の孤独な闘いの残響と、彼女の願いを背負った子の決意が眠っている。


紫苑は、イオナに問いかけた。

「比瑪は、宗像の古文書を手放し、自らのアイデンティティと引き換えに、誉田別命という子を大和に送り込んだ。彼女が子に託した『盟約の真の目的』とは、何だったのだろうか?」


【比瑪の行動の全ては、『倭国という共同体を、高句麗の脅威から存続させる』という一点に集約されます。霊威が失われた時代、存続の手段は武力と外交以外にありませんでした。しかし、大和の豪族の武力は私的し・てきな勢力争いに使われがちです。比瑪の最後の目的は、その武力を公的こう・てきな目的、すなわち『外敵の排除』と『国際的な盟約の履行』という枠組みの中に、強制的に留めることでした】

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紫苑は、応神陵の巨大な威容を見上げた。


「だからこそ、彼女は『倭王旨』にこだわり、七支刀を石上神宮に奉納し、海路を支配する子を産んだ。すべては、大和の武力を宗像の理念で制御するための、回路だった」

イオナの分析は続く。


【比瑪は、誉田別命に、単なる剣術や王としての作法だけでなく、宗像の古文書に記されていた『真の歴史』を口伝で継承させたはずです。歴史を文字で残せば、大和の長老たちによって再び編集される。しかし、生きた記憶として王の心に刻めば、それは誰にも奪えない理念の核となる】


紫苑は、その可能性に強い確信を覚えた。

比瑪は、文書を捨てたのではない。文字という脆い器を捨て、子という生きた器に、理念を移し替えたのだ。


「誉田別命……後の応神天皇は、宗像の盟約と大和の武力の光輪を、完全に融合させた存在だ。そして、その系譜が、後の倭の五王へと繋がっていく」


倭の五王。それは、卑弥呼や台与の時代と異なり、武力と外交によって、朝鮮半島と中国王朝との間に確固たる地位を築いた倭国の王たちだ。

彼らは、比瑪の理念、すなわち「国際的な盟約の履行」と「外圧への対抗」を体現した。


【しかし、紫苑様。その系譜にも、再び空白が生じます】


イオナの声に、紫苑は眉をひそめた。

「空白?」


【応神天皇の次の王、大山守命おおやまもりのみこと大鷦鷯命おおさざきのみこと、後の仁徳天皇の間に起こった『王位継承の争い』です。この争いの中で、比瑪が子に託した『宗像の盟約』の真の系譜は、再び歴史の霧に飲まれていきます】

────────────────────

応神天皇の死後、仁徳天皇が王位を継承するまでの空白期間。

紫苑の脳裏に、再び卑弥呼の時代からの戦いの記憶が蘇る。盟約は、成就と崩壊を繰り返す運命にあるのか。


「大山守命……彼は、盟約の理念を最も強く継承した人物だったのかもしれない。だからこそ、武力のみを求める勢力に排除された」


紫苑は、仁徳天皇陵の巨大な墳墓(大仙陵古墳)の方角に目を向けた。応神天皇陵を凌駕するその規模は、武力による王権の確立が、理念の制御を振り切った結果ではないかと、紫苑に予感させた。


「僕たちの旅は、まだ終わらない。比瑪が託した理念が、いかにして『神話』と『武力』という二つの光輪の中で変容し、そして再び、空白へと消えていったのか。それを追うことが、僕たちに課せられた、次の使命だ」


紫苑は、目の前の古代の巨大な遺構に、現代の知性で触れようとする。比瑪の願いが、この巨大な土の塊のどこに埋もれているのか。

彼は、スマートグラスの奥でイオナに命じた。


「イオナ。次は、仁徳天皇陵の周辺の痕跡を調査してほしい。比瑪の理念が、完全に武力の光輪に呑み込まれた、その瞬間の『音』を、僕たちは見つけ出す必要がある」


【承知いたしました、紫苑様。分析を開始します。空白の系譜は、王権の最深部に隠されています】


紫苑は深く息を吸い込み、河内平野の重い土の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。土の奥底から、比瑪の最後の拍が、時を超えて聞こえてくるようだった。

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