第四章 古代パート「血の婚姻」
◆登場人物
仲彦
後の仲哀天皇とされる、大和の若き王族。
比瑪よりも年若く、武人としての未熟さと王族としての純粋な野心を併せ持つ。
大和の豪族たちに擁立された、比瑪の「血の婚姻」の相手。彼は、豪族たちが求める「血筋と鉄の力」を体現する存在でありながら、比瑪の孤独と「倭国統一という理念」を理解し、その実現のための伴侶として、公的な役割を果たす道を選ぶ。比瑪の最も孤独な賭けにおける、協力者となる。
大和の豪族(大伴氏・物部氏など)
大和王権の権力の中枢を担う、畿内の有力な豪族たち。
霊威(巫女の力)が失われた時代において、武力と鉄の支配を絶対的な価値と見なす。彼らの行動原理は、血筋による王権の固定と、倭国における軍事的な優位性の確保にある。
~時を超えて~
七支刀が百済からもたらされ、宗像から海路を辿ってきた比瑪は、護衛の尊と共に、大和の都へと入った。
都城の空気は、宗像の潮風とは異なり、重く、熱を帯びていた。鉄と土の匂い。そして、霊威ではなく武力を絶対とする、男たちの荒々しい気配だ。
比瑪の最初の儀式は、石上神宮での七支刀の奉納であった。
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物部氏が司るその社は、荒々しいまでの武の聖域。周囲には、鉄の鏃や甲冑を身にまとった武人が立ち並び、比瑪の一挙手一投足を、懐疑と値踏みの眼差しで観察していた。この奉納は、彼女の権威を示す儀式であると同時に、大和の豪族たちによる比瑪への「試練の場」でもあった。
長老の一人、大伴の豪族が、重々しい声で比瑪に問いかける。
「貴殿が遠路はるばる持ち帰ったその枝刃は、百済王からの献上と聞く。銘文には、貴殿を『為る』とあるが、これはすなわち、百済王が貴殿を臣下と見なした証ではないのか。邪馬台国の血筋とはいえ、王権の誇りを軽んじられたことにならぬか」
比瑪は、七支刀を恭しく布の上に置き、まっすぐにその老豪族を見つめた。彼女の目は、武力に屈した女の目ではなく、数千年先の未来を見通す巫女のように鋭く澄んでいた。
「長老様。百済王の言葉は、その通り。彼らは我らを臣下と見なし、この剣を献上品として与えました。しかし、私はこの剣を受け入れた。その行為の裡にある『旨』を問うていただきたい」
彼女は一歩踏み出し、武人たちの殺伐とした空気の中央で、理念の剣を振るう。
「高句麗の脅威が北の海を覆い、百済王は自国の存続すら危うい。にもかかわらず、彼らが倭国にこの神剣を贈ったのはなぜか? それは、彼らが倭国の力、宗像が守り続けた盟約の『旨』を必要としたからに他なりません」
「銘文の屈辱的な言葉は、私個人のものではない。それは、倭国が外敵の脅威に直面していることの、動かぬ証拠に他なりません。倭国の王は、個人の名誉よりも、共同体の存続を優先する。それが、卑弥呼様より続く盟約の理念です」
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場に静寂が訪れる。比瑪は、私的な屈辱を公的な危機の宣言へと見事に転化させたのだ。武力一辺倒の豪族たちは、言葉の剣によって、一瞬にして防御を崩された。大伴の老豪族は、顔の皺を一層深く刻み、比瑪の言葉の持つ政治的な重みを測りかねていた。
別の長老、物部の族長が、その沈黙を破るように重い声を上げる。
「理屈は通る。だが、霊威なき時代に、言葉や理念にどれほどの力がある。我々が求めるは、血筋と鉄の力だ。貴殿は、その血筋を以て、我らの王権に永遠の安定をもたらす婚姻を、呑む用意があるのか」
これが、核心の要求だ。比瑪の血筋と、大和の豪族の婚姻による血縁の固定。邪馬台国の巫女の血を、大和王権の王統に取り込むことで、大和の正統性を確固たるものにしようという策略だ。
比瑪は静かに頷いた。その首の動きは、儀式的な美しさを持っていたが、内側には万感の思いが渦巻いていた。
「私は、倭国統一という理念のため、婚姻を受け入れます。ですが、私の婚姻は、単なる血の結びつきではありません。それは、卑弥呼様より受け継いだ、邪馬台国の盟約の全てを、大和王権に委ねるという、政治的な盟約です」
比瑪の言葉に、尊が目線を上げ、その決意の重さに息を呑む。比瑪は、婚姻という私的な行為を、国家間の条約へと引き上げたのだ。
物部の族長は、比瑪の潔い返答に満足げに頷き、そして真の目的を口にした。
「よろしい。邪馬台国の血を最も強く受け継ぎ、我ら大和の王権を揺るがぬものとするため、仲彦殿との婚姻を進める」
(仲彦…)
比瑪の脳裏に、先日、極秘に謁見した青年武人の顔が鮮明に浮かび上がる。仲彦は、物部や大伴といった鉄と武力を背景にした有力豪族の出身ではない。彼は、大和の血統は古いが権力基盤が弱い、中立的な一族の出身であった。しかし、その瞳の奥には、荒々しい武力とは異なる「国を繋ぎ、外敵に抗う意志」の火が静かに灯っていた。
物部や大伴は、仲彦を傀儡とし、比瑪の血筋を大和王権の権威を飾るための道具にしようと考えている。だが、比瑪の考えは違った。
(彼は、新たなる倭王、私と共に歩むには、最適な人物…。)
この婚姻は、後の世に神功皇后と呼ばれることになる比瑪が、大和の豪族たちの思惑を超え、自らの子に「盟約の光輪」を継承させるための、最初で最後の賭けであった。仲彦を夫とすることで、比瑪は宗像の持つ「海路の支配権」を一時的に大和王権に委譲しながらも、将来生まれる子を、邪馬台国の盟約と大和の武力の両方を受け継ぐ、新たな時代の王として育成する道を選んだのだ。
「仲彦殿。しかと承知いたしました」
比瑪は、感情を完全に消した声で答える。その声は、父・比古の剣の音のように硬質だった。
そして、彼女は最後の、最も痛ましい条件を口にする。それは、彼女の故郷と、その存在理由そのものを自らの手で葬るに等しい行為であった。
「その盟約の証として、宗像に伝わる卑弥呼様より続く全ての古文書、そして海路の支配権を、大和王権に委譲します」
比瑪の視線が、尊の固く握られた拳に移った。宗像の古文書――それは単なる記録ではない。卑弥呼より続く盟約の真の系譜、すなわち「倭国」という共同体の揺るがぬ魂そのものであった。
(奴国王に与えられた金印、帥升…、全ては繋がっている)
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比瑪の記憶の中で、その古文書の紙片が鮮明に展開する。古文書は、比瑪が「海を読む目」で見た、倭国が辿ってきた真の姿を記していた。
そこには、卑弥呼が王となる遥か以前の、倭国の国際的な記録が刻まれていた。
西暦57年、後漢より授与された「漢委奴国王」の金印に象徴される北部九州の勢力。
そして、その約50年後、西暦107年に後漢に朝貢したという「倭国王帥升」の記録が、宗像の古い文字で刻まれていた。奴国王も帥升も筑紫の王であり、倭国が外の世界と交流を深めた重要な光であった。
古文書はさらに、これらの勢力が、邪馬台国という盟約の広大な圏域の一部であったことを記している。倭国は元来、一つの強大な王の下に統合された国家ではなく、海峡と海路を通じて繋がり、理念と共存を旨とする「共同体」であったのだ。
その古文書を大和に渡すことは、倭国の始まりの物語を、邪馬台国の「理念」ではなく、大和の「武力」で書き換えさせることを意味する。大和の長老たちが真に求めているのは、この古文書が持つ「倭国の起源」の正統性であり、それを手に入れることで、大和こそが歴史の最初から倭国の中心であったという物語を、自由に作り上げる権利を得るのだ。
それは、比瑪が未来の統一のために、過去の記録という、邪馬台国のアイデンティティを担保する最大の武器を自ら手放すという、自死に等しい選択であった。
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尊は、比瑪の言葉を聞きながら、膝をついた。それは屈服ではない。比瑪の背負う、あまりにも重い決意を、武人として受け止め、共にその痛みに耐えるための姿勢であった。
「比瑪様…」尊は、震える声でその名を呼ぶのが精一杯だった。
比瑪の瞳は、尊の顔を映さなかった。彼女の視線は、遠い水平線の彼方、まだ見ぬ未来の海を見つめていた。その海には、やがて彼女の血を引く子が、新たなる倭王として、再び外の世界と向き合うための、新たな船出をすることになる。
「宗像は、海路の護り手としての役目を終える。だが、盟約は滅びぬ。この血が、大和の王権に、新たな光輪を授ける」
比瑪は、その場に立ち尽くす豪族たちに向け、静かに言い放った。
彼女は、個人の人生と宗像の過去の栄光を、すべて大和に差し出すことで、自らを「盟約の継承者」から「未来の王の母」へと、その役割を強制的に移行させたのだ。
この日、大和の都で、比瑪の孤独な女王としての物語は終わり、神功皇后という、歴史の霧に覆われた新たな神話が、静かにその産声を上げ始めたのである。




