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第四章 現代パート「外圧という名の楔」

宗像の冷たい海を後にした紫苑は、福岡空港から空路で朝鮮半島へと降り立った。


目指すは、古代の百済くだらの都が置かれたとされる場所。七支刀が比瑪の手に渡った、理念と戦略が初めて対峙した場だ。


ソウルから南西へ向かう高速道路を走る車窓には、古くから続く山脈の稜線が、静かに連なっていた。その景色は、かつて比瑪が海を渡って見た、異国の風景とそう変わらないのかもしれない。


韓国の秋は深く、広大な田園地帯には、稲刈りを終えた黄金色の藁の山が点在していた。風に乗り、土と米の香りが車内に入り込んでくる。日本の九州と酷似しながらも、その大地から立ち上る空気は、より冷徹な歴史の重みを感じさせた。この地こそが、古代倭国が最も恐れ、そして利用した「外圧」の現場だったのだ。

────────────────────

紫苑は、車の速度を落とし、意識を古代へと接続させる。かつて比瑪が降り立ったであろうこの海岸線は、宗像から見て、単なる「海の向こう」ではない。それは、倭国という共同体の命運を決する外交の最前線だった。


「イオナ。宗像での『自死』は、比瑪の旅路の終盤だった。大和の長老たちの要求を呑むことは、彼女の故郷への最大の裏切りだった。だが、その裏切りを完遂するために、彼女は百済で何を手に入れた?」


スマートグラスの中で、イオナが古地図と現代の衛星画像を重ね合わせる。百済の旧都の遺跡が、現在の都市構造の中に淡い光の層として浮かび上がった。


【紫苑様。比瑪の百済訪問は、単なる『献上品を受け取る儀礼』ではありません。あれは、『倭国の未来の方向性を外部に宣言する外交戦』でした。七支刀は外交の道具である以上に、百済が抱える『高句麗という現実の脅威』を日本国内に持ち込むための『爆弾』だったと言えます】


「宣言? 七支刀の銘文は、百見、百済優位の文書だ。これをどう使って、国内の豪族を納得させるんだ?」

────────────────────

紫苑は車を降り、古代の都の遺跡、広々とした平野に立つ。ここは、比瑪が初めて、倭国の未来を外部の視点から俯瞰した場所かもしれない。


平野の遥か北、この時代、百済にとって喉元に突きつけられた剣があった。それは高句麗だ。高句麗の威勢は、比瑪が海を渡った頃から急速に増し、百済の存亡に関わるほどの脅威となっていた。七支刀が倭国に贈られたのは、百済がその焦りから、鉄と兵力の供給源として倭国を強く引き留める必要があったからに他ならない。


【鍵は、百済が抱えていた『高句麗こうくりという現実の脅威』です。百済は、この強大な外圧に抗するため、必死に倭国との軍事同盟を強化する必要があった。彼らは七支刀を贈ることで、倭国に『高句麗との戦いに備えよ』という、明確なメッセージを送った】


「つまり、比瑪は百済の『焦り』と『外部の脅威』を、国内政治に持ち込むための武器として七支刀を利用したわけだ」


【まさにその通りです。大和の長老たちは、強大な武力を持っていましたが、国際的な視点と外交の知恵を持っていなかった。彼らは、内戦の優劣しか見ていない。しかし、比瑪は倭国全体を外から脅かす存在(高句麗)を指し示し、『今、国内で争っている場合ではない』という、絶対的な公的危機を国内に突きつけたのです】

────────────────────

紫苑は、風に吹かれながら、比瑪の冷徹な戦略家の顔を想像した。


「その高句麗の力を後世にまで示す最大の証拠が、広開土王碑文だ」


紫苑の言葉に、イオナの半透明な姿の奥で、膨大なデータが一斉に起動する。現在の二人がいる場所からは遥か北、かつて高句麗(現在の中国吉林省通化市)の故地に立つ巨大な石碑のデータが、視界に投影された。


広開土王こうかいどおう碑文。建立は西暦414年。比瑪が七支刀を持ち帰った時期から、約五十年後の記録です。その内容は、高句麗の圧倒的な軍事力を雄弁に語るものであり、比瑪が当時、国内の豪族に訴えようとした『外圧の現実』を裏付ける、歴史の鉄槌とも言えます】


碑文の拓本データが、スマートグラス越しに紫苑の視界に白黒のコントラストで展開する。荒々しい筆致で刻まれた漢字群。その中の一節が、比瑪の戦略の痛切な裏付けとなった。


「『辛卯の年、倭が海を渡り、百残(百済)と新羅を破り、臣民とした』……そしてその後に、高句麗が兵を出し、倭を討ち、百済と新羅を救援した、と続く。この記述の真偽はともかく、当時の倭国が朝鮮半島で軍事的に活動していたことは示唆されている。しかし、比瑪の時代から見ると、これは未来の記録だ」


【はい。この碑文が示す高句麗の勝利と倭国の活動は、比瑪の存命時にはまだ歴史の表舞台に出ていません。しかし、比瑪は霊威を持つ巫女の血筋。彼女は、武力が最終的な覇権を握る未来の方向性と、それに伴う高句麗の不可避な台頭を予見していたのではないでしょうか】


紫苑は、碑文の冷たい石の質感を感じ取るように、そっと手をかざした。


「つまり、彼女は『銘文の屈辱』を、『碑文の現実』で覆い隠そうとした。大和の豪族たちに、『目の前の内輪揉めではなく、この恐ろしい未来を見ろ。この七支刀は、その未来に備えるための保険証だ』と、無理やりに国際情勢を直視させた」


【その解釈は、比瑪の『理念を護るためのリアリズム』と合致します。長老たちは七支刀を屈辱の象徴として受け取り、比瑪を外圧に屈した王と見下すことができた。しかし、比瑪はそれを逆手に取った。】


「どういうことだ?」


【彼女は、『私は屈従した。だが、それほどまでに事態は切迫している。この刀は、その屈辱の証であり、即ち高句麗の脅威が現実であることを示す』と宣言したのです。この屈辱は、内輪の争いを即座にやめさせるための、最も早く効く劇薬だった】


紫苑は立ち止まった。その解釈は、あまりにも冷酷で、そして鮮やかだった。


「屈辱を盾にする……。彼女は、『倭国の統一』という究極の理念のためなら、自分の名誉や王の地位さえも、国内豪族を動かすための道具として使うことを厭わなかった。広開土王の碑文という未来の事実が、彼女の孤独な戦略家としての冷徹さを際立たせる」


【理念を護るためには、全てを捨てなければならない。それが比瑪の哲学です。大和の長老たちは、比瑪の血筋と七支刀の権威を欲した。しかし、彼らが手にしたのは、盟約という名の枷をかけられた王権の座だった】

────────────────────

紫苑は、比瑪の孤独の深さを再認識した。故郷の歴史を葬り、自身の名誉を傷つけ、すべてを『理念の継続』という、誰にも見えない目的に捧げたのだ。


「彼女は、理念の継承者でありながら、同時に究極の現実主義者だった。でも、イオナ、一つだけわからないことがある」


【なんでしょうか】


「比瑪の人生の最後に、彼女の盟約の光輪は、本当に武力の炎に呑み込まれたのか? 彼女の戦略は、結局、大和王権の基盤を作ってしまった。彼女の意図とは裏腹に、歴史は霊威なき武力支配へと進んだ。これは、彼女の敗北だったのか?」


イオナの輪郭が、強い光を放つ。


【歴史は、勝敗ではなく方向性で語られます。大和王権は、確かに比瑪の血筋と盟約の権威を利用し、武力による統一を成し遂げました。しかし、倭王旨が命を賭して持ち込んだ七支刀の盟約は、千数百年の時を超えて、天皇家の根幹に『祈りと平和』の理念の種を植え付けました】


「理念の種……武力による征服の時代に、血縁を通じてでも、平和を愛する宗像の理念を国家の中枢に埋め込む。それは、まるで、鉄の甲冑の中に、光の種子を植え込むような行為だ」


【比瑪の敗北は、個人的なものに過ぎません。しかし、その理念は、公的な場所に、武力の象徴として埋め込まれた。それが石上神宮です。大和王権は、七支刀を持つことで、『我々はただの武力支配者ではない。古き盟約の継承者である』という物語を、半永久的に背負わされたのです】

────────────────────

紫苑は空を見上げた。異国の空の下で、歴史の重力と、それに逆らい続けた一人の女性の執念を感じた。この大陸の荒々しい風こそが、比瑪の心に未来の脅威を刻みつけ、彼女の戦略を完成させた師だったのかもしれない。


「そうか。彼女は『勝つ』ことを目的にしていなかった。ただ『盟約を途切れさせない』という、究極の『継続』を目的にしていたんだ。そのために、自分が敗者となることも厭わなかった」


【彼女は、時代の流れに抵抗せず、むしろ流れに乗ることで、理念という種を、最も硬い土壌(武力の中枢)に埋めたのです。その戦略は、敗北に見えて、実は未来への最長のスパンを持つ勝利だった】


紫苑の心臓が、再び高鳴る。


「では、次は、その戦略が実現された瞬間に戻ろう。七支刀が、大和の武人たちの前で公に宣言された瞬間へ」


紫苑は、スマートグラスの地図を再度開いた。目指すは、再び日本の奈良、そして古代の比瑪が立った、大和の権力中枢だ。

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