第三章 古代パート「光輪を運ぶ道」
◆登場人物
尊
狗奴国の王だった卑弥弓呼の一族に連なる武人。比瑪の護衛兼、最大の理解者となる。霊威が衰え武力が全てとなる時代において、比瑪の理念と戦略を剣として支え、その孤独な旅に最後まで付き従った人物。
~時を超えて~
宗像の海岸は、秋の終わりを告げるように、鉛色の空の下で静まり返っていた。
比瑪は、七支刀を厳重に包んだ木箱の前に立っていた。長老たちの冷たい視線が、比瑪の背中と木箱に突き刺さる。彼らの瞳には、盟約への希望ではなく、大和への屈従を選んだ指導者への沈黙の非難が宿っていた。
「比瑪様 そこから先は、宗像の潮が届かぬ地。一度渡れば、戻る船はもうございません」
長老の重い言葉が響いた後、一歩前に進み出た者がいた。
尊。彼は狗奴国の出であり、卑弥弓呼の一族に連なる武人である。
宗像と大和の間に揺れる比瑪の最大の理解者であり、その鋭い眼差しは、大和の脅威を誰よりも深く知っていた。
「長老の言葉はもっともだ、比瑪様」尊は声を低く絞った。
「我々は、海路の支配権と古文書を差し出した。それは、武力衝突を避け、大和の鉄と武力に屈したことを意味する。姫様が倭王旨という名の理念を護ろうとも、この剣が、その理念を大和に引き渡す証となるのではないか?」
比瑪は、木箱から目を離さず、静かに答えた。
「尊。あなたは、狗奴国の血を持つ者として、武力で敗北する痛みを知っている。だからこそ、武力以外の道を探るわたしの選択を、降伏と見てしまうのでしょう」
────────────────────
二人は、出航準備が整った船に乗り込んだ。七支刀の木箱が船倉に運び込まれる音を聞きながら、尊は比瑪に、この旅の根源的な疑問をぶつけた。
「比古様と沙羅様の盟約は、光輪のように倭国全体を囲い、大和と筑紫の均衡を保ったはず。なぜ、大和の脅威がここまで膨れ上がったのか。なぜ宗像は、武力で対抗することを諦めたのか?」
比瑪は、遠ざかる宗像の海岸線を指先でなぞった。
「答えは一つ。鉄です。霊威が衰えたこの時代、王権の源泉は、もはや神の声ではない。鉄の採掘、精錬、流通を、大和とその周辺豪族が独占し始めた。鉄は、戦の道具であるだけでなく、農具であり、生活の安定であり、富そのもの。宗像の海路の知恵をもってしても、内陸の鉄鉱脈を持つ大和には、資源力で対抗できない」
尊は苦い顔で頷いた。卑弥弓呼の一族も、鉄不足に苦しみ、それが滅亡の一因となった経緯を知っている。
「大和は、武力で鉄を集め、その鉄でさらに強力な武力を造り上げた。それは、もはや盟約の理念や、宗像の霊的な権威で抑え込める波ではない」
「その通り。尊。武力衝突は、宗像の経済的生命線である鉄の供給を断ち、倭国を再び内戦状態に戻す。そして、その隙を狙う高句麗などの外圧に対し、我々は無防備となる。わたしの選択は、理念を守るための、戦略的な敗北です」
比瑪の決断は、宗像の権威を大和へ譲渡する儀式ではなく、盟約の理念を大和の王権という新たな器へ移し替えるための、最後の政治的な操作であった。
────────────────────
船は瀬戸内海へと入った。潮の流れは穏やかだが、比瑪と尊の間に流れる空気は、常に張り詰めている。
「比瑪様 この航路の各地にいる豪族は、大和から鉄の供給という経済的生命線を握られている。彼らはもはや、宗像の言葉よりも、大和の武力を恐れている」
「だからこそ、わたしは百済に認めさせた『倭王旨』という中立の盾を最大限に利用する」
比瑪の読みは正しかった。ある日の夕刻、船は小さな島に停泊を余儀なくされた。島の領主は、大和の長老たちに近しい豪族であり、比瑪の船団を不当に足止めしようとした。
領主は丁重な言葉で比瑪を歓迎しつつ、出航を遅らせる理由を並べた。七支刀の到着を遅らせるという、大和からの指令が見て取れた。
比瑪は領主の前に進み出た。尊がその一歩後ろに控える。
「領主殿。あなたの言葉は、島の民の不安を映していますか。それとも、大和の長老の焦りを映していますか」
比瑪は静かに、しかし有無を言わせぬ響きで問いかけた。
領主はたじろいだ。尊は比瑪の言葉の芯に感嘆した。母・沙羅譲りの、相手の心を読む力だ。
「わたしが運ぶのは、単なる剣ではない。高句麗の脅威から、この瀬戸内海をも護るための百済との約束の『旨』だ。それを阻むことは、倭国全体の同盟を破壊することと知れ。大和の長老の私的な欲望**のために、公的な盟約を裏切るのか」
比瑪は、七支刀の銘文を外圧への盾として利用するという、百済で固めた戦略を、この小さな島で実行した。
領主は、比瑪の言葉の持つ理念の重みと、もし自分が剣の到着を遅らせれば、倭王旨という中立の権威だけでなく、百済との盟約をも敵に回すという恐怖に直面した。
彼は跪き、頭を下げた。
「ご無礼いたしました。夜明けと共に、最も速い水先案内を差し向けましょう」
尊は、比瑪の船に戻ると、感情を抑えきれない声で言った。
「まるで、武力で剣を弾いたかのように、言葉が相手を屈服させた。比瑪様は霊威なき時代に、理念を武力として振るう術を身につけられた」
比瑪は、静かに七支刀の木箱に手を置いた。
「わたし一人の言葉の力では、この剣を安置するまでは護りきれない。だが、盟約の理念は、一瞬の均衡を保つことができる。長老たちの権力欲は、必ずわたしの言葉の裏で、盟約を切り裂く機会を待っている。わたしは、その均衡を大和で確定させる」
────────────────────
船は、紀伊半島を回り込み、大和への上陸地へと辿り着いた。
比瑪は七支刀を抱きかかえ、陸路へと足を踏み出す。尊が、周囲の警戒をしつつ、比瑪の背中を見つめた。
「比瑪様。この婚姻は、宗像の長老たちにとって屈辱だった。しかし、比瑪様にとって、それは孤独以外の何物でもない。比瑪様は大和の王に『旨』を注入しようとなさっている。だが、もしその王が、その理念を支配の美名として利用しようとしたらどうなさるのか?」
尊の問いは、比瑪の最も深い恐れを衝いていた。比瑪は立ち止まり、大和の冷たい土を踏みしめた。
「わたしが護るべきは、倭王という個人の栄光ではない。倭国という共同体を一つに保つ道筋そのものです。それが、父と母が命を賭して遺した盟約の『旨』。もし、大和の王が理念を裏切るならば、わたしは倭王旨として、その理念を武力に変える。わたし自身の命を賭けた決意を、この大和で確定させる」
彼女は、七支刀の冷たい布の上から、微かに刻まれた銘文を感じ取った。
『恭謹な侯王に大吉祥あらんことを』
この表向きの祝福の言葉は、裏側の屈辱的な従属の言葉と表裏一体だ。比瑪は、この剣を、大和の王権がその祝福を得るために、永遠に盟約の理念に縛られるための物理的な呪いとして機能させようとしていた。
────────────────────
七支刀を安置する石上の社は、既に目と鼻の先である。そこは、大和の武力の中枢。比瑪は、倭王旨としての最後の力を振り絞り、その理念の光輪が大和の武力の炎に呑み込まれることを覚悟しつつも、その炎の中に盟約の芯を打ち込むべく、大和の土を踏みしめるのだった。
尊は、その強い意志を宿した背中に深く頭を垂れた。
「承知いたしました。この旅の終わりまで、の理念が武力によって裏切られぬよう、この尊が、最後まで剣としてお供いたします」
比瑪は、覚悟を決めた瞳を向け静かに口を開いた。
「武力に、理念の楔を打つ。それが、盟約を護り、時代を次に繋ぐ唯一の道だ」




