第三章 現代パート「理念の源泉」
奈良盆地の静寂を後に、紫苑は石上神宮を出発した。七支刀が眠るこの地で、比瑪ヒメの孤独な決意と理念の重さを体感した紫苑の探求は、古代の女王が歩んだ最後の旅路を逆行する形で、宗像むなかたへと向かう。
「比瑪は、この石上神宮に、倭国統一の理念を武力の炎に呑み込ませる覚悟で到着した。僕たちは、その絶望の終着点から、彼女が旅を始めた決意の源泉へと遡る」
スマートグラスの中で、イオナの輪郭が揺れる。
【紫苑様。比瑪の旅路を逆行することは、歴史の重力に逆らうに等しい。ですが、宗像には、彼女の理念が形作られた原点、そして最大の犠牲が横たわっています】
────────────────────
紫苑の車は、紀伊半島の山間から瀬戸内海沿岸へとルートを辿る。古代、比瑪は大和の鉄の経済圏が張り巡らされたこの海域で、理念を武力として振るい、公的な危機を盾に私的な陰謀を打ち破った。
「比瑪の言葉は、鉄を凌駕した。だが、その力の源は、孤独と引き換えに手放したものの大きさにある。宗像に辿り着けば、その代償の真の重さが分かるはずだ」
────────────────────
紫苑は、九州に上陸し、宗像の海岸線に立った。潮風は冷たく、彼の頬を撫でる。比瑪が尊みことと共に、大和への旅立ちを決意した朝の光景が目に浮かぶ。長老たちの沈黙の非難と、彼女の孤独な決意。
紫苑は、宗像大社の裏手にある岩場――比古が比瑪に「守人の心構え」を教えた場所へと向かった。
「イオナ。比瑪が婚姻の条件として大和に差し出したものは、海路の支配権と、宗像の古文書だ。なぜ、古文書の譲渡が、彼女の地位や婚姻以上に、最大の犠牲だったのか?」
【それは、王権の正統性を決定づけるからです。宗像の古文書には、卑弥呼から台与、そして比古・沙羅へと続く、邪馬台国の正統な系譜、すなわち盟約の真実の記録が収められていました】
「盟約の真実……それは、大和の長老たちにとって、不都合な真実だったということか?」
【はい。大和は、武力で新たな時代を築こうとしていました。彼らは、比瑪の血筋を利用して権威を得ることは望んでも、その血筋が背負う『古い理念の重荷』、特に宗像が倭国の中心であった過去は不要だったと思われます】
────────────────────
紫苑は、潮風に晒された岩に腰を下ろし、当時の長老たちの思考を追体験しようとした。
「つまり、大和は比瑪から古文書を奪うことで、歴史を白紙にし、『大和こそが倭国の唯一の正統な始まりである』という物語を、自由に書き換える権利を手に入れた。比瑪は、未来の統一のために、過去の記録という、自らのアイデンティティを担保する最大の武器を自ら手放した。これは、理念の継続を賭けた、宗像という国の自死だった」
【その通りです。古文書の譲渡は、宗像が自らの歴史的な権利を放棄し、大和の王権に歴史の主導権を委ねるという、政治的な降伏文書に等しい。比瑪の孤独とは、理念を守るためとはいえ、故郷の過去を自らの手で葬るという、この行為にこそ凝縮されています】
紫苑は立ち上がり、宗像から西へ広がる筑紫の平野を眺めた。かつて、この地は狗奴国と覇権を争い、台与と共に倭国をまとめた邪馬台国の勢力圏であった。
しかし、宗像が婚姻と七支刀の譲渡によって大和に従属する道を選んだことで、筑紫の他の国々の運命も決定づけられた。
「宗像が古文書と海路の支配権を差し出したとき、筑紫の他の国々は、どうなったんだ? 彼らは、比古・沙羅の盟約を共に護る仲間ではなかったのか?」
【彼らにとっては、宗像という盟約の中心が崩壊したことで、武力による抵抗の道が閉ざされました。宗像の降伏は、ドミノ倒しを引き起こしました】
「なぜ、武力で抵抗しなかった?」
【彼らもまた、大和の鉄の力を前に、現実的な判断を迫られました。宗像を失った筑紫の国々は、バラバラの状態で大和と戦うか、宗像の背中を追って大和の支配を受け入れるかの二択しかなくなった。比瑪の行動は、彼らに『無益な内戦を避けるための唯一の道』として、大和への恭順を強いる結果となりました】
「比瑪の孤独は、盟約の仲間を裏切るという痛みを伴った。彼女は、倭国全体の統一という理念のために、筑紫という故郷の地域的な結びつきを犠牲にした」
紫苑の胸に、比瑪の悲劇的なリーダーシップが深く響く。彼女の旅路は、一人の女性の個人的な犠牲ではなく、古い政治体制の終焉と新たな統一王朝の創設という、壮大な共同体の裏切りの物語であった。
────────────────────
宗像での探求を終え、紫苑は次の目的地へと目を向けた。比瑪の孤独な旅路の終着点(石上神宮)から源泉(宗像)へと遡った今、残るは、この物語の始まり、すなわち七支刀が誕生した場所である。
「イオナ。七支刀は、百済から倭王旨のために造られた。比瑪が、いかにして屈辱的にも読める銘文を、国内の権力闘争に利用できる外交的な武器へと変えたのか。その答えは、海を越えた向こうにある」
【はい、紫苑様。百済での交渉こそが、比瑪が倭王旨という称号と、七支刀の七つの枝に理念の呪縛を込める戦略の構築地です。そこは、理念が**現実の脅威(高句麗)**と、異国の王宮で初めて対峙した瞬間です】
紫苑は、スマートグラスの地図を、朝鮮半島へとズームさせた。彼の探求は、比瑪の理念の源泉から、その戦略の誕生の瞬間へと、新たな海を渡る決意をする。
「海を渡るぞ、イオナ。比瑪が七支刀を受け取った、光輪の始まりの場所へ」




