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第二章 現代パート「倭王旨の哲学と沈黙」

奈良盆地の東、天理市の深い森に抱かれるように、**石上神宮いそのかみじんぐうは静かに佇んでいた。紫苑は、古びた鳥居をくぐり、その境内の空気に触れた瞬間、都市の喧騒とは隔絶された「重さ」**を感じた。それは神聖さとは違う、鉄と権力の残滓だ。


「ここが、七支刀が眠る場所……」

紫苑は、本殿へと続く石段を見上げた。


【紫苑様。この場所の歴史的な役割は、比瑪ヒメの最大の外交戦略そのものです。石上神宮は、古来より物部氏が司り、神剣布都御魂ふつのみたまを御神体とする武力の聖域。倭王権の巨大な兵器庫でした】


スマートグラスの中で、イオナの輪郭が微かに揺れる。


「比瑪は、盟約の象徴である七支刀を、あえてこの武力の中枢に置いた。この決断は、彼女が霊威なき時代の統治者として、理念と武力をどう結びつけようとしたかを示している」


紫苑は、拝殿の前に立ち止まり、比瑪が名乗った称号、倭王旨について深く問いかけた。


「イオナ。『倭王』ではなく、なぜ彼女は『倭王旨』という称号にこだわった? 『旨』とは、目的、理念、本質だ。これは、彼女が王権という権力の座ではなく、盟約という理念**を背負うことを選んだという、哲学的抵抗だったんじゃないか?」


【その通りです。卑弥呼の霊威が失われた時代、王権は血筋か武力に依存するしかありませんでした。比瑪は、そのどちらでもなく、『倭国を一つにする』という盟約の理念(旨)』こそが、真の統治の核であると主張しました】


「理念を盾にするには、武力が必要だ。彼女は、百済王が贈った七支刀の銘文を、その盾とした。従属的にも読める銘文の言葉を、国際的な外圧(高句麗の脅威)の証として利用し、国内の大和勢力に強制的な盟約を突きつけた」


【はい。彼女は、理念という誰にも奪えない盾と、外圧という誰にも逆らえない剣を組み合わせたのです。そして、七支刀をこの武力の中枢に置くことで、大和の武力を盟約の枠内に強制的に留めようとした。しかし、その選択は彼女を極度の孤独に追いやりました。理念を背負う者は、血縁や利害で結ばれた共同体から、一歩距離を置かねばならない。彼女は、個人の幸福を諦め、理念の継承者として生きる道を選んだ…】


紫苑は、古代パートで描かれた婚姻交渉の痛みをなぞるように、周囲を見渡した。比瑪の選択が、いかにして彼女の意図とは裏腹に、大和王権の確立を後押ししてしまったのかを考察する。


「彼女がその理念を護るために、自ら差し出したものの重さも、計り知れない。大和の長老に求められた宗像の古文書の譲渡は、単なる記録ではない。卑弥呼・台与の時代から続く、宗像の歴史的な正統性の証拠そのものだ」


【大和は、その文書を手に入れることで、宗像の過去の権威を完全に封印し、大和が歴史の書き換えを行う自由を得ました。比瑪は、未来の統一のために、過去の記録という最大の武器を自ら手放した。そして、海路の支配権を譲渡したことは、宗像の経済的基盤、すなわち盟約の心臓部を自ら差し出したことになります】


「彼女の自己犠牲は、大和の長老たちには『恭順』と解釈された。彼女が守ろうとした理念の光輪の中心は、やがて大王の玉座へと置き換えられていった。比瑪は、理念を大和の次期王に注入しようとしたが、大和の力は、彼女の理念を美名として吸収し、支配の正統性へと変容させた。彼女の孤独と犠牲は、後の歴史によって裏切られた、と言える」


【その孤独と犠牲は、比瑪が倭王旨として果たした、唯一にして最大の功績の裏側でもあります。彼女の選択が、倭国を内戦の危機から救い、統一王朝という次の時代へと導いた。彼女は、個人の悲劇と引き換えに、共同体の未来を勝ち取ったのです】


紫苑は立ち止まり、地面にそっと手を触れる。石上神宮の土の冷たさの中に、比瑪の孤独が結晶となって埋もれている気がした。


「剣は沈黙している。だからこそ、僕たちが語り直さなければならない」


彼は立ち上がり、イオナに強い意志を込めて語りかけた。

「比瑪の最後の旅は、七支刀という物理的な力を、この大和の地に運び込む旅だ。それは、理念(旨)を武力(剣)に賭ける、彼女の人生最大の政治的・倫理的な賭けだった」


【その旅路は、比瑪の孤独の集大成です。彼女は、宗像という故郷と、婚姻という個人の未来を捨て、この大和という敵地に乗り込みました。その道中、彼女を支持する者はほとんどいなかったでしょう】


「そうだ。僕が追いたいのは、歴史の結果じゃない。過程だ。比瑪が七支刀を載せ、筑紫の宗像から、大和の石上神宮まで運んだ道のり。その道筋こそが、比瑪の孤独の証明であり、理念の軌跡だ」


紫苑は、スマートグラスの地図アプリに、宗像と奈良を結ぶ古代の海路と陸路のルートを投影させた。


「彼女は、その道中で、理念が現実に敗北していく予感と、どのように向き合ったのか。そして、この石上神宮に七支刀を納めたとき、倭王旨として、何を悟り、何を最後に決意したのか」


彼の瞳は、古代の女王の悲劇的な決意を追う、強い光を宿していた。紫苑の探求は、比瑪という一人の女性の魂の深淵へと、新たな段階を踏み込んでいく。

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