第一章 古代パート「七つの刃、ひとつの絆」
◆登場人物
比瑪
本作の主人公。比古と沙羅の間に生まれた娘で、後に「倭王旨」として歴史に名を残す。
幼少期に両親を失うが、祖父和真の遺志と両親の盟約を胸に刻み、二つの血(倭と新羅)を受け継ぐ者として成長。
外交の才覚と人を惹きつけるカリスマを持ち、やがて百済王から七支刀を授かることで倭国の盟主へと歩みを進める。
その瞳には、争いを越えて未来を結ぶ「光輪」が宿っている。
和真
比瑪の祖父。かつて卑弥呼と台与に仕えた守人であり、比古に「盟約の剣」を託した人物。
命を賭して狗奴国との戦いに挑み、倭国の「静寂の盟約」を築いた。
比古
比瑪の父。和真の遺志を受け継ぎ、沙羅と共に新たな盟約を築いた守人。
「剣は人を繋ぐ橋」という理念を娘に遺し、戦乱の中で命を賭して倭国の未来を護った。
沙羅
比瑪の母。新羅王族の血を引く女性で、波乱の運命を越えて比古と結ばれる。
異国の文化を倭国にもたらし、外交・歌・技術など多方面に影響を与えた。
卑弥呼
邪馬台国の女王。和真の主君であり、倭国の基盤を築いた。
比瑪にとっては「遠い始まり」の象徴。
台与
卑弥呼の後継者。倭国を「静寂の盟約」の時代へと導いた。
難升米
魏へ使者として渡った倭人。倭国の存在を大陸に示した外交官。
~時を超えて~
百済・都城の大殿には、深紅の幔幕が垂れ、香の煙が静かに漂っていた。倭国の使節団を迎えるため、百済の王室は威厳と華やかさに満ちていたが、その空気の底には、北方から押し寄せる高句麗の脅威が濃く漂っていた。
若き倭の女王――比瑪は、その場に静かに立っていた。
年の頃は二十歳に差し掛かったばかり。肩に落ちる黒髪を一結いに束ね、母から受け継いだ薄い紗の上衣を重ねた。胸の内には、潮の呼吸に似た規則と乱れが交互に訪れている。凛とした瞳には、父・比古と母・沙羅から受け継いだ強靭な意志と、どこか深い孤独の影が宿っていた。
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百済の使節団が倭の盟主との会見を求めている、との報を受けたのはひと月前。霜の気が宿る朝、宗像の広殿に低いざわめきが走った。
使節団から話を聞いた比瑪は、即座に答えた。
「私が百済に行く。王にはそう伝えてほしい」
「比瑪様!」
盟約を結んでいるとはいえ、異国の地に向かおうとする比瑪を長老たちは制止したが、比瑪は首を振り、言葉を続けた。
「卑弥呼様、台与様、お爺様、父上、みな自身の目で異国を見ることが叶わなかった。私はこの目で異国を見て、肌で感じたいのだ」
最後には長老たちが折れる形で比瑪の百済行きが決まった。
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玉座に座す百済王は、重々しい声で宣言した。
「倭国は、我らの盟友である。ここに、七つの枝を持つ神剣を賜う。これは我が国が倭国との絆を永遠に誓う証である。」
侍臣たちが恭しく布に包まれた剣を捧げ持ってきた。布が解かれると、陽光を浴びて奇跡のような光が広殿を満たした。
七本の枝刃を持つその剣――七支刀。刃は細く、枝のように広がる突起はまるで天を指す雷光の化身。冷たい鋼に刻まれた銘文は、古代の誓いと未来の祈りを宿し、時を超えてなお燦然と輝いていた。
比瑪は両手でその剣を受け取った。掌に伝わる重みは、単なる鉄の質量ではなかった。
それは、父が遺した「剣は人を繋ぐ橋となれ」という言葉、母が語った「国境を越えても心を閉ざすな」という願い、そして自らが背負う「倭王」としての未来の責務――すべてが宿る刃の重みであった。
「これは、父と母の遺志を継ぐ証…。そして、倭を未来へ導く道標。」
比瑪の胸に、熱い決意が湧き上がった。七支刀の刃先がわずかに震え、その揺らぎは、まるで彼女の心臓の鼓動と共鳴しているかのようだった。この剣を掲げることで、倭国は百済と共に未来を拓く。だが同時に、それは新たな戦乱の渦に巻き込まれることを意味する。
比瑪は知っていた。七支刀は「絆」の象徴であると同時に、血を呼ぶ「刃」でもあることを。それでも、彼女は逃げなかった。比古と沙羅が守った「静寂の盟約」を、今度は「倭王」として、外の国々との和に変えてゆくために。
比瑪は静かに剣を掲げた。七つの刃が光を散らし、広殿の天井に星々のような輝きを映した。
――その瞬間、彼女の物語が始まった。そして、この七支刀は、後の世に至るまで「倭王の系譜」を照らす光と影の象徴となっていくのだった。
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大殿を後にした比瑪の足取りは、海を渡る船のように確かだったが、その心は決して穏やかではなかった。
掌に残る七支刀の冷たい感触は、百済との同盟という「光」を意味すると同時に、倭国内部の緊張という「影」をさらに濃くする予感に他ならない。祖父・和真や父・比古が辛うじて保ってきた、畿内(東)と筑紫(西)の間の脆弱な盟約の均衡は、この異国からの贈物によって、必ずや揺さぶられるだろう。
この「光と影の象徴」を掲げるために、彼女がこれまでどれほどの試練と、どれほどの教えを潜り抜けてきたか。
比瑪は、百済の風に吹かれながら、まるで夢を見るように、宗像の里での幼い日々へと意識を巡らせた。
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比瑪は、物心ついた頃から、他の子どもたちとは異なる静寂と鋭敏さを持っていた。泣き虫だった幼児期を過ぎると、彼女は潮風にさらされた岩の上に一人腰掛け、海の彼方をじっと見つめることが多かった。
里人たちは彼女のこの様子を、畏敬の念を込めて「海を読む目」と呼んだ。彼女が水平線を凝視し、わずかな波の色や潮目のゆらぎの変化を指摘すると、それは必ずと言っていいほど漁の成否や嵐の前触れと一致したからだ。
老人は「比瑪様は、ただ海を見るのではない。海の底で動く、人の心を見ている」と囁いた。この天性の資質は、倭国という共同体を統治する上で、やがて最も重要な能力となる。
彼女が最初に「盟約」という言葉の重みを体で知ったのは、父・比古から剣術を習い始めた時だった。
比古の稽古場は、宗像大社の裏手にある岩場だった。朝焼けの光が届くか届かないかの時間に、比古は、彼女の小さな手に木剣を持たせ、ただひたすらに「守人」の心構えを教え込んだ。
「良いか、比瑪。この剣は、ただの鉄ではない。これは約束だ」
父の言葉は厳格で、孤独だった。比古は、倭国という共同体を護るために、自らの命を削るように生きた武人であり、その背中には常に、卑弥呼や台与の時代から続く「孤独な盟約の継承者」としての影が落ちていた。
「抜くより先に、握りなおすことを覚えよ。剣は、相手を斬るためにあるのではない。お前が護りたいものを、お前の決意で囲うためにある」
そして、比古の最も重い教え。
「力を振るう時こそ迷うな。迷いは、お前と、お前が護るものを、同時に斬り裂く」
比瑪は、父の孤独な剣の音を聞きながら、力の使い方ではなく、力の止め方を学んだ。剣術は、感情を制御し、命を懸けた決意を研ぎ澄ますための儀式だった。
一方、母・沙羅は、彼女に言葉の力を教えた。沙羅は、卑弥呼の時代からの霊威や呪術に頼るのではなく、大陸から伝わる文字や異国の礼法を深く理解していた。
「言葉は剣よりも深く斬る。そして、言葉は剣よりも永く絆を繋ぐ」
沙羅は、畿内と筑紫の間の微妙な文化の違い、海を越えた百済や新羅の習慣を、歌や詩、そして作法として比瑪に伝えた。比瑪は、幼い手で古文書の文字をなぞり、その意味を噛みしめることに熱中した。遊びよりも学びを好む彼女の気質は、まさに「盟約」の継承者としての資質を示していた。
「異国の王と向き合うとき、あなたが最初に振るうべきは、剣ではなく、敬意と真実です。父上がその剣で国境を護ったように、あなたはその言葉で、人の心の境界線を結びつけなさい」
比瑪は、両親の異なる教えを、自らの内に矛盾なく統合していった。剣と、言葉。武力と、外交。どちらか一方に偏ることなく、その二つをもって、不安定な倭国を支える「光輪」となること。それが彼女に課せられた使命だった。
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成人に近づく頃には、比瑪の資質は周囲にも鮮明になっていた。彼女は、新しい倭の女王として、誰もが認める「盟約の光の継承者」となっていた。しかし、その輝きは、彼女自身の孤独と、両親の早すぎる死という悲しみの上に成り立っていた。
比古と沙羅は、倭国の未来を案じながら静かに息を引き取った。比瑪は、両親の死を深く悲しんだが、その悲しみは、すぐに決意へと変わった。
そして今、彼女は百済で、その決意の象徴である七支刀を手にしている。
比瑪は、再び掌を強く握りしめた。七つの刃は、百済との絆を繋ぐと同時に、国内の七つの豪族の期待と嫉妬、そして新たな戦火の可能性をも内包している。
「盟約の光輪は、私自身が立たねばならぬ」
比瑪は船に乗り込み、帰国の途についた。彼女の「海を読む目」は、水平線の向こう、倭国の地で動き始めている不穏な潮目を見据えていた。