第八章 古代パート「王の孤独と、大乱の予兆」
◆登場人物
沙耶
宗像の巫女
先代の巫女である月代の理念を継ぎ、宗像の海人族を束ねる巫女。
帥升
私的な利権を貪った「漢委奴国王」の勢力に代わり、倭国のクニの一つを束ねた王
~時を超えて~
西暦107年。筑紫の海辺は、穏やかな潮の音とは裏腹に、クニ同士の緊張した静寂に包まれていた。
沖合を行き交う舟は少なく、かつて繁栄を誇った港も、今はどこか活気を失っている。
鉄の流れが細り、交易路は痩せ細り、人々の声には、目に見えぬ不安の翳りが混じっていた。
宗像の広殿に続く石段に、一人の男が立っていた。帥升。
彼は、五十年前、月代が打ち破った「漢委奴国王」の勢力に代わって、倭国のクニの一つを束ねる王の地位にあった。
年の頃は四十代。その顔には、深い皺と、海路の遠い彼方を見つめるような、疲弊した意志の光が宿っている。
幼い頃、彼は月代が海破を退けたあの夜の話を、何度も耳にして育った。
金印を掲げ、漢の権威を笠に着た王が打ち倒され、宗像の巫女が「霊威なき王」を退けたという伝説。
その物語は、彼の中に「理想の王」とは何かという像を刻み込んだはずだった。
だが、現実の帥升は、理想とは程遠い、疲弊した政治の渦中にいた。
彼の目の前に、宗像の巫女、沙耶が静かに座していた。
月代から盟約の真の理念を受け継いだ、若き守人である。
柔らかな黒髪を後ろで束ねたその姿は、一見か弱くも見えるが、瞳の奥には海の底のような静かな深さが宿っていた。
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「沙耶。宗像は、なぜ漢との公的な繋がりを拒むのだ」
帥升の声は、静かだが重い。
それは、理想を捨てきれぬ王の問いであると同時に、食糧不足と内乱の兆しに追い詰められた一人の男の悲鳴でもあった。
沙耶は、伏せた目線を上げずに答える。
「帥升殿。漢の権威は、クニを護る盾ではありません。それは、私欲を肥やすための刃です。
五十年前、海破が漢から『漢委奴国王』の金印を与えられました。
彼はその勢いのまま刃を振り、盟約の理念は傷つけられました。
我らは、その毒を王権に混ぜてはならないのです」
巫女の声は柔らかいが、一言一言が刃のように鋭く、迷いがなかった。
帥升の脳裏に、かつて聞いた月代と海破の物語がよぎる。
金印を掲げた王が、交易の利を独占し、異を唱えるクニを武力で押さえつけた日々。
富は一部の者に集中し、飢える民は増え、やがて海破は自らの傲慢さゆえに討たれた――。
五十年前に月代が封印した金印。
その王権は、交易の利権を独占し、倭国の共同体の調和を乱した。
帥升は、その歴史を知っている。しかし、今の倭国は、私的な武力闘争が再び起こりかねない、脆い均衡の上にあった。
「理念だけでは、クニは飢える。交易は細り、大陸からの技術も途絶えた。
このままでは、また『大乱』が来る。血が流れるのだ!」
帥升の言葉には、焦燥と、王としての純粋な悲願が滲んでいた。
彼自身、飢饉の冬に、痩せた子どもたちが麦の殻を拾い集める姿を、この目で見てきた。
盟約の理想を唱えるだけでは、彼らの空腹は満たせない――それが、彼の実感だった。
彼は、クニを護るために、公的な外交が必要だと信じていた。
武力ではない、外からの権威と知識によって、内側の争いを抑え込もうとしたのだ。
沙耶は、静かに首を振る。
「平和は、外の権威ではなく、内側の分かち合いから生まれます。
それが、未来へと続く、盟約の道筋です。
王の目指す平和は理解できますが、その手段が……」
沙耶はそこで言葉を切り、短く息を吸った。
続く言葉には、帥升の痛みを思いやる逡巡が滲む。
「……その手段が、人の命を数に変える道ならば、それは盟約の光から、もっとも遠いところにあります」
沈黙が広殿を満たした。
潮騒だけが遠くから響き、二人の間に横たわる溝の深さを、静かに告げていた。
「沙耶。お前たち宗像の巫女は、いつも高みから“正しさ”を語る。
だが、私の手は血で汚れる。
その血を、せめて未来のための礎に変えたいと願うことさえ、許されぬのか」
帥升の呟きは、自嘲にも似ていた。
沙耶はようやく顔を上げ、彼をまっすぐに見つめた。
「許すか否かを決めるのは、わたくしではありません。
その血を、未来の者たちがどう受け取るのか――その時代の子らが決めるでしょう。
けれど、今ここでお伝えできるのは一つ。
王が孤独だからこそ、理念を捨てた先にあるのは、より深い孤独だということです」
帥升は、その視線から逃げるように立ち上がった。
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帥升は、広殿を後にした。
彼の背中には、沙耶の言葉と、共同体を護りきれないかもしれないという、深い孤独が張り付いていた。
石段を下りながら、彼はふと、幼い頃に抱いた夢を思い出す。
“いつか、自分も月代のように、争いを終わらせる王になりたい”
あの無邪気な願いは、今や重すぎる現実に押し潰され、かすかな残響だけを残している。
彼の乗る船は、数日後、ひっそりと筑紫の海岸を出港した。
その船倉には、漢への献上品が積まれていた。
飢えと混乱の倭国には、大陸の王に献上できるような貴重な宝はない。
帥升は、苦渋の末、最も忌まわしい手段を選ばざるを得なかった。
生口(奴隷)百六十人。
彼らは、内乱で敗れたクニの捕虜たちであり、帥升にとっては、共同体を存続させるための「犠牲」であった。
中には、まだ少年と呼ぶべき年頃の者もいた。
縄をかけられた手首をさすりながら、彼は震える声で故郷の村の名を呟いている。
老いた女は、膝を抱え、どこか遠くを見つめていた。
帥升は、それ以上彼らの顔を見ないよう、意識して視線を逸らした。
船が静かに海路を進む。
帥升は船首に立ち、遠ざかる倭国の岸辺を見つめていた。
彼の決断は、宗像の盟約が最も忌み嫌う「人間を道具とする」行為だった。
しかし、彼は自らに言い聞かせた。
(この屈辱が、次の平和への礎となる。漢の威光があれば、国内の私闘は鎮まる。
私の命が尽きても、このクニは繋がれる)
波頭が砕ける音が、彼の心の中の祈りをかき消す。
それでも彼は、拳を握りしめ、視線を前へと向けた。
彼の外交は、純粋な目的のために、理念を切り捨てた、孤独な王の賭けだった。
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帥升の朝貢は成功し、安帝への拝謁を果たすが、その成果は彼の望むようなものではなかった。
漢の宮殿は、磨き上げられた石畳と高い楼閣に満ちていた。
輝く玉座の前で、通辞を介して交わされる言葉は、あまりにも形式的で、冷たかった。
「倭の王、貢を奉ること、まことに勤しみ深し」
「恩寵として、印綬を下賜し、恩を示す」
儀礼的な言葉が並び、帥升の胸に熱く燃えていた「倭国を護る」という切実な願いは、
漢の王にとっては、いくつもある異国の一つに過ぎないのだと、はっきりと思い知らされるだけだった。
漢からの返答は形式的で、倭国の王権に絶対的な権威を与えるには至らなかった。
生口の献上という手段は、国内の豪族たちに「王は民を道具とした」という非難の種を与え、
宗像の盟約を護る者たちにも、決定的な失望を与えた。
帥升が帰国したとき、彼の権威はすでに地に堕ちていた。
「王は自らの位を守るために、人を売った」
「盟約を掲げた宗像を踏みにじり、漢の犬となった」
そんな囁きが、港の荷降ろし場から、山間の集落にまで広がっていった。
当初は帥升を支持していた豪族たちでさえ、民衆の不満と外圧の狭間で、次第に距離を取り始める。
彼の孤独な外交の失敗は、結果的に、倭国のクニ同士の不信感を決定的なものにした。
各地で武力が暴発し、帥升は自国の民から殺される結果となった。
盟約の理念が完全に霧散していった瞬間だった。
彼の血が大地を濡らした時、
かつて月代と海破が争った時代から綿々と続いてきた「王のかたち」は、静かに崩れ始めていた。
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広殿の屋根の上で、沙耶は遠くの空を見つめていた。
冷たい風が、彼女の衣をはためかせる。
彼女の瞳には、すでに血の色の予兆が映っていた。
「王の孤独は、クニの孤独となった」
ぽつりと漏らしたその言葉は、広殿の瓦に吸い込まれていく。
その予兆は、やがて歴史に記される「倭国大乱」という形で現実のものとなる。
小さなクニの争いは、やがて全土を巻き込む血の嵐へと変わる。
あちこちで、かつて盟約を共に語ったはずのクニ同士が、
鉄の刃を向け合う未来が、すでに薄く見えていた。
しかし――
沙耶は知っている。
この大乱という最も濃い霧の中でこそ、失われた盟約の真の理念を体現し、
全ての争いを終わらせる、霊威の光が、やがて生まれることを。
それは、卑弥呼、台与、和真、比古と沙羅、比瑪たちが守り抜こうとした「和」の灯が、
ひとたび闇に呑まれかけながらも、別のかたちで再び灯るという、長い長い物語の折り返し点でもあった。
風が、宗像の社の古文書の、空白の頁を一枚、静かに捲った。
そこにはまだ、何の文字も記されていない。
だが沙耶には、その空白の下に、すでに別の時代の鼓動が脈打っているのが分かった。
その空白の先に、後に卑弥呼と呼ばれる巫女の、時代の夜明けが待っていた。
そして、その卑弥呼の遙かな未来で、
紫苑とイオナ、そして読者たちが読み解いていく「盟約の光輪」の物語へと連なる、
長い長い時の螺旋が、静かに回り始めていた。
邪馬台国異聞Ⅲ~盟約の光輪~古代パート 完
――邪馬台国異聞三部作、完。
邪馬台国異聞シリーズ(霧の記憶、空白の系譜、盟約の光輪)の三部作はこれで完結となります。
三部作を通して描いてきた倭国の物語は、一人の英雄の活躍ではなく、
幾つもの時代、幾つもの意志が重なり合いながら紡がれた「継承の物語」でした。
最古の時代に立つ 海破や帥升 は、
倭人がまだ諸部族に割れていた頃、外の大国に自らの存在を
示した「最初の発信者」でした。
その行動は倭国が外との関係を模索する最初の火種であり、
のちの世に続く外交と統合の原点となりました。
続く 月代 と 沙耶 は、
史書に名を残さぬ市井の者として描かれましたが、
彼らの生き方が示した “個の尊厳と意思” は、
後の時代の王たちに受け継がれる精神的基盤となりました。
彼らこそ、無名のまま倭国を支えた数多の民の象徴でした。
そして、ついに歴史に名を刻んだ 卑弥呼。
霊威をもって戦乱を鎮め、倭国をひとつの共同体へとまとめた巫女王。
彼女が示した「和」の理念は、
後の世のすべての王たちが背負うことになる “道しるべ” でした。
その遺志を継いだ 台与 は、
幼き身で国を守り抜き、「静かなる治世」が
もたらす豊かさを倭国に根づかせました。
台与の時代に芽生えた「静寂の価値観」は、
のちに和真・比古・比瑪が掲げた理念の核となります。
しかし、倭国は常に順風満帆ではありませんでした。
卑弥弓呼や狗古智卑狗が率いた狗奴国は、
倭国のもう一つの正統として立ちはだかり、
「武による秩序」という考え方を体現しました。
彼らの存在は、武と和の対立が倭国の宿命であることを示しています。
その時代の裂け目に生きたのが 和真 でした。
卑弥呼から台与へと続く理念を受け継ぎながら、
狗奴国の火種を抱え込んだ倭国を再び束ねようとした人物。
和真が遺した「盟約の剣」と「静寂の誓い」は、
倭国の未来を護るための最後の羅針盤となりました。
和真の息子 比古 と、
異国・新羅から流れ着いた 沙羅 は、
血脈と文化を越えて結ばれた、倭国と外界の融合点でした。
彼らが宗像で示した「二つの文化が共鳴する力」は、
比瑪という新たな王の器となり、倭国の未来を方向づけます。
そして最後に、三部作の集大成である主人公 比瑪。
彼女は、卑弥呼が築いた霊威の時代、
台与が守った静寂の時代、
和真・比古・沙羅が命を賭して繋いだ理念のすべてを受けとめ、
時代の転換点に立たされた女性でした。
倭国が「霊威の王」から「鉄の王」へ移行する時代。
古代最大の選択を迫られた比瑪は、
どの王よりも孤独で、どの王よりも先を見据えていた存在です。
彼女が選んだのは、
血筋の誇りではなく、
武の拡大でもなく、
理念を未来へ運ぶという、見返りのない献身の政治でした。
彼女の“光輪”は、倭国そのものの未来を照らし、
時代が変わっても消えることのない
静かで強い光として、物語の中心で燃え続けてきました。
三部作の古代編は、
こうした数多の意志と血脈が重なり合うことで、
ひとつの倭国の歴史をかたちづくってきました。
海破・帥升が灯した最初の火は、
卑弥呼が和として束ね、
台与が守り抜き、
和真・比古・沙羅が命を使って繋ぎ、
比瑪が未来へと託した――。
その長い長い軌跡こそが、
三部作を貫く「静かな光」の正体だったのかもしれません。
読者の皆様が、この旅の終わりに優しい余韻を抱いていただけたなら、
それが作者として何よりの喜びです。




