第六章 古代パート「盟約の結実」
~時を超えて~
比瑪の人生における最も困難な使命は、成し遂げられた。
誉田別命。後の応神天皇となる若き王は、すでに成人し、武力と外交における類稀な才覚を示し始めていた。彼の背中には、百済との盟約を公的なものへと昇華させた武人の光が宿り、視線には、大和の豪族たちが持つ私的な野心とは一線を画した、清廉な王の自覚が宿っていた。
比瑪は、彼に宗像の「古文書」を文字として見せることはしなかった。文字は編集され、歴史は権力者の都合で編み直されることを、彼女は知っていたからだ。彼女が彼に託したのは、生きた記憶。すなわち「口伝」であった。
「誉田。真の王の武力とは、己の利害のために振るわれるものではありません。ただ、この倭国という共同体を、海を越えた脅威から護り抜くために、公的な光輪として存在するものです」
深夜、大殿の奥まった場所で、比瑪は誉田別命に、卑弥呼が統治した時代の真実、狗奴国との悲劇的な争いの経緯、そして父・比古と母・沙羅が異国で盟約の知識を研ぎ澄ました孤独な道のり、そのすべてを語った。それは、歴史という名の血と涙の系譜であった。
「母上。あなたは、なぜそこまでして、私にすべてを託されるのか」
誉田別命は、比瑪の、衰弱した両手を握り、涙を堪えながら問うた。
「それは、私が『旨』だからです」比瑪は静かに答えた。
「霊威が失われ、知識が権力にすり替わる時代、私は盟約という名の理念を、武力という新しい器に繋ぎ止めるための、ただの導管。あなたの武力と、あなたの心こそが、その理念を永遠に護り抜く、強靭な器となります」
比瑪の言葉は、単なる歴史の伝承ではなかった。それは、王としての使命感を誉田別命の魂に深く刻み込む、儀式そのものだった。誉田別命の瞳には、宗像の理念を継承し、倭国全体を守るという、揺るぎない覚悟が灯った。
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誉田別命が王として立ち上がり、外交と軍事を公的なものへとシフトさせ始めた時、比瑪の役割は終わった。
大和の長老たちは、比瑪が百済との交渉ルートや、尊率いる公的武力を強化したことで、私的な利権を脅かされつつあった。彼らは比瑪の衰弱を見透かし、最後の抵抗を試みた。
「倭王旨よ。あなたはもう、長くは立ち続けられない。宗像の古文書を大和の長老会議に完全に譲渡し、その権限を解放すべきだ」
長老たちは、古文書に記された知識を、再び彼らの私的な権力闘争の道具として使いたがっていた。
比瑪は、広殿の玉座から、彼らを静かに見下ろした。彼女の顔色は土気色だったが、瞳の奥の光は、卑弥呼にも劣らぬ強さを持っていた。
「古文書は、すでに誉田別命の心の中にあります。文字という脆い器ではなく、生きた王の理念として。あなた方が求めるものは、ただの紙の束。その価値は、すでにありません」
この言葉は、比瑪の最後の、そして最も冷徹な戦略であった。古文書そのものには意味がなく、それをどう使うかの「旨」こそが重要である、と。彼女は、長老たちにとって最も価値のあるもの(古文書)を、あえて価値のないものと断言することで、彼らの最後の望みを断ち切った。
「私の使命は、誉田別命への理念の継承をもって完了しました。今後は、王(誉田別命)が倭国を護り抜くでしょう」
その足取りは弱々しいが、彼女の背中は、もう誰にも追いつけないほど遠いところにあった。
「尊。もうこれ以上、私がこの地で為すべきことはありません…。邪馬台国へ、宗像へ帰りましょう…」
最後に彼女が口にしたのは、幼い頃から共に歩んだ盟友への、静かな命令だった。最期の旅は、己の人生を振り返る旅であると同時に、孤独な使命を終えた者の、魂の解放の旅であった。
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霧島の山々は、比瑪が立つ丘の背後で、穏やかな青い稜線を描いていた。風は澄んで冷たく、どこからか白檀の香りが運ばれてくる。
倭王旨として、そして宗像の理念を大和に移植する術者として生きた彼女の体は、すでに長い旅の終着を迎えていた。百済との交渉、大和の豪族との駆け引き、そして何よりも、誉田別命へ、宗像に封じられた真の歴史と盟約の「旨」を口伝で継承させるという重責が、その生命の灯を削り取っていた。
隣には、尊が静かに立っている。狗奴国の末裔にして、比瑪の最も信頼する武人であり、盟友。彼の額には、かつての野蛮な闘争心ではなく、公の武力として倭国を護り抜くという、揺るぎない覚悟の光が宿っていた。
「尊」
比瑪の声は、細い絹糸のようだった。
「この地は、やはり特別ですね。卑弥呼様が、霧の向こうに魏の都を夢見た場所。台与様が、すべてを背負い、狗奴国との境を守り抜いた場所」
尊は、比瑪の視線が向かう先を見た。広大な盆地。かつて、卑弥呼の霊威が倭国全体を包み込み、そして卑弥弓呼が最後まで抗った国境の山々。
「全ては、この地から始まった。霊威という光が、世界を護っていた時代」
尊は静かに答える。
「そして、今は武力という光が、盟約を護る時代へと変わった」
「ええ。私たちは、変わらぬ理念のために、器を変えなければならなかった」
比瑪はゆっくりと歩き出した。杖に寄りかかるその足取りは弱々しいが、視線は遠い過去を見つめている。
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二人は、かつて卑弥呼が祭祀を行った磐座の近くまで来た。巨石群は、数百年を経てもなお、強い霊的な気配を放っている。
比瑪は石に手を触れた。冷たい感触の奥に、強い炎を感じる。
(卑弥呼様。あなたの霊威は、争いを終わらせ、倭国を統合した。しかし、その力は、あなたが亡くなった途端、再び霧に飲まれようとした。だから、母・沙羅は、霊威を、知識という形に変える盟約を結んだ)
彼女の脳裏に、幼い頃に母から聞かされた物語が蘇る。父・比古が剣を磨き、母・沙羅が文字を編み、台与様が託した「盟約」の真の形を模索した日々。そのすべてが、この霧島の地で一度途切れた絆を、再び結び直すための、血の滲むような努力だった。
「父上と母上は、宗像で、大和と筑紫が和合する未来を信じた」
「そのために、古文書のすべてを大和に渡された」尊が呟く。
比瑪は微笑んだ。
「それは、父上の剣と、母上の歌が結実した、最も重い盟約の履行でした。古文書の文字は、再び権力者の私的な争いの道具になりかねない。だから、私はそれをあえて手放し、武力の力を得る光輪とした。そして、その盟約の『旨』を、誉田別命に託すことで、理念を永遠に王権の核に留めたのです」
比瑪は、誉田別命に、卑弥呼や台与が守ろうとした「倭国という共同体」の真の姿を語った。そして、その共同体を護るために、武力を私的な争いではなく、公的な外交と防衛のためにのみ振るうという、宗像の理念を刻み込んだ。
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日が傾き、二人は海へと向かった。
宗像の海。比古と沙羅が眠る墓標は、潮風に晒されながらも、静かにそこに立っていた。
比瑪は、墓標の前に跪いた。尊は少し離れた場所で、海を見つめている。
「父上、母上」
潮騒だけが答える。
「すべてを終えました。父上が私に託してくださった、武力の力の使い方。母上が私に授けてくださった、言葉と知恵」
比瑪は目を閉じる。比古の孤独な剣の音、沙羅の優しくも強い歌声が、耳の奥で聴こえるようだった。
「卑弥呼様、台与様、そしてお二人が命を懸けて繋いだ盟約は、形を変え、大和の新しい王に継承されました。誉田別命は、必ずや、この倭国を外敵の脅威から護り抜くでしょう」
彼女は最後に、そっと付け加えた。
「私は、比古と沙羅の娘として、倭王旨として、孤独ではありませんでした。尊が、最後まで私の隣にいてくれましたから」
風が、比瑪の髪を優しく揺らした。
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宗像の夕陽は、燃えるような赤だった。地平線に向かうその光の道筋が、まっすぐに比瑪のいる場所へと伸びている。
比瑪は、尊にもたれかかり、遠くの海をじっと見つめていた。
「尊。ありがとう」
「比瑪様。あなたこそ、真の女王でした」
「いいえ。私は、盟約を繋ぐための、ただの『旨』。器は、もう充分に役割を果たしました」
比瑪の視線が、ふっと遠のいた。意識の奥で、卑弥呼の霊威が霧となって立ち上るのが見えた。その霧は、台与の澄んだ炎、比古の鋭い剣光、沙羅の優しい歌声と混じり合い、大きな光輪となって、遠い大和の空へと昇っていく。
(誉田別命……あなたの未来へ)
最期の瞬間、彼女の唇は、微かな微笑みを浮かべた。それは、孤独な使命から解放された者の、安堵の表情だった。
尊は、比瑪の手に温もりが無くなるのを感じながら、彼女の体をそっと抱き上げた。
彼は立ち上がり、比瑪の亡骸を抱いたまま、燃えるような夕陽の海を見つめる。
盟約は、結実した。光輪は、未来へ昇った。
ここに、倭王旨・比瑪の、孤独な生涯は終わりを告げる。
その理念は、誉田別命(応神天皇)という新しい王権の核となり、遥か未来へと流れ始めた。




