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第六章 現代パート「盟約の終着」

大阪府羽曳野市誉田。

河内平野の西端、遠く金剛・生駒山系を望む地に、巨大な山が静かに横たわっていた。自然の山ではない。四世紀末から五世紀初頭にかけて築造された、国内最大級の前方後円墳。誉田別命ほむだわけのみことの陵、すなわち応神天皇陵だ。

────────────────────

紫苑の乗る車は、その陵墓を囲む鬱蒼とした森と、広大な堀の水面に反射する鈍い光を浴びながら、静かに停車した。堀に満ちた水面は、悠久の時間を閉じ込めた鏡となり、空の光を静かに反射している。その圧倒的なスケールと均整美は、単なる王の墓というより、武力と権威が結晶化し、新しい王権の形がこの地に打ち立てられたことの、物理的な証明であった。


「ここが、比瑪ひめが理念を託した、盟約の終着点……」


紫苑は車を降り、堀のほとりに立つ。風が水面を撫で、小さくも強い波紋が広がった。


「奈良盆地ではなく、河内。大和の中心地からあえて距離を置き、海路・水路が集中するこの地に、彼女は終焉の地を選んだ。比瑪の戦略は、奈良の大和豪族の私的な武力を、国際的な外交拠点である河内へと移動させ、公的な力へと変質させることにあった」


【紫苑様。この陵墓は、比瑪の政治戦略の結実です。大和の豪族たちが武力によって築こうとした王権の形が、宗像の理念という光輪によって、公的な枠組みの中に強制的に納められた。この巨大な墳墓は、その成功を誇示し、誰もその権威に逆らえぬよう、後世に打ち立てられた、冷徹な物理的な楔です】

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紫苑は、陵墓の後円部に鎮座する誉田八幡宮の方向を見た。深い森の奥から、厳かな古代の信仰の重さが、空気の層となって流れ出してくる。


「誉田別命は、歴史の中では応神天皇として即位し、さらに千年を超えて八幡大菩薩はちまんだいぼさつとして、日本の人々の心に残り続けた。これは単なる血統の継承ではない。理念の不朽の証だ」


【はい。現在も全国の八幡宮にて主祭神としておまつりされ、お寺の方でも八幡大菩薩というように仏様として、古くから神仏の隔てなく親しまれてきました。ご陵の後円部に鎮座しお祀りしてきた当宮でも、江戸時代までは、お寺が併存し神職と僧侶が一緒になって祭祀を行っていた、神仏習合の核となる場所です】


紫苑は、スマートグラスの奥でイオナが展開した歴史資料を注視した。


「比瑪の勝利は、歴史の記録に文字を刻むことではなかった。文字は編集される。比瑪は、人の信仰という、誰にも編集できない不朽の媒体に、盟約の理念を埋め込んだ。この信仰が、日本の歴史において、様々な人物や文化に影響を及ぼし、現在も続いている。この継続する信仰こそが、比瑪の孤独な闘いが成功した何よりの証だ」


比瑪が宗像の古文書という脆い器を捨て、誉田別命という生きた器に盟約を託し、最終的に彼が神として人々の心のよりどころとなり続けたこと。それは、比瑪の「盟約の光輪」が途切れることなく回り続け、時代を超えた日本の精神的な背骨となったことを意味していた。


【誉田別命という人物が、霊威と武力、そして信仰という、あらゆる日本の力の根源を一身に統合し、維持してきたのです。この永続的な信仰こそが、比瑪が命を賭して護りたかった『倭国という共同体の存続』を、歴史の深層で保証し続けたのです】

────────────────────

紫苑は、堀のほとりから、ただただこの巨大な陵墓を見つめていた。その圧倒的な静寂の裏側で、イオナの分析とは別の、歴史の沈黙が彼に語りかけてくる。それは、比瑪という一人の女性が味わった、計り知れない孤独と痛みの記憶であった。


「彼女は、宗像という故郷のすべてを犠牲にした。愛する父・比古、母・沙羅が命を賭して護り抜いた古文書、すなわち盟約の真実の記録を、自らの手で大和の長老たちに差し出した。それは、故郷の過去、そして自己のアイデンティティを、未来のために自死させるに等しい行為だった。」


【紫苑様。比瑪の選択は、極めて冷徹な政治判断でした。しかし、その冷徹さの裏側には、個人の感情、女性としての幸福、そして何よりも故郷への愛が、深く押し込められています。】


「愛を捨てなければ、愛を護れなかった。理念を貫くには、感情を殺す必要があった。彼女は、血縁と利害で絡み合う大和の豪族たちの中で、ただ一人、『倭国という共同体の存続』という公的な理念を掲げ続けた。周囲の誰もが、彼女を『外圧に屈した姫』『大和に組み込まれた宗像の血筋』と見ていたはずだ。その侮蔑の視線に、彼女は耐え続けた。」


紫苑は、堀のそばに生えた一本の松に背を預けた。目を閉じると、比瑪が七支刀を奉納した石上神宮での、武人たちの嘲笑にも似た視線、そして、大和の屋敷での重く閉ざされた空気の中に、誉田別命を育んだ彼女の孤独な日々が、まるで映画のように脳内に展開する。


比瑪は、古文書という文字の器が脆いことを知っていた。文字は焚かれ、編集され、書き換えられる。歴史の編集者が権力を握れば、真実など容易に歪められる。彼女は、その編集者である王権そのものに、自らの理念を生きた記憶として継承させるという、人類の歴史上、最も危険で、同時に最も確実な賭けに出たのだ。


そのために、彼女は、愛する息子に、『真の歴史』と『盟約の重み』を、誰にも盗めぬ口伝として授け続けた。それは、王としての喜びではなく、理念を背負う者としての重荷を、幼い誉田別命の肩に載せることを意味していた。母として、その行為がいかに辛く、痛みを伴うものだったか。


「彼女は、王妃として生きたのではない。理念という名の神の生きた器として、孤独に役割を演じきった。そして、その役割を終えるとき、彼女は権力の中心地である大和でも、戦略的な拠点である河内でもなく、故郷の宗像へ戻ることを選んだ。最後に、倭王旨でも王妃でもなく、比古と沙羅の娘、一人の女性として、宗像の海を見ながら静かに眠りたかったのだろう。」


紫苑の心には、比瑪への深い共感が湧き上がる。彼女の勝利は、権力の座を得たことではない。すべてを捨てたからこそ、理念を未来永劫に渡って存続させるという、誰も真似のできない、壮絶な精神的勝利であった。


この巨大な陵墓の威容は、比瑪の権力の証ではない。それは、孤独な一人の女性の、悲願の成就と、自己犠牲の大きさを示す、歴史への鎮魂歌なのだ。

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紫苑は、陵墓の堀の水面に視線を落とし、比瑪の冷徹な政治戦略の裏側を想像した。彼女は、王の称号にさえ、理念を刻んだのだ。


「誉田別命は、歴史に名を残した倭の五王の最初の王、倭王讃わおうさんと同一視されている」


【『宋書』に記された倭の五王。その最初の名である『讃』の字は、『ほめる』『たたえる』という意味を持ちます。比瑪が名乗った『倭王旨』が『盟約の目的(旨)』を意味したとすれば、誉田別命が名乗った『讃』は、『盟約の目的が達成され、その功績が歴史に讃えられた』ことを象徴しているのではないでしょうか。それは王自身の栄光ではなく、比瑪の理念が実現し、新しい王権が確立されたことへの、歴史からの賛辞です】


紫苑は、その解釈に強い確信を覚えた。比瑪は、王の称号にさえ、理念の達成という最終的なメッセージを込めたのだ。


「誉田別命は、母から託された理念を忠実に実行した。私的な武力闘争から脱却し、百済との盟約を履行し、高句麗の脅威を退けるという公的な外交・軍事に力を注いだ。その結果が、『讃』という称号を与えられた王権の確立だ」


【そして、誉田別命(倭王讃)以降、彼の系譜は途切れることなく継承されます。倭王珍ちん倭王済さい倭王興こう倭王武へと続く倭の四王。彼らは、中国南朝に積極的に朝貢し、朝鮮半島への軍事支援を継続しました。これは、比瑪が七支刀という楔で固定した『外圧という大義名分による公的武力の行使』というシステムが、完全に機能し続けた証拠です】


彼ら倭の五王の外交の記録こそが、比瑪が古文書を犠牲にしてまで生み出した、「盟約の光輪」が途切れず回り続け、倭国が国際社会の中で存続するという、比瑪の目的を達成した何よりの証拠であった。

────────────────────

紫苑は深く息を吸い込んだ。宗像の潮風と、大和の熱い土の匂い。すべての旅の記憶が、この巨大な陵墓の威容の中で、静かに収束していく。


「空白の系譜は、ここで完全に埋まった。比瑪の孤独な旅は、この不滅の信仰と、歴史に刻まれた王の系譜という形で結実した。彼女は、歴史に名を残すことよりも、理念を存続させることを選んだ。その冷徹さが、この国の未来を決定づけた」


【比瑪は、歴史の編集者に、『倭国という共同体を護る武力は、公的な目的のために使われなければならない』という、最も重要な真実を、王の記憶という核に埋め込むことで、未来永劫に渡って王権を支配し続けた。歴史は比瑪の存在を矮小化しましたが、彼女の理念は、この国の背骨となったのです】


紫苑は、スマートグラスの電源を落とした。目の前の水面が、再びただの堀の水となる。古代の記憶は、彼の心の中に、熱い確信として焼き付けられた。


「……古代の旅は終わる。盟約の光輪は、歴史の中で回り続けた。だが、僕たちの編み直す旅は、まだ終わらない」


紫苑は、比瑪が古文書から切り離した、別の二つの空白の時代――「漢委奴国王」と「倭国王帥升」の時代へと意識を向けた。比瑪が歴史を未来に繋ぐために、あえて葬った過去の断片。それは、この『盟約の光輪』を完成させるための、最後のピースである。


「比瑪が触れた、倭国の始まりの光と影。それを巡る旅が、僕に残された最後の空白だ」


彼は、誉田別命の陵に最後の別れを告げ、車へと戻る。彼の視線の先には、比瑪が最後に故郷で見たであろう、邪馬台国(霧島デルタ)の記憶への道のりが開けていた。


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