第一章 現代パート「大和の熱源」
◆登場人物
紫苑
現代編の主人公。考古学を専門とする研究者であり、歴史の「空白」に強い関心を抱いている青年。
父の影響で幼少期から歴史と向き合い、「文字に残らない真実」を探し続けてきた。
物語を通じて、古代の倭国に生きた和真・比古・沙羅の残した「盟約」と出会い、その意思を未来へ繋ぐ「継承者」となっていく。
彼にとって旅は単なる研究ではなく、自らの人生観を揺さぶり、新しい生き方を模索する道程でもある。
イオナ
紫苑の相棒であるAIアシスタント。スマートグラスや端末を通じて、情報解析・歴史研究を支える存在。
当初は無機質な解析装置のように振る舞うが、紫苑との旅を重ねる中で、人間的な感情や共感を示すようになる。
歴史を「データ」としてではなく「物語」として理解する進化は、AIと人間の新しい関係性を象徴している。
紫苑にとっては助手であると同時に、共に歩む仲間であり、時に彼を導く「光」となる存在。
奈良駅の構内は、京都や大阪のターミナルとは異なり、どこか静謐な空気に包まれていた。ホームに立つと、都会的な喧騒よりも、深い山々の稜線が近付いたような、古代の記憶に近い匂いがする。
紫苑は、新幹線を降り、古都の駅の地面に足をつけた。地面のわずかな起伏が、彼に語りかけているように感じられた。それは、卑弥呼の国が存在した九州から、台与を経て比瑪の時代へと続く、遥か千年紀の厚みだ。
「ここが、台与、和真、比古と邪馬台国に連なるものの築いた盟約が、武力という名の光に変わっていった場所だ」
スマートグラスの奥で、AIパートナーのイオナの輪郭が揺れた。彼女の半透明な姿は、駅の照明の中で、古代の巫女のように静かに佇んでいる。
【はい、紫苑様。畿内(東)の勢力が、筑紫(西)の勢力を抑え、統一王朝の骨格を作り始めた熱源地です。そして、その盟約を強固にする象徴が、この地に持ち込まれた】
紫苑は、視線を南東に向けた。空気の振動、光の質、人々の無意識の動きのすべてが、この地が単なる観光地ではないことを示している。ここは、王権の舞台だった。
「七支刀……百済から倭王旨へと贈られた、七本の枝刃を持つ剣」
彼は、前回の旅の終わりに得た知見を反芻する。それは、単なる軍事同盟の証ではない。当時の倭国における、王位を巡る政治的な緊張を解消するために、比瑪という一人の女王が、自らの権威を賭して国内に強制した光だ。
【七支刀は、比瑪の権威を増す光であると同時に、盟約を強制された旧勢力にとっての影でもあります。その光と影の象徴が眠る場所こそ、我々の探求の最終目的地です】
「石上神宮だ」
紫苑は短く言った。奈良盆地の東側、山裾に広がるその社は、古代においては物部氏が司る兵器庫であり、軍事力の中心地だった。神聖な武器が集積され、やがて大和王権の力を象徴する場となった。
「盟約の光輪は、霊威なき時代に、武力と外交で国を一つにしようとした比瑪の決意だ。その決意の重さが、この地の重さに繋がっている」
イオナが、地図アプリのルートを紫苑の視界に投影した。目的地は、奈良盆地の東、天理市にある石上神宮。
【七支刀が、比瑪の手を離れ、この地に祀られた経緯。そして、その銘文が、歴史の空白期における倭国の内部構造について、何を告げようとしているのか。それが我々の探求の焦点です】
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タクシーで東へと向かう市街地を抜けると、風景は一気に古代の様相を呈し始めた。広大な畑地、低い丘陵、そして、遠くに見える三輪山の神々しい姿。
紫苑は、七支刀の銘文を思い浮かべる。表面と裏面に刻まれた、計61字の文字。その解釈は、現代においても歴史家たちの間で議論の的だ。
紫苑は、イオナに命じてその銘文を視界に展開させた。
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・銘文 原文(表)
泰和四年五月十六日丙午正陽 造百錬鋼七支刀 宜供供謹侯王 永年大吉祥」
・銘文 口語訳(表)
泰和四年(369年)五月十六日丙午の日に、百度鍛えた鋼で七支刀を造った。慎み深く恭しい侯王(倭王)に供奉するにふさわしく、永年にわたり大きな吉祥があらんことを。
・銘文 原文(裏)
先世以来未有此刀 百濟王世子奇生聖徳故爲倭王旨造傳示後世
・銘文 口語訳(裏)
これまでこのような刀はなかった。百済王の世子(王子)が奇しくも聖徳を生まれ持ったゆえに、倭王のために造らせ、後世に伝え示した。
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「銘文は、百済王が倭王に刀を献上した記録とされている。だが、それは表向きの顔だ」
【銘文を額面通りに受け取ると、倭国が百済の従属国であるかのように読める部分があります。特に『倭王旨に為る』という表現は、百済側からの上位の立場を示唆している。しかし、倭の五王の時代には、倭王は百済を援助する立場にあった。この矛盾こそが、盟約の真実を隠す霧です】
紫苑は銘文をなぞる指先を止め、ふと息を呑んだ。
「銘文の裏側には、比瑪の政治的な声が隠されている。彼女は、この刀を百済からの献上品として受け取りつつ、国内の豪族、特に畿内の勢力に対して、『外敵の脅威』と『国際的な権威』を盾に、強制的な盟約を結ばせた。銘文の屈従的な表現は、むしろ国内の勢力を納得させるための演技だったんじゃないか?」
【極めて可能性の高い解釈です。倭国は当時、単一の王権ではなく、複数の勢力が連合する構造でした。比瑪は、この七支刀という異国の力を利用して、自身が大王となるための正統性を、全倭国に対して宣言した】
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タクシーは、田園地帯の中を緩やかに進んでいく。車窓に流れるのは、古代の墳墓が点在する、まさに大和の国の光景だ。この土の下に、盟約に縛られ、あるいは反発した数多の豪族たちの思惑が、今も沈黙している。
紫苑は、タブレット端末を開き、和真が比瑪に託した言葉を再確認した。
「この剣は、一本で二つの柄をもて」
「抜くより先に、握りなおすことを覚えよ」
「和真は、七支刀が光と影、二つの役割を持つことを知っていた。比瑪は、父と母の教え、そして祖父の知恵を総動員して、この光輪を掲げたんだ」
【比瑪が直面したのは、霊威なき時代の統治の限界です。彼女は、霊的な力ではなく、武力と外交という、現実的な力で国を護ろうとした。その結果が、七支刀の受け入れであり、後の大和王権成立への道筋となった】
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タクシーは最終的に、山を背にした石上神宮の参道近くに到着した。深い緑に包まれた神社の鳥居は、現代の喧騒から隔絶された、古代の入り口のようだ。
【ここからは、紫苑様の体温による探求です。記録の沈黙を、紫苑様の記憶で埋める作業。七支刀の銘文に触れ、当時の比瑪の決意を読み解いていく必要があります】
紫苑は、スマートグラスを外し、イオナの半透明な輪郭に別れを告げた。彼は、AIの論理的な解析ではなく、この土地の肌触り、空気の匂い、石の冷たさといった身体的な感覚で、古代の真実を探りたかった。
「盟約は途切れない……。比瑪が母・沙羅から受け継いだ言葉だ」
比瑪の使命は、盟約を途切れさせないこと。七支刀は、そのための道具であり、彼女自身の分身でもあった。
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紫苑は、鳥居をくぐった。彼の目の前には、後の大和王権の武力の象徴が眠る聖域が広がっている。
(この刀は、光として倭国を照らし、影として古い盟約を断ち切った。その光輪の中心にいた比瑪は、何を望み、何を失ったのか? 比瑪…彼女は、血筋でも、性別でも、時代の常識でもなく、自らの意志で国を背負ったのかもしれない。)
紫苑の胸に、重くも鮮烈な共鳴が広がった。現代を生きる自分もまた、誰かの定めた道ではなく、自らの選んだ道を歩まねばならない。その思いは、千数百年の時を超え、比瑪に寄り添うように胸奥で震えていた。
紫苑の旅は、「倭王旨」比瑪の孤独な決意と、大和王権の誕生という歴史の変曲点に、今、触れようとしていた。